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おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

鎌倉殿に仕えた島津忠久、薩摩島津氏のはじまり

12世紀末、惟宗忠久(これむねのただひさ)は源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県・宮崎県)に所領を与えられた。そして、島津荘(しまずのしょう)という広大な荘園の惣地頭に補任されたことにちなみ、惟宗忠久は「島津忠久」と名乗るようになった。これが島津氏のはじまりである。

島津忠久は薩摩に住んだわけではなかった。所領の管理は代官に任せて、自身は鎌倉にあって幕府の仕事に従事する。忠久のあとをついだ島津忠時(ただとき)も、鎌倉で奉仕した。島津忠久の鎌倉御家人としての働きぶりについて、ちょっとまとめてみる。なお、日付については旧暦で記す。

 

源頼朝の御家人になる

元暦2年(1185年)6月15日付けで源頼朝から惟宗忠久へ下文が出され、伊勢国須可荘(すかのしょう、現在の三重県松阪市)・波出御厨(はたみくりや、現在の三重県津市一志町)の地頭職に補任された。下文は『島津家文書』内に残る。惟宗忠久が源頼朝に仕えたことを示す最初の記録である。

これは何らかの功があって、恩賞として与えられものである。つまり、惟宗忠久は元暦2年以前に源頼朝に仕えたということになる。

 

18世紀に25代当主の島津重豪(しげひで)が編纂させた『島津世家』『島津国史』によると、惟宗忠久は治承3年(1179年)の生まれで、父は源頼朝、母は丹後局(たんごのつぼね、丹後内侍、たんごないし)としている。源頼朝の乳母を比企尼(ひきのあま)といい、丹後局はその娘である。島津忠久の誕生については次のような話がある。

 

源頼朝と丹後局がいい仲になり、子ができた。それに激怒した頼朝の妻(北条政子)が丹後局を殺そうとしたので、源頼朝は比企能員(ひきよしかず、比企尼の養子)に命じて丹後局を鎌倉から逃がした。そして、摂津国の住吉大社(場所は大阪府住吉区)で出産。その後、たまたま参拝に来た関白の藤原基通(近衛基通、このえもとみち)に保護され、丹後局は惟宗広言(これむねのひろとき、ひろこと)に嫁ぐ。子も惟宗家で育てられた。それが惟宗忠久なのだという。また、畠山重忠を烏帽子親として元服したことから「忠久」と名乗ったとも。さらに、畠山重忠の娘を妻にしたとも。

 

……と。これを、島津家では公式に採用している。とはいうものの、頼朝落胤伝説は創作である、というのが通説となっている。生年ももっと前のはず。ちなみに、中山忠親(なかやまただちか)の日記『山塊紀』の中で、治承3年(1179年)2月8日に「左兵衛尉忠久」の名が確認できる。

ならば、惟宗忠久とは何者なのか? ……よくわからないのである。誕生の話で確実なのは名前が「惟宗忠久」ということくらい。父だけでなく、母も違っている可能性もある。妻が畠山重忠の娘というのも確証がない。ただ、逸話の中にヒントがあるとも思う。

 

まずひとつは、比企氏と深い関係がありそうだということ。のちに、比企氏の変で島津忠久も縁座で処罰されており、縁戚または姻戚の関係にあったことがうかがえる。しかしながら、比企氏も史料がほとんどなく、詳細がわからない一族だったりする。

比企氏は武蔵国比企郡(埼玉県東松山市・比企郡)に所領を持っていた一族である。藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の後裔を称するが、それが本当であるかはわからない。比企尼は実名がわからず、その父母も不明。比企能員は養子であり、どこから来たかは不明である。ちなみに、畠山重忠は武蔵国畠山郷(埼玉県深谷市)を本貫とする。ここは比企郡とも近く、比企氏と畠山氏との縁も深いと思われる。

この比企氏が惟宗氏と何かしらの縁があったようだ。比企尼はもともとは京に住んでいて、源頼朝が関東に配流となった際に任地である比企郡に下ったとされる。比企尼が惟宗氏の出身だったりとか、比企尼の姉妹が惟宗氏に嫁いでいるとか、そういったこともありうるのかも。また、比企能員が京にいた可能性もなくはない。

比企氏の推薦があって、惟宗忠久は源頼朝に仕えたのだろう。平家討伐戦でも比企氏の手勢として参加した可能性が高い。

 

惟宗氏は秦(はた)氏の後裔で、明法家を出すなど学者の家系である。上記誕生伝説では惟宗広言を忠久の養父としているが、実父であるとも。また、摂関家に仕えた京侍に惟宗忠康(ただやす)という人物があり、「忠」の通字が共通することからこちらの一族とする見方もある。

