ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

島津忠久って何者なの?

公式発表は「源頼朝の隠し子」

島津家初代とする惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久)の出自については諸説ある。確かなことはよくわかっていない。

『島津国史』という島津家の歴史をまとめた書物がある。これは島津氏第25代当主(薩摩藩第8代藩主)の島津重豪が編纂させたもの。島津家の正史である。この『島津国史』では、忠久を源頼朝落胤としている。

忠久の母は丹後局(たんごのつぼね)、または丹後内侍(たんごのないし)という名が伝わっている。『島津国史』にある忠久誕生伝説はつぎのとおり。ちょっと引用してみる。

 

<原文>
丹後局得幸於源賴朝。有姙夫人北條氏聞之怒。使人潛殺之。頼朝之宣言流局日向州。陰使其兄比企判官能員奉之以逃。而属焉曰。所生女也。則惟汝所處男也。則以報於我。行至攝津住吉社下生男。實為得沸公。是歳治承三年也。會藤原基通謁社因取公及局而歸。使告賴朝。賴朝名公曰三郎。出局嫁八文字民部大輔惟宗廣言。故公從母畜於惟宗氏。

<だいたいこんな内容>
丹後局源頼朝の寵愛を受けていた。彼女が身籠ったことを聞いて頼朝夫人の北条政子が怒り、殺させようとした。そこで、頼朝は丹後局を日向に送ることにした。丹後局の兄の比企能員(ひきよしかず)に命じて鎌倉から逃げさせた。摂津国(現在の大阪府)の住吉社(住吉大社)まで来て、そこで男の子を産んだ。その子が得沸公(島津忠久)である。治承3年(1179年)のことだった。たまたま住吉社に参詣した関白の藤原基通(ふじわらのもとみち、近衛基通)が局とその子を連れて帰り、ことの次第を頼朝に報告した。頼朝はその子を三郎と名付けた。その後、丹後局は惟宗広言(これむねのひろこと、名は「ひろとき」とも)に嫁ぎ、忠久も惟宗姓を名乗ることになった。

 

住吉大社末社の稲荷社の加護もあり 雨が降る夜に狐火に照らされて誕生したという伝承もある。そのことに由来して稲荷神は島津氏の守り神として崇敬されることになった、とも。また、「島津雨」といって、雨は島津家にとって縁起の良いものとされている。

『島津国史』では生年を治承3年(1179年)としているが、これは違うと思われる。元暦2年(1185年)8月17日付で惟宗忠久は島津荘下司職に補任されている。また、同年6月には功があって伊勢国(現在の三重県)で地頭に補せられている。1179年生まれだと、あまりに幼すぎて年齢があわない。

忠久の頼朝落胤説は、15世紀頃には言われていたようだ(『山田聖栄自記』という文書の中に出てくる)。武家にとって、「源頼朝の後裔」というのは強力な箔付けになった。島津家にとっても都合がいいので、公式に採用したのだろう。ちなみに、豊後国(現在の大分県)の大友氏初代の大友能直(おおともよしなお)にも頼朝落胤伝説があったりする。

鹿児島市郡山にある花尾神社(はなおじんじゃ)は、島津忠久の頼朝御落胤説を物語る場所である。建保6年(1218年)に島津忠久が創建したとされ、源頼朝丹後局を祀っている。丹後局も薩摩に移り住み、このあたりで暮らしたとも伝わる。

丹後局が荼毘にふされたとされる場所には六地蔵塔が建立されていて、「丹後局御荼毘所跡」と呼ばれている。

島津家に関する史跡

丹後局御荼毘所跡

 

丹後局の墓もある。立派な多宝塔には安貞元年(1227年)の刻字があるが、現地の説明看板によると、「多分近世に建てられたもの」とのこと。写真右下に「御苔石」と呼ばれるものがあり、こちらがもともとの墓塔とも考えられているそうだ。

 

島津家に関する史跡

丹後局の墓

 

花尾神社は杉木立の中にある。本殿は正徳3年(1713年)に建造された立派なもの。大事にされてきた場所であることがうかがえる。

 

鹿児島の神社

花尾神社


惟宗氏について

惟宗広言が養父ではなく実父という説、惟宗忠康(これむねのただやす)の子が同族の広言の養子になったという説もあるが、決め手はなくはっきりしない。ただ、近衛家に仕えていた惟宗氏の出身であることは間違いなさそうだ。

後世になっても島津家は近衛家を主君として大事にした。江戸時代に島津家から徳川家に2人の御台所(島津重豪の娘の広大院、島津斉彬の養女の天璋院)を送り出しているが、どちらも近衛家の養女となってから輿入れした。

惟宗氏は渡来系の秦(はた)氏の一族とされる。四国にあった秦氏の一派が京に本貫を移し、「惟宗朝臣」の姓を賜ったのがはじまりだという。惟宗氏は明法博士(大学寮で法律を教授する役職)に名を連ねる、学者の一族である。

ちなみに、島津氏が厚く信仰している稲荷神は、秦氏氏神でもある。

惟宗氏は日向国(現在の宮崎県)と縁がある。惟宗孝言(これむねのたかこと、名の読みは「たかとき」とも)が日向国博士、その子の惟宗基言(これむねのもとこと、名の読みは「もととき」とも)が日向守、さらにその子の惟宗広言(忠久の父または養父とされる)が日向介を務めている。日向にそれなりの地盤を持ち、主家筋の近衛家が領する島津荘とも深い関りがあった可能性もなくはない。


どうやら比企氏の縁者っぽい

惟宗忠久の母・丹後局は比企氏の出身とされる。丹後局比企尼(ひきのあま)の娘と伝わっている。この比企尼源頼朝の乳母であり、その縁から比企氏は頼朝の側近として活躍する。忠久が鎌倉御家人となったのも、この縁を頼ってのものだったようだ。前述の『島津国史』の引用文では、丹後局比企能員の妹としている。

のちに、比企能員が反乱を起こして滅ぼされるが、このときに忠久も薩摩国をはじめとする守護職をすべて取りあげられている。比企氏の縁者であることから、連座であったという。

 

 

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<参考資料>
『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

『渡来氏族の謎』
著/加藤謙吉 発行/祥伝社 2018年(電子書籍版)

『謎の渡来人秦氏
著/水谷千秋 出版/文藝春秋 2008年

ほか