名著である! ……と思う。当ブログでは島津氏の歴史を扱っているが、記事作りの際にこの本を開くことが多い。そして、欲しい情報がちゃんと見つかるのである。『島津貴久 -戦国大名島津氏の誕生-』では、島津貴久(しまづたかひさ)の生涯を軸に16世紀の南九州の状況を知ることができる。
島津貴久は島津氏15代当主で、戦国大名として島津氏を飛躍させた人物である。鉄砲伝来(1543年)とキリスト教伝来(1549)という教科書なんかにも出てくる歴史的出来事の当事者でもあり、そこそこの知名度がある。また、息子の島津義久(よしひさ、16代当主)や島津義弘(よしひろ)の代には南九州を制圧し、さらには九州制覇目前まで勢力を広げた。だから、「強い戦国大名」というイメージを持っている人も多いだろう。
じつは、島津貴久はもともと分家の出身である。相州家(そうしゅうけ)の島津忠良(ただよし、島津日新斎、じっしんさい)がクーデターを起こして島津本宗家の実権を奪い、嫡男を本家筋である奥州家(おうしゅうけ)の島津忠兼(ただかね)の後継者に擁立した。その島津忠良の子が島津貴久である。
島津忠良のクーデターは、最初はうまくいかない。もうひとつの有力分家の薩州家(さっしゅうけ)により状況をひっくり返され、島津忠兼も守護職に復帰する(復帰後に島津勝久に改名)。
その後は相州家と薩州家による抗争が続く。この争いを制した相州家が政権の座をつかみ、島津貴久が改めて当主となる。しかし、その後も領内の一門衆・国人衆との戦いが続いた。
島津貴久は薩摩を制圧するが、その過程はめちゃくちゃ苦労している。同じ頃に大隅の肝付兼続(きもつきかねつぐ)や日向の伊東義祐(いとうよしすけ)は戦国大名として充実期にあった。肝付氏も伊東氏ものちに島津氏に屈するのだが、むしろ当初は島津氏を圧倒していたりもする。
本書はこのあたりの状況を丁寧にひも解く。一次史料(当時の手紙など)を引っ張り出し、二次史料(ちょっとあとの時代の編纂物など)に考察を加え、実際のところはどうだったのかを検証している。また、「なぜ相州家の台頭にいたったのか」「中世島津氏の政治構造がどうなっていたか」といった背景もわかりやすく説明してくれる。
著者の新名一仁(にいなかずひと)氏は、中世の南九州を研究している人物だ。当ブログでは、新名氏の著書をかなり参考にしている。
鹿児島県では島津忠良や島津義弘が英雄視されている。歴史研究もそのイメージに影響され、実態とは違うものが通説として定着したようにも思われる。郷土史などを見ても、だいたいそんな感じである。ネット上で見つかる情報も、そういうものを鵜呑みにしたものが多いような気もする。
本書奥付によると、新名氏は宮崎県の出身とのこと。日向側からの視点でも島津氏の歴史を見ており、冷静な目で事実を判断しようとしている印象も受ける。
島津貴久が薩摩の主に成り上がり、戦国大名として発展していく。そこにあるややこしい事情がよくわかる一冊である。
島津義久・島津義弘に関するこちらの著書も、読み応えあり。