ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

戦国時代の南九州、激動の16世紀(6)清水・加治木の動乱、ザビエルの来訪

島津貴久(しまづたかひさ)が本宗家の継承者となった。だが、もともとは分家である島津貴久の台頭に反発して、天文11年(1542年)に13人の一門衆・国衆が反乱を起こす。大隅国の生別府(おいのびゅう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)や加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)で戦いとなり、島津貴久は苦戦する。そこで、本田薫親(ほんだただちか)に単独講和を申し入れ、これを成立させる。反乱の中心人物でもある実力者を味方に引き込むことで、事態の収拾をはかろうとした。天文14(1545)年には一門衆の島津忠広(しまづただひろ、分家の豊州家)と北郷忠相(ほんごうただすけ)も帰順し、島津貴久を島津氏当主と認めた。さらに、京より使者があり、摂関家の近衛家から衣冠束帯が贈られる。島津貴久は島津氏の代表者とみなされた。

 

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だが、敵対勢力は依然として多いのである。西大隅の平定に向けて島津貴久の戦いは終わらない。

なお、日付は旧暦で記す。

 

島津貴久に味方する者、敵対する者

天文14年(1545年)頃の島津貴久の勢力範囲は薩摩国の鹿児島・谷山(たにやま)・伊集院(いじゅういん)・串木野(くしきの)・市来(いちき)・日置(ひおき)・伊作(いざく)・田布施(たぶせ)・加世田(かせだ)・河邊(かわなべ)・鹿籠(かご)、大隅国の吉田(よしだ)など。傘下となっている国衆を含めると、おおむね薩摩半島中南部(現在の鹿児島市・日置市・いちき串木野市・南さつま市・南九州市・枕崎市にあたる)を支配下においていた。

島津忠良(ただよし、島津日新斎、じっしんさい、貴久の父)も健在で、島津貴久とともに戦いの最前線で指揮をとる。

 

他の有力領主の情勢は次のとおり。

樺山善久(かばやまよしひさ)
もともとは大隅国小浜(おばま、霧島市隼人町小浜)の領主だが、旧領を失って島津貴久より谷山に所領を与えられている。島津支族。島津貴久の姉を妻とし、一貫して貴久に味方する。

島津忠俊(しまづただとし)
薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)の領主。島津支族で、のちに喜入氏を名乗る

佐多忠成(さたただなり)
薩摩国知覧(ちらん、鹿児島県南九州市知覧)の領主。島津支族。島津忠良の妹を妻とする。

種子島時堯(たねがしまときたか)
大隅国種子島(たねがしま)の島主。時期は不明だが、島津忠良の娘を娶っている。

北原兼守(きたはらかねもり)
日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)・大隅国栗野院(くりのいん、鹿児島県姶良郡湧水町)などの領主。肝付氏庶流。

本田薫親(ほんだただちか)
大隅国清水(きよみず、霧島市国分清水)の領主。島津貴久との和睦の見返りとして小浜(樺山氏の旧領)も得ている。島津勝久(かつひさ、14代当主)の国老でもあった。

廻久元(めぐりひさもと)
大隅国廻(めぐり、鹿児島県霧島市福山町)の領主。本田氏の傘下。

敷根頼賀(しきね、名の読みわからず)
大隅国敷根(しきね、霧島市国分敷根)の領主。本田氏の傘下。

上井為秋(うわいためあき)
大隅国上井(うわい、霧島市国分上井)の領主。本田氏の傘下。

島津忠広(しまづただひろ)
分家の豊州家(ほうしゅうけ)の当主。日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)・櫛間(くしま、宮崎県串間市)・志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)の領主。

北郷忠相(ほんごうただすけ)
日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市のあたり)の領主。島津支族。

肝付兼続(きもつきかねつぐ)
大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点に広範囲を領する。肝付氏嫡流。島津貴久の姉を妻とし、同盟関係にある。この頃、大隅国に勢力を広げつつある。