惟宗忠久は島津荘をはじめ所領を得るが、その多くが藤原摂関家(とくに近衛家)の荘園であった。藤原摂関家とも関係が深いと考えられる。鎌倉と摂関家の間をとりもつ役割を担った、という説もよく言われている。

『吾妻鏡』には、右衛門兵衛尉(惟宗忠久のこと)が源頼朝の上洛に同行したという記録もある。


薩摩・大隅・日向の守護

文治元年(1185年、元暦から改元)、惟宗忠久が島津荘の下司職(げすしき)に任じられる。さらに翌年には島津荘の惣地頭職に補任された。

島津荘は日向国・大隅国・薩摩国にまたがる巨大な荘園である。その広さは8000町(約8000ha)。万寿年間(1024年~1028年)に平季基(たいらのすえもと)が日向国島津院(宮崎県都城市)を開墾したのが始まり。下の写真は、都城市祝吉の「島津家発祥地」の記念碑。この地には祝吉御所(いわよしごしょ)という島津忠久の館があったという伝説が残る。

石造りの記念碑

島津家発祥地碑と祝吉御所跡碑

 

本家(荘園の持ち主)は藤原摂関家で、この頃は近衛基通の所有となっていた。近衛基通の養母は平盛子(たいらのもりこ、せいし)、妻は平完子(ひろこ、かんし)。いずれも平清盛の娘だ。平家政権の時代には、島津荘の実質的な支配者は平清盛の一族であり、代官は平盛俊(もりとし)だった。

下司職というのは荘園の管理者。本来は所有者である摂関家が任命するものだが、源頼朝が命じている。この広大な平家没官領を掌握するために、摂関家と縁の深い惟宗忠久に任せたと思われる。

文治元年には、信濃国塩田荘(現在の長野県上田市)の地頭職にも補任されている。塩田荘や須可荘も藤原摂関家の荘園である。

文治3年(1187年)には、薩摩国・大隅国・日向国の押領使に任命される。惟宗忠久は南九州の軍事・警察を任された。さらに、建久8年12月3日(1197年)付けで、同3ヶ国の奉行人(守護職)に補任する下文も出されている。

『島津国史』では、文治2年(1186年)より島津氏を名乗るようになったとしている。この史実性については確証がないものの、比較的早い時期から「島津」の苗字を使ったと推測される。

 

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惟宗氏の地盤が南九州にあったっぽい

じつは、南九州と惟宗氏はものすごく縁がある。そんな事例をいくつか挙げておく。

島津忠久の養父とされる惟宗広言は日向介(国司の次官)、広言の父の惟宗基言(これむねのもととき、もとこと)は日向守(国司の長官)である。

大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人)の執印(しゅいん、神宮を管理する職)に行賢(ぎょうけん)という僧がいた。大隅正八幡宮領(こちらも島津荘に匹敵するほどの巨大荘園)を大きく発展させた人物である。この行賢が惟宗氏だという。寛治元年(1087年)に大隅国に下向したされ、父が大隅国司だった。

新田八幡宮(にったはちまんぐう、新田神社、鹿児島県薩摩川内市宮内町)の執印職を世襲する執印氏も惟宗姓である。執印氏は惟宗康友(これむねのやすとも)が祖。この人物は鹿児島郡司としても名が残り、鹿児島康友や藤内康友(藤原姓を称していたこともある)とも名乗った。

薩摩国牛屎院(うしくそしん、鹿児島市伊佐市大口)の郡司(院司)の大平氏(のちに牛屎氏)は平家政権時代は平姓を称した。しかし、平家が没落すると大秦(おおはた、うずまさ)姓を名乗るようになった。こちらももともとは秦氏(惟宗氏)と関係があった一族なのかもしれない。

 

南九州に地盤を持つ惟宗氏の一族がいて、惟宗忠久(島津忠久)もこちらとつながりがあるのではないか、という気もする。このあたりの史実をひもとくには、史料がないので難しいところだが……。

【関連記事】薩摩・大隅に古くから住まう者たち (3) 行賢・執印氏・蒲生氏・矢上氏・長谷場氏・英祢氏・菱刈氏

 


最初の拠点は薩摩国山門院

『島津国史』などによると、文治2年(1186年)8月2日に島津忠久が薩摩国に下向したとされる。山門院(やまといん、鹿児島県出水市高尾野・野田)に木牟礼城(きのむれじょう)を築いて、ここを拠点にしたという。

田園風景の中の城跡

木牟礼城跡、城跡の一部が残る

ただ、薩摩国下向についてはなかったとする説が有力である。この頃、島津忠久は鎌倉や京で活動していて、任地におもむく余裕はなかったはずである。

本田貞親(ほんださだちか)・鎌田政佐(かまだまさすけ)・酒匂景貞(さこうかげさだ)・猿渡実信(さるわたりさねのぶ)をともなって島津忠久が下向したとも伝わる。実際にはこの4人が代官として薩摩にやってきたと考えられている。

