時吉城(ときよしじょう)は薩摩国祁答院(けどういん)の時吉(鹿児島県薩摩郡さつま町時吉)にあり。川内川沿いに丘陵があり、そこが城跡だという。一帯は畑地や住宅地として開発されているが、地形はよく残っているようだ。そして、曲輪の一つの「中ノ城」が公園として整備。ちょっと登ってみた。
大前氏の居城
時吉城は大前道秀の築城と伝わる。寿永年間(1182年~1185年)の史料に大前道秀の名が見える。
大前氏の読みは「おおくま」とも「おおさき」とも。古くから祁答院の郡司として名が見える一族である。出自についてはよくわかっていない。伝わっている系図は複数あり、醍醐源氏とされたり、橘姓とされたり。ただ、これらは仮冒では? という感じがする。
大前氏は薩摩国中北部の一帯に所領を持ち、かなり繁栄していたようだ。薩摩国の在国司にも大前氏の名が見える。
大前氏のうち祁答院を領した一族は「祁答院氏」を称した。大前道秀もこの一族である。
建久8年(1197年)の『薩摩国図田帳』には「邪答院百十二町 島津御庄内寄郡 没官御領地頭千葉介」のうちに「時吉名十五町」と記される。こちらが祁答院の時吉のことだと思われる。なお「邪答院」は祁答院の誤記。また島津荘(しまづのしょう)の寄郡(半分官領・半分荘園という扱いの土地)で、平家没官領だったところに千葉常胤(千葉介)が地頭職を得た、と。同時に祁答院一帯の郡司は、引き続き大前氏が務めている。
のちに千葉氏が没落し、その旧領の地頭職は渋谷(しぶや)氏に与えられた。渋谷氏は平姓を称し、関東の秩父氏の一族である。渋谷氏が地頭となったときには、時吉名は大前一族の時吉孫太郎なる人物が郡司であった。時吉城は、この時吉孫太郎の居城であったとも伝わる。
時吉城は本丸を「富岡城」といい、ほかに「中ノ城」「古城」「弓場ヶ城」「高城」「鶴ヶ城」などの城郭群で構成される。城域は半分ほどが現在も山林。山に入ると城跡の痕跡が残っているのかも。また、弓場ヶ城のあたりは自動車学校の敷地になっている。
渋谷氏のうち祁答院に入った一族は祁答院氏を称する。地頭の祁答院氏(渋谷氏)と郡司の祁答院氏(大前氏)が併存したが、渋谷氏のほうがこの地の影響力を強める。ついには大前氏は没落する。
祁答院氏(大前氏)は虎居城(とらいじょう、さつま町宮之城屋地・虎居)と時吉城を拠点とした。大前氏が没落したあと。虎居城・時吉城は祁答院氏(渋谷氏)のものとなる。渋谷氏の時代には虎居城を「下の城」、時吉城を「上の城」とも呼んだ。
時吉城での戦いの記録はとくに見つからず。でも、実際にはあった、と思う。
祁答院のこと、大前氏や渋谷氏についてはこちらの記事にて。
中ノ城を歩く
国道504号沿いに「時吉中城跡」の看板がある。ここから登れる。城跡の西側の道を入ったところに駐車できるスペースもある。

中ノ城は公園として整備。樹木が伐られていて、曲輪の形状がよくわかる。今回は冬場の訪問でこんな感じに。夏場は草が伸びているかも。

登っていける。比高は10mくらいか。

登り切ると平坦な地形。かなり広い。ここに砦か何かがあったのだろうか?

中ノ城は丘陵の先端のほうにある。まわりの様子がよく見える。

広場には鳥居がある。多賀神社も鎮座する。もともとは大前氏の守護神であったとも伝わる。

明治4年(1871年)に村社となる。社殿などはない。石祠が建てらている。



神様いろいろ
多賀神社にはいろいろな神様が奉納されている。別の場所から移されたものもあるかも。
多賀神社の石祠の横に、もう一つ石祠がある。中には丸い石が祀ってある。何かはわからず。山の神か? 水神か? 火の神か? 家畜の神か?

「保食神(ウケモチノカミ)」。由緒は不明。

たぶん青面金剛像(庚申像)。

田の神っぽい。ちょっと風化しているけど。

石仏だろうか? 半身は埋まっている。

<参考資料>
『宮之城町史』
編/宮之城町史編纂委員会 発行/宮之城町 2000年
『祁答院町史』
編/祁答院町誌編さん委員会 発行/祁答院町 1985年
ほか