禰寝清年(ねじめきよとし)
大隅国禰寝院(ねじめいん、鹿児島県肝属郡南大隅町根占のあたり)の領主。前守護の島津勝久(かつひさ、14代当主)の妻の実家であり、こちらを支援していた。しかし、島津勝久は豊後(現在の大分県)に逃亡した。

伊地知重武(いじちしげたけ)
大隅国下大隅(しもおおすみ、鹿児島県垂水市のあたり)の領主。島津勝久の国老でもあった。

肝付兼演(きもつきかねひろ)
大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)の領主。肝付氏庶流。島津勝久の国老でもあった。

祁答院良重(けどういんよししげ)
大隅国帖佐(ちょうさ、姶良市の中部)・薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町のあたり)の領主。渋谷一族。

蒲生茂清(かもうしげきよ)
大隅国蒲生院(かもういん、姶良市蒲生)の領主。

入来院重朝(いりきいんしげとも)
薩摩国入来院(いりきいん、薩摩川内市入来・樋脇)・薩摩国薩摩郡(薩摩川内市の川内地区)の領主。渋谷一族。重朝の妹は島津貴久の継室で、島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)の母である。

東郷重治(とうごうしげはる)
薩摩国東郷(とうごう、薩摩川内市東郷)の領主。渋谷一族。

菱刈重州(ひしかりしげくに)
大隅国菱刈・薩摩国大口(ひしかり・おおくち、鹿児島県伊佐市)のあたりを領する。この頃は、子の菱刈重豊(しげとよ)・菱刈重猛(しげたけ)・菱刈隆秋(たかあき)の名がよく出てくる。

島津実久(さねひさ)
分家の薩州家(さっしゅうけ)の当主。一時は島津氏の実権を握った(守護職についたとも)が、島津忠良・島津貴久に敗れて没落する。薩摩半島に広大な勢力を誇っていたが勢力を大幅に縮小し、この頃は本領の薩摩国出水(いずみ、鹿児島県出水市のあたり)に拠っていた。島津貴久は潰しにはいかない。ほかで手一杯で余裕がなかったからだろう。

伊東義祐(いとうよしすけ)
日向国中部(宮崎市のあたり)に広大な勢力を持つ。さらに南へ勢力拡大をはかり、飫肥(豊州家領)や庄内(北郷氏領)へ侵攻を繰り返す。

相良晴広(さがらはるひろ)
肥後国球磨(くま、熊本県人吉市のあたり)の領主。この頃、島津貴久とは同盟関係か。

 

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島津貴久を支持するのは、樺山氏・島津氏(喜入)・佐多氏・種子島氏・肝付氏(高山)・本田氏・北原氏・北郷氏・豊州家など。だが、北原氏が本田氏や北郷氏と敵対していたり、肝付氏(高山)と豊州家が勢力争いを展開していたりと、けっこう火種もくすぶっている。

肝付氏(加治木)・蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏などとは、依然として敵対関係にあったと思われる。

 

 

 

本田薫親、再び叛く

島津貴久は天文14(1545)年に藤氏長者の近衛家から信任を得たが、その取り次ぎを行なったのは京とのつながりを持っていた本田薫親だった。島津貴久は近衛家から資金調達を求められるが応じず。官位も求めなかった。京とのつながりにあまり興味がなかったようである。

近衛家から島津家に資金拠出の催促がたびたびあり、そのたびに本田薫親が取り次ぐ。京との関係は深くなる。本田薫親は領内に貿易港を持ち、そこで得た唐物(舶来品)を献上して官位を得ようと願い出る。そして、天文16年(1547年)に本田親兼(ちかかね、薫親の嫡男)の「従五位下左京大夫」への任官が実現する。本田氏は大隅国守護代を務めてきた家柄で、島津氏から独立して大隅国守護職の獲得も狙っていたようである。

天文17年(1548年)、本田氏に内訌が起こる。本田薫親は、伊地知又八郎・本田又九郎ら家臣10余人を殺害する。理由はよくわからないが、家中で何かしらの揉めごとがあったのだろうか。また、諫言をしようとした家臣たちも大隅国清水を出奔したという。なんとなく、この混乱には島津氏の工作もあったのでは? という気もする。