本田貞親は平高望流村岡平氏で、畠山重忠と同族。もともとは畠山氏に仕えていたようである。鎌田政佐は藤原秀郷流首藤氏の一族。首藤氏は源氏に従う関東御家人である。酒匂景貞は平高望流鎌倉氏の一族で、梶原景時(かじわらかげとき)と同族。

猿渡実信は『本藩人物誌』(江戸時代に薩摩藩が編纂した人物誌)によると平高望の後裔とのこと。ただ、通称が「藤四郎」であり、藤原氏とも考えられる。猿渡といのうは武蔵国橘樹郡猿渡村(神奈川県横浜市都筑区)に由来するようで、ここに下向した藤原氏の一族が名乗ったのだという。

この4人の代官の出自からは、島津忠久が比企能員・畠山重忠・梶原景時などと関係が深かったこともうかがえる。

また、木牟礼城のある山門院は、薩摩国の北端に位置する。薩摩国の奥の方まで行けないところを見ると、平家方残存勢力や在地領主の抵抗が強かったのだろう。


千葉氏や鮫島氏も薩摩に所領を得る

島津忠久が島津荘のすべての地頭だったわけではない。

薩摩国の高城郡(たきぐん、現在の薩摩川内市西方・水引のあたり)、入来院(いりきいん、現在の薩摩川内市入来・樋脇)、祁答院(けどういん、現在の薩摩川内市祁答院・薩摩郡さつま町)、東郷別府(とうごうべっぷ、現在の薩摩川内市東郷)などの地頭は千葉常胤(ちばつねたね)が補任されている。

また、薩摩国阿多郡(あたぐん、現在の鹿児島県南さつま市)の地頭には鮫島宗家(さめじまむねいえ)が補任された。

千葉常胤は遙任(代官に管理させる)の形をとったが、鮫島宗家は薩摩国の任地に下向している。

大隅正八幡宮領の地頭には中原親能(なかはらのちかよし)が補任されたが、こちらは数年で解任されている。

【関連記事】南九州に所領を得た鎌倉御家人たち ~鮫島氏・二階堂氏・渋谷氏・比志島氏・種子島氏 ほか~

 

奥州攻めに参加

文治5年(1189年)に島津忠久が奥州征伐に従軍。島津庄内の在地領主を引き連れて参陣したが、その数は200騎ほど。領内で従う者は少なかったようだ。ちなみに、従軍した者の中には、藤内康友(惟宗康友、執印康友)の名もある。

 

弟の島津忠季

奥州征伐ののち、島津忠久は恩賞を得る。若狭国(現在の福井県西部)守護に任じられた。弟の島津忠季(しまづただすえ)を守護代(のちに守護)とし、こちらの統治を任せた。

島津忠季は玉置荘津々見保(たまきのしょうつつみほう、現在の福井県三方上中郡若狭町)の地頭補任をはじめ、若狭国内に多くの所領を得た。若狭国の津々見にちなんで、「若狭忠季」や「津々見忠季」と名乗ったりもしている。

北陸諸国(越前・越中・越後・若狭)へは、比企朝宗(ひきともむね、能員の兄弟)が勧農使(荘園を統治する職)として派遣されていた。比企朝宗が解任されたあとに、惟宗氏(島津氏)が守護として入ったのである。こちらでも比企氏と惟宗氏との縁がある。


比企能員の変

建久10年(1199年)に源頼朝が亡くなり、子の源頼家(みなもとのよりいえ)があとをついだ。まだ若い2代目の「鎌倉殿」を補佐するために、宿老13人による合議制による政治体制となった(十三人の合議制)。

13人の顔ぶれは、北条時政(ほうじょうときまさ)・北条義時(よしとき)・大江広元(おおえのひろもと)・中原親能・三善康信(みよしのやすのぶ)・梶原景時・安達盛長(あだちもりなが)・足立遠元(あだちとおもと)・八田知家(はったともいえ)・比企能員・三浦義澄(みうらよしずみ)・和田義盛(わだよしもり)・二階堂行政(にかいどうゆきまさ)。

この13人は仲良く鎌倉殿を盛り立てていく……ということはなく、権力争いを始めるのである。

源頼家は比企能員を乳母父(めのと)としていた。また、比企能員の娘(若狭局)は源頼家の側室となり、嫡男の一幡(いちまん)を産んだ。鎌倉殿に対する比企氏の影響力は大きくなった。北条時政にとって比企氏の権勢が強くなることはかなりの脅威となった。両氏は対立するようになり……そして、建仁3年(1203年)9月2日に北条時政邸で比企能員が謀殺される。比企一族は一幡の御所にたてこもり、幕府の軍勢に攻め滅ぼされた。

