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大隅平定、肝付兼亮が降る/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(2)

薩摩国の島津義久(しまづよしひさ)、大隅国の肝付兼亮(きもつきかねあき、かねすけ)、日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)と、南九州では3つの勢力が鼎立。このうち伊東氏と肝付氏は手を結び、島津氏に対抗していた。

 

元亀2年(1571年)より肝付氏は水軍を率いて鹿児島湾に侵攻。島津側は島津家久(いえひさ、義久の弟)を主力として撃退した。そして、伊東氏も動く。元亀3年(1572年)5月、守りが手薄になった日向国真幸院加久藤(かくとう、宮崎県えびの市)に侵攻した。こちらは島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ、義久の弟)が応戦。兵力差は伊東方約3000、島津方約300と大きな差があった。木崎原(きさきばる、えびの市池島)で合戦となり、兵力差をひっくり返して島津方が勝利した。

 

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伊東氏の大敗により、肝付氏ら大隅勢は苦しくなる。島津氏は一気に攻勢をかける!

なお、日付は旧暦で記す。

 

 

 

 

 

大隅の肝付氏・伊地知氏・禰寝氏

大隅半島では肝付氏が一大勢力を築き、禰寝(ねじめ)氏と伊地知(いじち)氏とを従えていた。元亀3年時点の当主は肝付兼亮、禰寝重長(ねじめしげたけ)、伊地知重興(いじちしげおき)。結束して島津氏に抵抗を続けた。

この3氏は古くから大隅国に住む氏族である。

 

肝付氏の本姓は伴(とも)氏。伴善男(とものよしお)の後裔を称する。10世紀に薩摩国に入り、11世紀には大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)に土着したとされる。島津荘(しまづのしょう)を開拓した平季基(たいらのすえもと)とは姻戚にあたり、荘園の管理も任されていたようだ。所領は広範囲に及び、大隅国・薩摩国のあちこちに支族も生じた。北原(きたはら)・安楽(あんらく)・薬丸(やくまる)・梅北(うめきた)・頴娃(えい)などは肝付一族である。梅北氏や頴娃氏など、島津氏に従った者もある。

16世紀になると肝付兼続(きもつきかねつぐ、兼亮の父)が広大な勢力を築き上げる。この頃の肝付氏は大隅国高山を本拠地とし、鹿屋院(かのやいん、鹿児島県鹿屋市)・廻(めぐり、鹿児島県霧島市)・恒吉(つねよし、鹿児島県曽於市大隅町恒吉)・日向国の志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)や福島(ふくしま、宮崎県串間市)などを領していた。

 

肝付氏については、こちらの記事にて。

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禰寝氏は大隅国禰寝院小根占(ねじめいんこねじめ、鹿児島県肝属郡南大隅町根占のあたり)に拠点を持つ。本姓は平氏を称するが、かつては藤原姓や建部(たけべ)姓を称していた。実際のところは建部氏の一族だと考えられる。11世紀頃には禰寝院に土着していたことが確認でき、かなり古くからこの地にある。小根占の港には中国船やポルトガル船も入り、禰寝氏は貿易でも財をなしていた。

禰寝重長の叔母が島津勝久(かつひさ、島津氏14代当主)の継室となっているなど、島津本宗家とのつながりもあった。

 

禰寝氏については、こちらの記事にて。

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伊地知氏は平姓秩父氏の一族。名乗りは越前国伊知地(福井県勝山市伊知地、こっちは「伊地知」ではない)に所領を得たことから。南北朝争乱期に伊地知季随(いじちすえみち)は足利尊氏に仕えていたが、罪を問われて投獄される。島津氏久(うじひさ、島津氏6代当主)がこれを助けたことから、牢を出た伊地知季随は島津氏に従うようになった。その後、伊地知季豊(すえとよ、季随の孫)が応永19年(1412年)に大隅国の下大隅(しもおおすみ、鹿児島県垂水市)に領地を与えられて、この地を拠点とした。一族からは多くの国老を出し、もともと島津氏を助けてきた家柄である。

 

肝付氏は強勢で、一時は島津氏を圧倒していた。ただ、肝付兼続が永禄9年(1566年)に没し、後継者の肝付良兼(よしかね、兼続の嫡男、兼亮の兄)も元亀2年(1571年)に亡くなる。肝付兼亮がそのあとを引き継ぐが、若く経験がない。父や兄と同じようにリーダーシップを期待するのは酷な話だ。

なお、『本藩人物誌』では肝付良兼の没年を天正2年(1574年)とする。

 

 

庄内の北郷氏

日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市のあたり)の北郷時久(ほんごうときひさ)は、島津義久と同盟関係にある。