山城跡、麓には神社が鎮座

北辰神社(天御中主神社)の背後の山が清水城跡

 

同年3月11日、本田親知(ちかとも、薫親の従兄弟)は姫木城(ひめきじょう、霧島市国分姫城)で挙兵し、上井城主の上井為秋もこれに呼応した。本田薫親は姫木城を攻めるが勝てず。

この混乱に乗じて本田氏領内には敵対勢力が侵攻してくる。北原兼守が日当山城(ひなたやまじょう、霧島市隼人町日当山)を攻めて奪う。また、祁答院良重・肝付兼演は小浜に侵攻して生別府城(おいのびゅうじょう、霧島市隼人町小浜)を攻め取った。上井為秋・廻久元・敷根頼賀の軍は濱市(はまのいち、霧島市隼人町真孝)の集落を焼き払う。

兵乱の中にあった大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、霧島市隼人町内)の社家は島津貴久に救援を求めた。祁答院良重や肝付兼演といった敵対勢力に包囲され、陸路でも海路でも兵を入れるには危険だった。鹿児島で島津貴久と島津忠良は援軍の是非を議論する。樺山善久の勧めもあって、派兵に踏み切った。

3月25日、島津氏家老の伊集院忠朗(いじゅういんただあき)を大将として鹿児島を出る。海路で大隅正八幡宮に入った。祁答院氏・肝付氏・北原氏・蒲生氏の軍に囲まれて、かなり厳しい状況であった。4月4日、伊集院忠朗・樺山善久は八幡宮近くの隈之城(くまのじょう、咲隈城、さきくまじょう)に布陣し、敵の猛攻をしのいだ。

伊集院忠朗は攻めに転じ、生別府城や日当山城を落とす。姫木城の本田親知を調略し、これと連合していた北原氏を撤退させた。祁答院氏・肝付氏・蒲生氏も兵を退く。廻氏・上井氏・敷根氏は降伏する。

5月22日、島津方は本田薫親が籠る清水城(きよみずじょう)に迫り、24日に新城(曲輪のひとつ)を落とした。島津貴久は佐多忠成・島津忠俊(喜入氏)を使者として本田薫親と和睦交渉を行い、これを成立させた。

山城に踏み入る、標柱に「清水城跡入口」

清水城跡の登山口

 

生別府城は樺山善久に再び与えられ、樺山氏は旧領の小浜に復帰する。また、この直後に島津貴久は北郷忠相と契り状を交わした(同盟を結ぶ)。

本田親兼(薫親の嫡男)には清水が安堵され、帰順が許された。しかし、和睦はすぐに破談となる。8月に本田一族は再び叛く。伊集院忠明が日当山を落とし、姫木城を攻める。姫木城の本田實親(親知の父、薫親の叔父)らが内応し、9月5日夜に城に討ち入る。城主の本田親知を降す。

9月6日、伊集院忠朗は軍を率いて清水城に迫った。10月4日に樺山善久・島津忠将(ただまさ、忠良の次男、貴久の弟)が総攻撃をかけた。本田薫親・本田親兼は10月9日に逃亡。北郷氏を頼って庄内に落ちていった。

10月14日に島津貴久は清水城に入り、論功行賞を行う。清水城は島津忠将に、姫木城は伊集院忠朗に与えられた。また、島津忠良の命で、生別府は呼称を「長浜(ながはま)」と改められた。

帰順した本田親知には谷山山田(鹿児島市山田町のあたり)に所領が与えられ、こちらに移された。本田氏は没落し、その後は庶流が島津氏の家臣として仕えるようになった。


伊東氏の脅威にさらされる豊州家と北郷氏

伊東義祐の飫肥侵攻は激しさを増す。豊州家は所領を削られ、北郷氏も伊東氏・北原氏との争いが絶えなかった。

豊州家当主の島津忠広は病気がちで子もなく、養子も夭折していた。伊東氏の脅威に対抗するには頼りない状況だった。

そこで、北郷氏当主の北郷忠親(ただちか、北郷忠相の嫡男)が豊州家の獲得を継ぐことになった。北郷氏の家督は北郷時久(ときひさ、忠親の嫡男)につがせた。北郷時久はまだ若かったが、祖父の北郷忠相が健在であった。