比企氏と縁のある島津忠久・島津忠季は、9月4日に守護職・地頭職を没収された。薩摩国・大隅国・日向国の守護職と地頭職は北条氏のものとなった。

事件当時、島津忠久は鎌倉にいなかった。大隅国の台明寺(だいみょうじ、現在の霧島市国分にあった)の紛争解決のために、現地に入っていたのである。もし鎌倉にいたなら、島津忠久も比企氏一派として討伐されていた可能性は高い。変事を知った島津忠久は鎌倉には戻らず、しばらくは京に滞在していたようである。

三国名所図会より絵図

絵図の右下が台明寺、『三国名勝図絵』(国立国会図書館デジタルコレクション)より

 

「もし無事に生きのびられたら、本堂を造立しよう」という内容の島津忠久の願文が『台明寺文書』に残っている。台明寺を離れる際に出したもので、願文は建仁3年10月19日付け。

 

薩摩国守護に復帰

建暦3年(1213年)2月、島津忠久は源実朝の学問所番として奉仕している。学問所番とはそのままズバリ将軍に学問を教えるものである。この頃には薩摩国守護職も取り戻していたようだ。大隅国と日向国については取り戻せず、こちらは北条氏の支配がその後も続く。

同年5月、和田義盛が反乱を起こす(和田合戦)。島津忠久は北条義時の配下として戦いに参加。戦後、恩賞として甲斐国波加利新荘(はかりしんしょう、現在の山梨県の東南部のあたりか)の地頭職に補任された。また、7月には島津荘薩摩方の地頭職が再び与えられる。薩摩の所領を取り戻した。

 

承久の乱

承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げる。幕府はこれを迎え撃った。承久の乱である。島津忠久は幕府方で参加すえる。また、嫡男の島津忠義(ただよし、のちに忠時、ただとき)や島津忠季(若狭忠季)も従軍した。6月14日の宇治川合戦では北条泰時(やすとき、義時の子)の手勢として戦い、島津忠義(島津忠時)は5人を討ち、2人を生け捕りにする活躍を見せた。一方、島津忠季(若狭忠季)は戦死する。

承久の乱ののち、島津忠久は越前国(現在の福井県)の守護職に補任される。島津忠綱(ただつな、忠久の次男)を守護代とし、統治をまかせた。

島津忠季(若狭忠季)の戦死にともない、若狭国守護には島津忠義(島津忠時)が任じられた。若狭国内16カ所の地頭職にも補任された。また、忠季の嫡男の若狭忠清には若狭国内の9カ所の地頭職が与えられた。


島津忠義(忠時)、恩賞もらいまくり

島津忠義の名乗りは、北条義時より「義」の字を偏諱として賜ったものだと考えられる。時期はわからないが、のちに島津忠時と名乗りを変える。こちらは北条氏の通字である「時」を賜ったものだろう。

幕府は島津忠義(島津忠時)の働きぶりを高く評価したようで、承久の乱のあとに若狭国内のほかにも多くの恩賞を出している。

承久3年(1221年)には越前国生部荘(いけぶのしょう、現在の福井県福井市生部町のあたり)、久安保重富(ひさやすほうしげとみ、場所の詳細は不明)、伊賀国長田郷(ながたごう、現在の三重県伊賀市)の地頭職に補任される。貞応2年(1223年)に近江国興福寺荘(現在の滋賀県、興福寺領のことか)、讃岐国櫛無保(くしなしほう、現在の香川県善通寺市のあたりか)の地頭職が与えられている。

幕府からの信任は厚く、島津忠義(島津忠時)は将軍・藤原頼経の近習番も務めた。


島津忠久、祭祀で活躍

『吾妻鏡』では、承久の乱のあとは鎌倉で祭祀を行った記事が目立つようになる。島津忠久は祭祀や陰陽道に明るかったようで、これらを取り仕切る役目を担った。列挙すると、承久4年(1222年)3月に月曜祭を沙汰、貞応3年(1224年)10月に天変御祈を奉行、嘉禄3年(1227年)4月に鬼気祭を沙汰、といったところだ。

嘉禄3年6月、島津忠久は亡くなる。家督は嫡男の島津忠義(島津忠時)がついだ。

 

島津忠久については過去にも記事にしている。

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こちらは参考資料の一部。

 

 

 

<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『改訂 島津忠久とその周辺』
著/江平望 発行/高城書房 2004年

『島津忠久と鎌倉幕府』
著/野村武士 発行/南方新社 2016年

『北条義時 鎌倉殿を補佐した二代目執権』
著/岩田慎平 発行/中央公論社 2021年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『福井県史』通史編
発行/福井県 ※福井県文書館「デジタル歴史情報」にて閲覧

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

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