北郷氏は島津氏の支族で、南北朝争乱期に足利尊氏より庄内に領地を与えられたこことにはじまる。島津氏一門ではあるものの、独立した戦国大名ともいえる存在である。中世においては、南へ勢力を広げたい伊東氏との攻防が繰り返された。島津氏にとっては、伊東氏に対する防波堤になっていた。

16世紀に入ると、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)などに勢力を持つ島津氏豊州家(ほうしゅうけ、分家のひとつ)と連携。北郷氏と豊州家は代々婚姻を重ねて関係を深めていた。そして豊州家で後継者が途絶えると、北郷家の当主が豊州家の家督をついだ。それが島津忠親(ただちか)であった。北郷家のほうは忠親の嫡男である北郷時久が家督をついだ。

北郷氏と豊州家は一体となって伊東氏・肝付氏と戦っていた。島津氏も援軍を送るなど支援している。ちなみに島津義弘は、島津忠親の養子であった時期もある。

伊東氏は飫肥侵攻を繰り返す。南からは肝付氏も攻め立てる。永禄11年(1568年)に飫肥は陥落し、豊州家は所領を失う。島津忠親は北郷氏をたよって庄内に逃れた。

庄内の北郷氏に対して、伊東氏と肝付氏の圧力は強くなる。一方で、島津氏も日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)まで勢力を伸ばしてくる。島津氏との連携をさらに強めて、庄内を守り抜く。

島津義久による大隅攻略において、北郷時久は重要な役割を果たすことになる。

 

北郷氏については、こちらの記事にて。

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小濱の戦い

元亀3年(1572年)9月、島津義久は攻勢に出る。島津歳久(しまづとしひさ、義久の弟)を大将として下大隅を攻めさせた。島津勢は向島(桜島)に軍を進める。対する大隅勢は伊地知美作守(伊地知重矩か、伊地知氏家臣)が下大隅小濱(おばま、鹿児島県垂水市海潟)で迎え撃つ。小濱塁は向島(桜島)との海峡の近くに位置する。

9月27日、小濱塁のすぐ北側の早崎(はやさき)に島津歳久・島津家久らが布陣し、攻めかかる。また、島津義久も海から小濱を目指す。島津軍の総攻撃により小濱砦は陥落し、守将の伊地知美作守も討ち取られた。

 

こちらの写真は早崎のあたり。桜島と大隅半島がちょうどつながっているところになる。もともとは海峡だったが、大正3年(1914年)の桜島の大噴火で陸続きになった。

断崖と海峡、遠くに鉄橋が見える

早崎はかなり険しい

 

住吉原の戦い

島津義久の下大隅攻めと同時に、大隅国北部では北郷時久が肝付氏と戦う。

元亀3年(1572年)9月29日、北郷軍は日向国月野(つきの、鹿児島県曽於市大隅町月野)・泰野(たいの、鹿児島県志布志市松山町泰野)に攻め込んで、肝付氏よりこの地を奪った。また、同じ日に北郷氏は日向国櫛間を攻めてこちらでも肝付氏を破る。

元亀4年(1573年)1月6日、肝付兼亮は北郷氏領の大隅国末吉(鹿児島県曽於市末吉町)に数千の軍勢を送り込んだ。北郷時久は北郷相久・北郷忠虎(すけひさ・ただとら、ともに時久の子)とともに迎え撃つ。両軍は住吉原(すみよしばる、国合原、くにあいばる、曽於市末吉町二之方・南之郷)でぶつかる。北郷勢は住吉山・本堂・北別府などに兵を伏せて、四方から肝付勢を攻めた。北郷勢が大勝し、およそ430もの首をとったという。肝付竹友(きもつきたけとも)・肝付修理亮・肝付左兵衛尉などの武将も討ち取られた。

 

茶畑と大きな空

住吉原(国合原)、現在は茶畑が広がる

供養塔と石仏

近くに肝付竹友の墓もある

 

国合原の北部には平松城跡がある。こちらの城も、元亀4年の戦いで使われたとされる。住吉山は住吉原(国合原)の西側。こちらには住吉神社が鎮座する。

山城跡に緑が覆う

平松城跡、住吉原の戦いで使われたとされる

 

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禰寝重長の降伏

島津義久は大隅勢の切り崩しにかかる。禰寝重長を調略しようと動いた。元亀4年(1573年)1月に宝地院の僧と八木昌信を使いとして小根占(こねじめ、禰寝)に派遣する。肝付氏と関係を絶って降伏するよう勧告した。禰寝重長はこれを受け入れる。2月26日に盟書をかわし、島津氏の傘下に入った。

 

