ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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吉利の鬼丸神社、禰寝重長を祀る

鬼丸神社(おにまるじんじゃ)は鹿児島県日置市日吉町吉利に鎮座する。江戸時代の薩摩国吉利の領主は小松(こまつ)氏。その祖先を祀る。御祭神は禰寝重長(ねじめしげたけ)だ。

 

 

禰寝重長、一族の最盛期を築く

小松氏はもともとは禰寝氏を称していた。「小松」を名乗るようになったのは18世紀のこと。24代目の小松清香(こまつきよたか)の頃からである。

禰寝氏は平重盛の後裔を称している。平重盛が「小松内大臣」「小松殿」と呼ばれていたことに由来して「小松」に改姓した。

 

ただし、もともとは建部(たけべ)姓。11世紀頃から大隅国禰寝院南俣(ねじめいんみなみまた、現在の鹿児島県肝属郡南大隅町)に土着していたことが確認できる古族である。建部氏が所領にちなんて「禰寝」を名乗りとするようになった。

禰寝院南俣は大隅半島の先っぽのほうだ。禰寝氏はこの地に君臨する。中世には大きな力を持っていた。

 

16世紀に禰寝氏は戦国大名化する。その最盛期を築いたのが禰寝重長だった。禰寝(根占)は良港で、明国船や南蛮船が入港。交易が盛んに行われた。また、領内の産業開発にも力を入れた。禰寝重長は善政を行ったとされ、領民に慕われていたという。

禰寝重長は高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)の肝付兼続(きもつきかねつぐ)の娘を正室としていた。肝付氏と連携をとって、島津貴久(しまづたかひさ)・島津義久(よしひさ)に対抗した。

肝付氏・伊地知(いじち)氏・禰寝氏の大隅勢は、一時は鹿児島湾の制海権をとっていた。しかし、元亀2年(1571年)からの戦いで、島津方が優勢となっていく。元亀4年(1573年)、島津氏は禰寝氏に調略をかける。禰寝重長は応じる。この寝返りから戦局は一気に動き、翌年には肝付氏・伊地知氏も降伏した。

戦後、禰寝重長は島津氏から厚遇される。島津家の臣下として家名を保った。

 

禰寝重長は天正8年(1580年)に没した。荼毘にふした際に「鬼丸大明神」の文字が浮かびあがったという。家督をついだ禰寝重張(しげひら)は、父の霊を祀る鬼丸大明神を創建する。

文禄4年(1595年)、禰寝重張は薩摩国吉利に移封となる。この際に禰寝の鬼丸大明神も遷されている。それが現在の鬼丸神社である。


禰寝氏や禰寝重長についてはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

 

 

 

長い石段をのぼって

国道270号の「吉利」の信号から脇道に入っていく。こちらは吉利麓(よしとしふもと)の武家町に風情も少し残っている。しばらく道をすすんでいくと、古びた石橋と鳥居がみつかる。鳥居の横には車を停められるスペースもある。

 

参道の入口

鳥居と石橋と

 

石組みで池が造られていて、石橋も架かる。だいぶ古いもののようだ。

古い石橋

鳥居前の石橋


石橋を渡ったところに、石造りの鳥居。こちらも風格がある。鳥居の向こうには石段がのびる。ちなみに鎮座地は「勝手ヶ城」という山城の跡地とのこと。

鳥居をくぐって参道へ

鳥居

石段も古そうな感じである。そして、けっこう長い。

古い石段

石段をのぼって、山の上へ

 

石段をのぼりきると、平坦なところに出る。参道は奥へと続く。

山の中の参道

参道、この日は雨



 

奥へ向かう。社殿がある。

木造の社殿

社殿は落ち着いた雰囲気

 

社殿の前には狛犬も。だいぶ風化がすすんでいる。

鬼丸神社の狛犬

狛犬

 

石段の上から参道口のほうを見る。鳥居の前には田んぼが広がる。

石段の上から見える景色

けっこう高い

 

参道口近くにはタノカンサァ(田の神)も祀られている。「田之神」の文字のある石碑型だ。紀年銘には昭和2年(1927年)とある。藁苞(わらづと)も供えてある。中身は餅かな? 米かな?

石碑型の田の神

タノカンサァ(田の神)

 

タノカンサァ(田の神)については、こちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

鬼丸神社には建部大明神(タケベダイメョウジン) ・稲荷大明神(イナリダイメョウジン)・ 山王権現(サンノウゴンゲン)も合祀されているとのこと。

『三国名勝図会』によると、建部大明神は鬼丸神社の南に鎮座していたという。御祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)。もともとは根占にあったもので、禰寝氏の吉利移封の際に遷されたもの。建部大明神は、13世紀初めに禰寝清重(建部清重、禰寝氏初代)が根占に勧請して氏神としたとされる。たぶん近江国の建部社(建部大社、 滋賀県大津市神領)からであろうか。

山王権現は鬼丸神社の北にあった。こちらも根占からの鎮座。ちなみに山王権現(日吉神社)も本社は近江国である。

 

 

小松清廉(小松帯刀)も参詣した

吉利領主の小松氏の29代目は、小松清廉(こまつきよかど)という。通称は「帯刀(たてわき)」。もとの名を肝付兼戈(きもつきかねたけ)という。喜入肝付家から婿養子として小松家に入った。

 

『小松帯刀日記』には鬼丸大明神を訪れたことが記されている。

日記によると、安政3年(1856年)3月16日に鬼丸大明神の御祭を見学したという。小松家の家督をついで間もない頃のことである。

万延元年(1860年)2月11日に参詣したとも記される。この頃に鬼丸大明神の神額を新調したことについても書き残している。

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『旧記雑録拾遺 家わけ一』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1987年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集22『小松帯刀日記』
編・発行/鹿児島県史料刊行会 1981年

ほか