じつは、豊州家と北郷氏は血縁的にかなり近い間柄である。

北郷忠相(北郷氏8代)は母が島津季久(すえひさ、豊州家初代)の娘で、妻が島津忠廉(ただかど、豊州家2代)の娘。

島津忠広(豊州家4代)は母が北郷数久(かずひさ、北郷氏7代)の娘。父は島津忠朝(ただとも、豊州家3代)

島津忠親(北郷氏9代→豊州家5代)は母が島津忠廉(豊州家2代)の娘。父は北郷忠相(北郷氏8代)。

島津忠広と北郷忠親(島津忠親)は従兄弟にあたる。双方で、父方でも母方でも。

伊東氏の飫肥侵攻に対して、島津忠親(豊州家)と北郷忠相が親子で防戦することになる。島津貴久もこれを支援し、天文18年(1549年)4月には飫肥への援軍として伊集院忠朗を遣わしている。島津忠親・北郷忠相・伊集院忠朗の連合軍は伊東軍との戦いに勝ち、ひとまず侵攻を止めた。その直後に、島津忠親は正式に豊州家の家督をついだ。

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加治木の戦い

島津貴久は大隅国の実力者である本田氏を滅ぼし、その旧領を支配下に置いた。大隅正八幡宮も保護する。本田氏から奪った清水・姫木(現在の霧島市国分)のあたりは、古くは大隅国の国衙が置かれた場所だ。大隅国統治の拠点とも言える場所なのである。この要衝を抑えたことで、島津氏の大隅支配は進んでいくことになる。

大隅国の国衆は島津氏につぎつぎと帰順し、菱刈氏や北原氏も降った。だが、加治木の肝付兼演は降ろうとしなかった。また、蒲生茂清・祁答院良重・入来院重嗣(しげつぐ、重朝の子)・東郷重治も肝付氏とともに敵対した。

島津方の大隅国吉田の松尾城は新納忠元(にいろただもと)・三原重明・山田有徳らが守っていた。鹿児島方面から見て加治木・蒲生への防衛線である。天文18年(1549年)4月頃、ここで肝付勢と戦いがあった。

5月、島津貴久は加治木を攻める。伊集院忠朗を大将として大隅国清水より兵を出す。伊集院忠朗は黒川崎(くろかわさき、姶良市加治木町反土)に陣取る。肝付勢も日木山川(ひきやまがわ)を挟んですぐ近くに対陣した。両軍は激しく戦うが決着しないまま、半年が過ぎた。11月24日、戦況が動く。伊集院忠倉(ただあお、忠朗の子)が火矢を射かけると、暴風に煽られて一気に敵陣営を焼いた。戦況が悪くなった肝付兼演は、北郷忠相・菱刈某(菱刈隆秋か)を仲介として降伏を申し出た。

入江から岬を望む、海の向こうには桜島

黒川岬(黒川崎)と日木山川

12月、肝付兼演・肝付兼盛(かねもり、兼演の子)・蒲生茂清は島津貴久に謁見する。祁答院氏・入来院氏・東郷氏も使いを送って謝罪する。島津貴久は降伏を許し、居城である伊集院の一宇治城(いちうじじょう、鹿児島県日置市伊集院)へと帰った。

肝付兼演は加治木の安堵に加え、楠原・中野・日木山(いずれも姶良市加治木のどこかだと思われる)の割譲も求めてきた。「そうしてくれれば忠節を尽くす、蒲生や渋谷一族とも手を切る」(『島津国史』より意訳)と申し出た。楠原・中野・日木山は樺山氏の領地である。伊集院忠倉を樺山善久のもとに遣わして相談させた。樺山善久は「それがまことならば、帖佐・平松・蒲生(ちょうさ・ひらまつ・かもう、いずれも姶良市内、蒲生氏や祁答院氏が領する)は孤立する。これらの地もいずれは島津のものになるでしょう」(『島津国史』より意訳)と申し出を受けることを進言した。これ聞き入れて、島津貴久はこれらの地を割譲した。