肝付氏・伊地知氏は、寝返った禰寝氏に攻めかかる。3月10日、島津義久は薩摩国揖宿(いぶすき、鹿児島県指宿市)に入る。ここは鹿児島湾を挟んで小根占の対岸に位置する。新納忠元(にいろただもと)・伊集院久治(いじゅういんひさはる)・上原尚常(うえはらなおつね)を援軍として派遣した。島津氏・禰寝氏の軍は渡海し、3月14日に大隅国高須(たかす、鹿児島県鹿屋市高須)を制圧する。

砂浜の夕焼け

高須海岸、島津勢は海から攻める

 

さらに3月18日、島津勢は西俣(にしまた、鹿屋市の南部、高須から内陸に入ったあたり)に侵攻。肝付勢は抗戦するが、島津征久・島津忠長(ゆきひさ・ただたけ、ともに義久の従兄弟)らがこれを破る。同じ頃に、肝付氏は小根占を攻めている。こちらでは禰寝重長が奮戦して撃退した。

 

大隅国南部での戦いは島津勢が肝付勢を圧倒する。戦後、禰寝重長には鹿屋院(かのやいん)が加増された。

 

 

牛根の戦い

大隅での戦いは続く。元亀4年(1573年)7月24日、今度は早崎に肝付勢が攻めかかる。早崎を守る島津家久がこれを撃退した。

下大隅牛根(うしね)の入船城(いりふねじょう、牛根城ともいう、垂水市牛根麓)は、肝付氏配下の安楽兼寛(あんらくかねひろ)が守っていた。島津歳久・島津家久らが囲むも、入船城の籠城が続いていた。天正元年12月14日(1574年1月)、島津義久が軍勢を率いて牛根へ。島津勢は平常岡(入船城の東側に位置する)に陣取り、入船城に総攻撃をかけようと構えた。

街並みと海と桜島

牛根を東側から見下ろす



 

一方、肝付氏は日向佐土原の伊東義祐に使いを出して援軍を求めた。「もし助けてくれなければ、島津に降るほかない」と訴えたという。

天正2年1月3日、肝付氏は入船城(牛根城)の救援のために兵を出し、茶園ヶ尾(入船城の南に位置する)に陣取った。島津勢の島津忠長・川上久隅(かわかみひさずみ)らが茶園ヶ尾を攻め、肝付勢を撤退させた。

樹木が茂る山城跡

入船城(牛根城)跡

 

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伊東氏も牛根に援軍を送るが、到着した頃にはすでに決着がついていた。1月19日、伊東軍は小根占に向かい、こちらを攻める。喜入季久(きれすえひさ)が防戦して伊東軍を撤退させた。戦いは激しかったようで伊東軍は100余人が討たれた。島津勢でも喜入忠道・喜入久続(ともに季久の弟)が戦死している。

入船城の安楽兼寛は降伏を申し出て、これを許される。城の受け取りは新納忠元(にいろただもと)が行うことになった。1月20日、安楽兼寛は弟を人質として差し出し、新納忠元も嫡男を人質として入船城に送る。1月22日に新納忠元が入城し、引き渡しが完了する。

 

 

肝付兼亮が降る

島津氏が下大隅の要地を押さえた。肝付氏・伊地知氏も度重なる戦いでもはや抵抗する力も残っていない。島津義久は両氏に対して降伏勧告を画策する。その交渉は、新納忠元に任されたようだ。

『新納忠元勲功記』(『薩藩旧記雑録』収録)によると、新納忠元の母と、肝付兼純(肝付氏の一門衆)の母と、浄光明寺(じょうこうみょうじ、鹿児島市上竜尾町)の僧の其阿西嶽と……この3人は兄弟姉妹であったという。其阿西嶽が大隅国高山(肝付氏の本拠地)の道場に滞在していたこともある。また、伊地知重興は肝付兼純と姻戚であったようで、こちらとも関係がある。

 

ちなみに、新納氏はもともとは日向国志布志の領主であった。新納忠元はその庶流にあたる。新納氏は肝付氏とは、かつて親密な関係だった(のちに敵対)。この縁もそんなところからきているのかも。

 

新納氏については、こちらの記事にて。

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島津義久は新納忠元の申し出を受け入れ、其阿西嶽を使者として肝付氏・伊地知氏を説得することとした。

天正2年(1574年)2月、伊地知重興は所領をすべて差し出して降伏を申し出る。2月25日には伊地知重政(しげまさ、重興の嫡男)が鹿児島に参謁する。続けて肝付兼亮も降伏を申し出た。このとき、廻・市成・恒吉を差し出す。

 

これにて、島津氏による大隅国平定がなった。……つづく。

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『薩藩旧記雑録』
東京大学史料編纂所の大日本史料総合データベースより

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

ほか