ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(3) 懐良親王が薩摩へ

鎌倉幕府滅亡後の権力構造は二転三転し、南北朝の争乱はまったく収集がつかない状態が続く。

 

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引き続き「南九州の南北朝争乱」を進める。今回も『島津国史』(19世紀初め頃に鹿児島藩薩摩藩)が編纂した正史)に沿って南九州の動き見ていく。元号については北朝南朝のものを併記。日付は旧暦で記す。

 

北朝方がじわじわと制圧


暦応2年・延元4年(1339年)8月13日
足利家配下の畠山直顕(はたけやまただあき)が再び日向国三俣院の高城(場所は現在の宮崎県都城市)を攻める。この城をめぐる戦いは建武3年12月(1337年1月)より続いているが、高城の肝付兼重(きもつきかねしげ)勢が守り続けていた。


暦応2年・延元4年(1339年)8月16日
南朝後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が崩御後村上天皇(ごむらかみてんのう、後醍醐天皇第七皇子の義良親王)が即位する。

 

暦応2年・延元4年(1339年)8月27日
畠山直顕が高城を陥落させる。肝付兼重は自刃しようとした。しかし、配下の江田家定がこれを止めて身代わりとなって死に、肝付兼重は脱出することができた。


暦応3年・延元5年(1340年)1月24日
島津宗久(しまづむねひさ、島津貞久の嫡男)が急死する。享年19。落馬がもとで死んだとも伝わっている(『薩州旧伝紀』による)。

 

暦応3年・延元5年(1340年)3月3日
幕府から守護の島津貞久(しまづさだひさ)に薩摩に帰国して南朝勢力を討伐するよう命令が下る。島津宗久(伊作宗久、いざくむねひさ、貞久とは従兄弟)もいっしょに薩摩へ帰国するよう命じられた。

このことは、南九州の南朝方の勢い強かったことをうかがわせる。


暦応3年・興国元年(1340年)8月
島津貞久が禰寝清種(ねじめきよたね、禰寝氏は大隅国禰寝院の国人)・禰寝重種(しげたね)・椙保末(薩摩国和泉郡御家人、「和泉保末」とも)らを率いて、伊集院忠国(いじゅういんただくに)の本拠地である薩摩国伊集院の一宇治城(いちうじじょう、別名「伊集院城」、現在の鹿児島県日置市伊集院)を攻撃。あわせて市来院の市来城(いちきじょう、現在の現在の鹿児島県日置市東市来)を攻めた。市来城の市来時家を降伏させ、一宇治城を孤立させた。

鹿児島の城跡

鶴丸城跡、市来城の本城にあたる

同じ頃に、鹿児島郡の矢上高純(やがみたかすみ)・中村忠秀(なかむらただひで、か、矢上氏の一族)も抵抗。東福寺城(とうふくじじょう、現在の鹿児島市清水町)を中村忠秀が守り、大隅から肝付兼重の援軍もここに合流した。矢上高純は催馬楽城(せばるじょう、別名「矢上城」、現在の鹿児島市坂元)に入った。

 

暦応3年・興国元年(1340年)8月12日
島津貞久は伊集院から鹿児島へ軍を動かし、島津師忠(佐多忠光、さたただみつ)を先陣として東福寺城を攻めた。催馬楽城へは島津資久(樺山資久、かばやますけひさ)・島津資忠(北郷資忠、ほんごうすけただ)らが向かう。大手(正面)から資忠、搦手(背後から)資久が攻めかかった。なお、師忠・資久・資忠はいずれも島津貞久の弟である。

鹿児島の城跡

東福寺城の本丸跡

 

暦応3年・興国元年(1340年)11月27日
島津貞久方の莫禰成長・莫禰貞遠・莫禰貞雄が催馬楽城を攻撃。
莫禰(あくね)氏は薩摩国北部の莫禰院(あくねいん、現在の鹿児島県阿久根市)郡司の一族である。莫禰成長は当主で、貞遠はその孫。貞雄は甥。


暦応3年・興国元年12月6日(1341年1月)
島津師忠(佐多忠光、さたただみつ)が東福寺城に夜襲を仕掛ける。禰寝清種・禰寝重種らが活躍する


暦応4年・興国2年(1341年)2月16日
島津資忠(北郷資忠)・島津資久(樺山資久)が再び催馬楽城を攻撃。

 

暦応4年・興国2年(1341年)4月26日
島津師忠(佐多忠光)が東福寺城を陥落させる。28日には支城である尾頸小城も落ちる。

東福寺城を奪った島津氏は、ここを鹿児島の拠点とする。

 