講和においては肝付側に有利な条件となっている。島津方は肝付兼演との戦いにけっこう苦労していて、力押しでは勝ちきれなかったのだろう。交戦しながらも、肝付兼演との単独講和も同時にすすめ、敵勢力の分断をはかっていた可能性もありそうだ。島津忠良・島津貴久はけっこうこの手を使っているので、ここでもそうだったのかも。

 


黒川崎で鉄砲は使われたのか?

黒川崎の戦いでは、「日本国内の戦いで鉄砲が使用された最初の記録」とされているものがある。その記録は『薩藩旧記雑録』に収録されている。

『薩藩旧記雑録』は幕末から明治時代にかけて編纂されたもので、島津家所蔵の古文書を年代別に書写したものである。その中で、天文18年の加治木の戦いに関する史料は『樺山善久入道玄佐譜中』『貴久公記(貴久記)』『箕輪覚書(箕輪伊賀入道覚書)』『庄内平治記』『貴久公御譜中』『玄佐自記(樺山玄佐自記)』のものが確認できる(国立公文書館デジタルアーカイブの『薩藩旧記雑録 前集三十六』で確認した)。

このうち、『貴久公御譜中』内に鉄砲使用の記述が出てくる。

『島津貴久-戦国大名島津氏の誕生-』(著/新名一仁)では、その史実性を疑っている。その理由として、鉄砲の記録が『貴久公御譜中』にだけしかないことを挙げる。『貴久公御譜中』というのは17世紀に成立した『新編島津氏世禄正統系図』からのもの。のちに改訂増補もされている。『玄佐自記』(樺山善久の自記)のように、その時代を生きた人物が書いた史料ではないのだ。『貴久公御譜中』の鉄砲のくだりは後世の人により尾ヒレがつけられたものである可能性も否めない。情報としては、ちょっと怪しいのである。

だからといって、「鉄砲が使われなかった」とも言い切れない。あくまでも史料を根拠として鉄砲使用を断定できない、ということである。このことは『島津貴久-戦国大名島津氏の誕生-』の中でも言及している。「ない」ということの証明は困難なのだ。

この頃、種子島ですでに鉄砲を製造している。状況的には、鉄砲を使用していたとしても不思議ではない。でも、もし使われていたら当時の人は書くんじゃないかな? と個人的には思う。だって、すごく目立つ出来事だし。

ちなみに、天文23年(1554年)から始まる大隅合戦では、鉄砲使用の記録がけっこう出てくる。その頃までには、南九州で鉄砲がある程度は普及してきたものと思われる。

島津貴久-戦国大名島津氏の誕生- (中世武士選書37)

 

ザビエルがやってきた、キリスト教伝来

1549年8月15日(天文18年7月22日)、フランシスコ・ザビエルが薩摩にやってきた。キリスト教の伝来である。

フランシスコ・ザビエルはイエズス会(耶蘇会、やそかい)の宣教師。出身地はスペイン。名前の発音はスペイン語では「ハビエル」、ポルトガル語では「シャビエル」に近いそうだ。アジアへの布教のために、ポルトガル王の依頼でインドのゴアに渡っていた。そこから日本を目指した。

案内したのはパウロ・デ・サンタフェ(日本名はヤジロウ、またはアンジロウ)であった。パウロ(ヤジロウ、アンジロウ)は鹿児島の出身(出身地は諸説あり)。ポルトガル船に乗り込んで国外に出て、洗礼を受けていた。

鹿児島入りについては、1549年11月5日付けのザビエルの書簡などで知ることができる。同文書の翻訳が『耶蘇會士日本通信 豊後編上巻』(訳注/村上直次郎)に収録されていているので、そちらを参考にした。また、『鹿児島県史』にも収録されていて、こちらも参考にした。

