田んぼの畔で見かける。辻に立っていたりもする。神社や公民館で出会うことも。
タノカンサァ(田の神様)の像がものすごくたくさんある、鹿児島県と宮崎県南部には。その数は確認されているだけでも2400体以上にもなるそうだ。
地元の者にとってタノカンサァは風景の一部という感じ。それでいて、なんだか気になる存在でもあるのだ。
姿はいろいろ
まずは、タノカンサァ(田の神)の姿を見てもらいたい。
こちらは鹿児島市川上町にあるもの。「川上の田の神」と呼ばれている。紀年銘から寛保元年(1741年)に作られたものらしい。道沿い立っていて、田んぼを見守る。
「触田の田の神」。鹿児島県姶良市の稲留神社の境内いにいる。元文2年(1737年)製。
鹿児島県薩摩川内市祁答院町にて。「麓東の田の神」と呼ばれている。大きな農地改良の記念碑の下に、小さなタノカンサァがいる。製作年不明。
鹿児島県肝属郡肝付町にて。高山城(こうやまじょう)跡の麓に、いろいろな神様といっしょに並べられている。安永6年(1777年)につくられたものとのこと。
姶良市加治木町木田の新中公民館にて。彩色されている。製作年不明。対というわけではなく、それぞれ別々の場所から移されたものらしい。
手にはメシゲ(シャモジ)やスリコギ、お椀などを持つ。頭にかぶっているのは「シキ」といって、モチゴメを蒸す際に使うものである。この姿は「田の神舞(タノカンメ)」の様子を模したものである。タノカンサァはこの様式のものがもっとも多い。
こちらはレリーフのような感じ。姶良市下名の道路脇にて。文化2年(1805年)製。
クワを持っている。鹿児島市の「鹿児島県歴史・美術センター 黎明館」の裏庭に展示されている「中福良の田の神」レプリカ。実物は鹿屋市吾平町にある。
衣冠束帯姿のタノカンサァも。姶良市加治木町木田の「上木田の田の神」。明和4年(1767年)の紀年銘あり。隈媛神社の参道口近くにいる。
石祠の中に自然石が祀られている。これもタノカンサァだ。姶良市豊留の早馬神社境内にあり、この一帯の田んぼを見守るような感じで置かれている。
このほかにも様式はいろいろあり。僧形のもの、地蔵、仏像、武神像、女神像、石碑などなど。道祖神のように男女双体のものものもある。
どこにいる?
タノカンサァのいる場所はいろいろである。よく言われているのが田の畔。また、田園地帯の道端だったり、一帯を見渡せるような小丘の上だったり。辻にいたりもする。田を見守るような感じで置かれている。
下の写真は鹿児島市下田町の田の神。三叉路に土地改良の記念碑と並べて置かれている。こういったケースもある。
神社の境内や公民館、公園などにいる場合も。こちらは、都市開発や農地整備などで、移されたものが多いと思われる。ただし、もともと人が集まる場所に公民館が建てられていたりもするので、タノカンサァのあった場所にあとから公民館ができたという場合もなくはない。神社についても同じことが言えるかな、と。
個人宅に置かれていることもある。屋内で祀られていたり、庭にあったりと。持ち回りでタノカンサァを家に迎える場合もある。
信仰のあり方いろいろ
もともとは山の神で、春になると里に下りきて田を見守る。そして、収穫が終わればまた山に帰る。タノカンサァ(田の神)については、そんなふうにも言われている。
集落ごとにタノカンサァに感謝する祭事がある。途絶えてしまったものも少なくないが、ずっと続いているものもある。田の神祭りは春と秋に行われ、神社などで「田の神舞」が奉納されたりする。
こちらは鹿児島藩(薩摩藩)が編纂させた『成形図説』に掲載された「田の神舞」の絵図。参考までに。
また、「田の神講(タノカンコ)」というものも。集落の者が集まって講(会合)の席を設ける。食事や酒もある。餅を用意したりもする。そして、みんなでタノカンサァに感謝する。「田の神講」の際にタノカンサァにきれいに化粧を施す(色をつけなおす)ところもある。
「オットイ」という風習もあったそうだ。「オットイ」とは南九州の言葉で「盗む」。豊作だった集落のタノカンサァを盗んでくるのである。そして、自分たちの土地に置く。2年~3年後にお礼(米や焼酎)を添えて返しに行く。オットられた側の集落も盛大に迎え入れたという。一方で、オットられっぱなしのタノカンサァもけっこうあったりする。
子孫繁栄の神様
タノカンサァ(田の神)は田の守り神であるとともに、子孫繁栄の神でもある。像を背中のほうから見ると……男根を思わせる形なのだ。
メシゲ(シャモジ)やスリコギは男性を意味し、お椀は女性を意味するとも。また、タノカンサァが男性で、田んぼが女性という意味合いがあるとも。ちなみに、タノカンサァは男神が圧倒的に多い。
島津氏の領内で広がった
タノカサァ(田の神)像が確認できる地域は、江戸時代の島津氏領(鹿児島藩/薩摩藩)とほぼ重なる。宮崎県においては都城市・小林市・えびの市・三股町・高原町・綾町・国富町・宮崎市など、島津氏領内だった土地に限られる。
伊東氏の飫肥藩(宮崎県日南市・串間市のあたり)、相良氏の人吉藩(熊本県人吉市)の範囲では、近接しているにもかかわらずタノカサァ(田の神)はほとんど見られない。
南九州の田の神信仰は、島津氏と関係があることは確かだろう。
『田の神と森山の神』(著/下野敏見)によると、確認されている中で最古のものは、正保元年(1644年)とのこと。こちらは霧島市横川町にあり、衣冠束帯姿のタノカンサァとのこと。また、「田の神舞」を模したタイプは宝永2年(1705年)のものがもっとも古いようだ。
ただ、紀年銘のない像もかなり多い。こういったものの中には、もしかしたらもっと古い像があるかもしれない。
田の神像の製作は18世紀初頭から、島津氏の領内で一気に広がったようである。「田の神像をつくること」がブームになったのではないかと思われる。そして、藩も地域おこしに有効だと判断してそれを奨励した、と。
とある村で田の神像をつくって置いてみたところ豊作となった。近隣の村にもそのことが伝わって「うちの村でも田の神像をつくろう!」となる。そういう動きが広がっていった。
……そんな感じだったんじゃなかろうか? どうだろう?
近年の「ご当地キャラブーム」みたいなものだったのかな? と思ってみたりも。
源流はもっと古そう
タノカンサァ(田の神)の像製作が一気に広がったということは、それがブームであったにしろ、もともと田の神信仰がしっかりと根付いていたことが推測される。かつては、自然石などを依り代としていたのだろう。あるいは山や森といったものだったのかも。
タノカンサァ(田の神)像の姿や信仰のあり方には、路傍の石神(ミシャグジ様、おしゃもじ様、塞ノ神、岐ノ神、道祖神、庚申神など)の要素も習合しているような印象も受ける。
縄文的な雰囲気も感じられる。じつのところ、その根はすごく深いのではないだろうか。
田の神信仰そのものは全国的に見られる。地域によって「農神」とか「作神」とか呼ばれていたりする。そんな中で、南九州では田の神像が大量につくられた背景が気になるところ。田の神信仰への熱が他の地域よりも強いのか? そうであるならば、理由は何なのか? そこのところをちょっと考えてみた。
田の神=稲荷神
頭にうかんだのが、コレであった。で、稲荷信仰は秦(はた)氏と関わりが深いのだ。稲荷神は秦氏の氏神でもある。このことも何かしら影響があるんじゃないか? ……という気もする。
12世紀末頃、島津氏が南九州に入る。島津氏はもともと惟宗(これむね)姓である。秦氏なのだ。島津氏初代は惟宗忠久(これむねのただひさ)といい、島津荘(しまづのしょう)を拝領したことから「島津忠久(しまづただひさ)」と名乗るようになった。
稲荷神は島津氏の守り神でもある。ちなみに、島津義弘の兜の前立てにはキツネがいたりもする。田の神信仰(=稲荷信仰)を領内で奨励するのは、自然な流れだったと思う。像製作に関しても「ドンドンやってよ!」という感じだったのではないだろうか。
南九州と秦氏の関係は、もっと昔にも見られる。『続日本紀』の和銅7年(714年)の条に、こう書かれている。
隼人昏荒。野心未習憲法。因移豊前國民二百戸。令相勸導也。(『続日本紀』より)
「隼人がいうこときかない。だから、豊前国(現在の大分県北部と福岡県東部)から200戸(5000人くらいか)を移住させた」という。大和朝廷は移住政策により隼人支配をすすめようとしたのだ。
この移住者というのが秦一族だったようだ。移住者たちが入った場所には「桑原(くわばら)」という郡が新たに設けられた。その範囲は、現在の鹿児島県姶良市、姶良郡湧水町、霧島市の東部の範囲にあたる。「桑原」というのは秦氏と関係がある地名だ。
ちなみにこの桑原郡だったところ(姶良市・霧島市・湧水町)は、タノカンサァの数も多い。
隼人の信仰に秦氏が持ち込んだ稲荷信仰が融合して。それらが南九州の田の神信仰の根っこにはあるのではいだろうか? ……と、そんな想像もさせられる。
<参考資料>
『田の神と森山のの神』
著/下野敏見 発行/岩田書院 2004年
『田の神石像・全記録』
著/八木幸夫 発行/南方新社 2018年
『田の神サァ ガイドブック』
著/八木幸夫 発行/南方新社 2022年
『田之神さあ探訪』
著/隈元剛 発行/南日本新聞開発センター 2000年
『成形図説』
編/曽槃、白尾國柱 1806年
ほか