暦応4年・興国2年(1341年)閏4月16日
島津資忠(北郷資忠)・島津資久(樺山資久)・禰寝清種・禰寝重種らが催馬楽城を攻め落とした。


東福寺城跡と市来城跡については登城記があるので、詳しくは別記事にて。

 

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催馬楽城の痕跡は残っていないが、「南朝之忠臣矢上高純公居城址」の記念碑がある。現地の看板によると昭和の初め頃には石垣も残っていたという。城があったのは坂元小学校や坂元墓地のあたりだろうか。ちなみにこの周辺は、「催馬楽(せばる)」と呼ばれている。

鹿児島の城跡

催馬楽城跡地にある矢上高純の顕彰碑

 

暦応4年・興国2年(1341年)8月15日
島津貞久が伊集院忠国がたてこもる伊集院の平城(現在の日置市伊集院町古城)を攻撃する。忠国は一宇治城からやや南の平城に兵を退いて抗戦を続けていた。禰寝清種・禰寝重種らに功あり。

伊集院忠国の守りは固く、城は落ちない。

 

暦応4年・興国2年(1341年)8月28日
島津貞久薩摩国加世田別府(現在の鹿児島県南さつま市加世田)の垣本城を攻撃。島津資忠(北郷資忠)・椙保末(和泉保末)・椙保三(和泉保三)・莫禰成長らに功あり。

 

懐良親王がやってきた!


康永元年・興国3年(1342年)5月1日
この年に、南朝征西大将軍である懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、後醍醐天皇の第八皇子)が薩摩入りしたとされる。『阿蘇文書』によると、阿蘇宮司家への令旨(5月8日の日付が入る)の中に「征西将軍今月一日着御薩州津」と記され、これが事実なら5月1日が薩摩入りの日となる。

懐良親王は溪山郡(現在の鹿児島市谷山)郡司の谷山隆信(たにやまたかのぶ)に迎え入れられ、谷山城近くに御所を設けて南朝方の薩摩での本拠地とした。御所の場所は、現在の鹿児島市南部斎場のあたりとされている。その敷地の一角にはかなり立派な記念碑もある。これは大正11年(1922年)に松方正義(まつかたまさよし、内閣総理大臣などを歴任)が建てたものだ。このあたりには「御所ヶ原」という地名も残っている。

懐良親王の薩摩入りを機に、劣勢だった南朝方が再び勢いを盛り返すことになる。

 

鹿児島の史跡

谷山の懐良親王御所跡

鹿児島の史跡

谷山の御所跡からの眺望

 

鹿児島の城跡

谷山本城(千々輪城)跡

谷山本城(千々輪城)跡の本丸

谷山本城(千々輪城)跡、周囲は住宅街

なお、懐良親王薩摩入りについては、『島津国史』では触れていない。正史に記すには都合が悪かったのだろうか。

 

康永元年・興国3年(1342年)8月5日~8月7日
島津貞久が谷山城を攻撃。6日には北朝方は佐佐野木原(谷山に「笹貫(ささぬき)」と呼ばれる場所があるが、このあたり)に陣取り、中手尾崎で南朝方と戦った。7日には篠原国道(薩摩国牛屎院の国人)・椙保末・禰寝清種・禰寝重種らが攻め出し、谷山で合戦が繰り広げられた。南朝方には谷山氏・知覧(ちらん)氏・給黎(きいれ)氏・別府(べっぷ)氏などが集結し、迎え撃った。北朝軍は苦戦し、島津貞久は鹿児島に退く。


康永元年・興国3年(1342年)8月13日
島津貞久が禰寝清種・禰寝清増らを率いて、再び伊集院平城を攻める。守りは固く落ちず。


康永2年・興国4年(1343年)9月12日
島津貞久催馬楽城を攻める。同年11月7日に陥落させた。比志島範平・邊牟木頼秀(比志島氏の一族)・石原忠充(伊集院氏の一族)らに功あり。催馬楽城は暦応4年(1341年)に北朝方が落としたが、その後、南朝方が再び奪い返していた。


貞和元年・興国6年(1345年)4月7日
島津宗久(伊作宗久)が薩摩国伊作荘(現在の鹿児島県日置市吹上)で合戦。伊集院忠国は伊作荘北部の南都一乗院領に侵攻し、この地を奪って田尻・坂本・今田に城を築いていた。島津宗久(伊作宗久)はこの3城を攻めた。


貞和2年・興国7年(1346年)5月
島津貞久は伊集院忠国を伊作より退去させた。伊集院忠国は北朝方に降る。


貞和2年・興国7年(1346年)6月1日
南朝方が薩摩国河邊郡の高城に集結して島津貞久を攻撃しようとしている、と密告する者があった。比志島氏に命じて、出兵させた。


貞和2年・興国7年(1346年)7月~9月
伊集院忠国がふたたび叛旗をひるがえし、薩摩南部に侵攻する。伊作地頭の島津宗久(伊作宗久)と、薩摩国阿多郡(現在の南さつま市金峰)地頭の二階堂行仲(にかいどう)は自領に入って守りを固めた。また、援軍の渋谷氏も野崎村(現在の日置市吉利)に城を築く。7月3日に南朝方は貝柄崎(南さつま市金峰に貝殻崎城跡がある、このあたりか)へ兵を出し、野崎城と対峙した。

伊集院忠国が薩摩国日置郡の若松城(現在の日置市吉利)を攻撃。8月27日に城は落ちた。28日には島津宗久(伊作宗久)領の日置荘内を攻め落とす。伊集院忠国は阿多の一帯を制圧した。9月4日に渋谷氏は野崎城を棄てて退却し、島津宗久(伊作宗久)と二階堂行仲は孤立する。


貞和2年・興国7年(1346年)9月21日
伊集院忠国と鮫島家藤(さめじまいえふじ、阿多郡の地頭)が奉行所(鹿児島の貞久の拠点)を攻めようとしている、という知らせあり。島津貞久郡山城(現在の鹿児島市郡山)の郡山頼平に命じて守りを固めさせた。

 

貞和2年・興国7年11月21日(1347年1月)
足利直義は教書を下して、島津貞久と島津宗久(伊作宗久)に伊集院忠国・鮫島家藤を攻めさせた。

 

貞和3年・正平2年(1347年)1月~2月
谷山城の谷山隆信のもとに南朝方の武将が集まって戦に備えつつあるという情報が、北朝方にもたらされる。島津貞久は比志島氏一族に警戒を強めるよう指示する。また、野田又太郎と重久篤兼(しげひさあつかね、大隅の国人)にも参陣を促した。

 

貞和3年・正平2年(1347年)6月
南朝方が東福寺城を攻撃。中村覚純(矢上氏の一族)の内応により支城の浜崎城を南朝方に奪われ、谷山隆信らの軍に熊野水軍和歌山県南部のあたりの海賊)も合流して東福寺城に攻めかかった。島津貞久は苦戦するが、島津忠氏(和泉忠氏)の活躍で浜崎城を奪還。その後、北朝方は谷山へ進軍して南朝方との決戦に及ぶ。こちらの戦いは南朝方が勝利した。

鹿児島の城跡

東福寺城跡の南側。石橋記念公園から見る。こちら側が支城の浜崎城にあたる。

なお、これらの戦いの経緯は『島津国史』では触れられていない。『阿蘇文書』や『入来院氏文書』などに記されている。


貞和3年・正平2年(1347年)9月11日
島津久氏(伊作久氏、いざくひさうじ、伊作宗久の次男)が摂津国天王寺(現在の大阪市天王寺区)で戦死。島津久氏(伊作久氏)は幕府に近習として仕え、畿内で戦いに従軍していた。


貞和3年・正平2年(1347年)11月
懐良親王が谷山を発って、肥後国へと向かった。

鹿児島の神社

谷山神社。懐良親王を御祭神とする。


懐良親王が薩摩にあった6年ほどの記録は、『島津国史』ではやや情報量が薄い印象がある。戦いの記録も抜け落ちているものがあるようで、この記事では一部を他の資料から補完した。

『島津国史』は正史なので、島津氏にとって都合の悪いことは書かれないのである。この時代、島津貞久は苦戦したようで、負け戦も多かったと推測される。負け戦を「なかったことにする」というところまではいかないまでも、「書かなかった」のだと思う。懐良親王の存在にもまったく触れられていない。

南北朝の争乱、まだまだ続く……。

 

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<参考資料>
『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

『鹿児島県の歴史』
著・発行/鹿児島県社会科教育研究会 高等学校歴史部会 1958年

鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年

『谷山市史』
編/谷山市史編纂委員会 発行/谷山市 1967年

『松元町郷土誌』
編/松元町郷土誌編さん委員会 発行/松元町長 九万田萬喜良 1986年

『郡山郷土史
編/郡山郷土誌編纂委員会 発行/鹿児島市教育委員会 2006年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

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