フランシスコ・ザビエル一行は、まずは薩摩半島南西部に位置する坊津(ぼうのつ、鹿児島県南さつま市坊津)にたどりついたとされる。その後、船をまわしてCangoxima(鹿児島)に上陸したという。

石壁のような大きな記念碑

ザビエル上陸記念碑、鹿児島市のザビエル公園にある

 

そして、鹿児島から5レグアの距離(20㎞~25㎞くらいか)にいる太守に会いにいき、布教の許可を求めた。太守とは島津貴久のことである。場所は、そのときの居城である伊集院の一宇治城(いちうじじょう)だと推測される。

会見地については、大隅の清水城(きよみずじょう)であったとする説もある。というのも、ちょうど加治木攻めの最中であった。ただ、鹿児島から大隅国清水へのルートには敵対勢力がひしめいていた。道中はかなり危険だが、そういった描写がザビエル書簡にはない。また、ザビエルは島津貴久の母とも会っている。やはり伊集院のほうが妥当だと思われる。

島津貴久はザビエルが持参した聖母画を見て喜んだ。また、貴久の母が聖母画をいたく気に入り、レプリカを作るよう求めたのだという。島津貴久は布教を許可し、家臣に対しても洗礼の自由を許した。ただ、島津貴久は改宗をすることはなかった。

城跡と石造りの記念碑

一宇治城跡、奥にあるのが会見地の記念碑

【関連記事】一宇治城(伊集院城)跡にのぼってきた、島津貴久の薩摩平定の拠点

 

薩摩や大隅は古くから海上交易を行っていて、異国との接触はけっこう慣れていたりする。島津貴久はポルトガルとの貿易に興味を持っていたようで、布教を許したのもそのためであったと思われる。

フランシスコ・ザビエルは薩摩に10ヶ月ほど滞在した。その間に、市来城(いちきじょう、鶴丸城、鹿児島県日置市東市来)にも訪れ、城主の新納康久や家老ミゲル(日本名わからず)の歓待を受けた。また、新納康久の妻や家臣など17人が洗礼を受けたという。

山城跡に立つフランシスコ・ザビエルの銅像

市来城(鶴丸城)跡、入口にはザビエルの像

【関連記事】市来の鶴丸城跡にのぼってみた

 

当初、島津氏はキリスト教に寛大であったが、天文19年(1550年)7月にフランシスコ・ザビエルは薩摩から平戸(ひらど、長崎県平戸市)に移る。この頃に、島津貴久は領内の布教を禁止している。

 

島津貴久、正式に守護になる

天文19年(1551年)に、島津貴久は拠点を伊集院から鹿児島に移す。鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)のやや南に御内(みうち、内城、うちじょう)を新たに築いてここを居館とした。現在、御内(内城)跡には大龍小学校があり、廃城跡に建立された大龍寺の痕跡がちょっとだけ見られる。

学校の一角にある史跡

大龍寺(内城)跡

 

天文21年(1552年)6月11日、島津貴久は朝廷より修理大夫(しゅりのたいふ)に任じられた。島津氏奥州家(おうしゅうけ、本宗家)の歴代当主はほとんどが修理職に任じられている。この任官により、島津貴久は官位のうえでも権威がついたことになる。

また、近衛殖家(このえたねいえ、前関白)の仲介により、幕府からも正式に守護と認められる。貴久嫡男の島津忠良(ただよし、祖父の日新斎と同じ名前でややこしい)は将軍の足利義輝(あしかがよしてる)より偏諱を賜り、島津義辰(よしたつ)と名乗るようになった。のちに島津義久(よしひさ)と改名し、こちらの名でよく知られている。


島津貴久の戦いは、まだまだ続く。

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年

『貴久記』
著/島津久通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『薩藩旧記雑録 前集三十六』
編/伊地知季通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『耶蘇會士日本通信 豊後編上巻』
訳注/村上直次郎 発行/帝国教育會出版部 1936年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか