これ、素晴らしい一冊だ! 帯には「戦後初の中世島津氏本格的通史!」の文字。そのとおりの内容となっている。「ずっとこんな本が欲しかった」と、個人的に思っていた。
『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁
発行/戎光祥出版
2023年10月発売
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島津氏の歴史は長い。12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が南九州に所領を得たことに始まる。島津荘(しまづのしょう)の地頭職に補任されたことから「島津」を名乗りとした。この島津忠久(惟宗忠久)から、島津氏の南九州支配は明治維新まで続くことになるのである。
『図説 中世島津氏』では、島津氏の歴史のうちの鎌倉時代から関ヶ原の戦いの戦後処理あたりまでを解説。12世紀末から17世紀初頭までの400年ちょっとの期間のことを「通し」で理解することができるのだ。
わかりやすいぞ!
島津氏の中世史は、たいへんにややこしい。これを『図説 中世島津氏』は、とてもわかりやすく解説してくれている。
編集は新名一仁(にいなかずひと)氏で、執筆もかなりの部分を担当している。中世島津氏研究の第一人者で、島津氏に関する書籍をこれまでにも多く手がけている。いずれも良書で、複雑にからみあった要素をほどいてわかりやすく説明してくれる。『図説 中世島津氏』もそんな感じだ。専門的でありながら、とても読みやすい。
執筆者として栗林文夫氏と久下沼譲氏も参加。こちらの二人も中世島津氏を精力的に行っている方々である。本書では、島津忠久と鎌倉時代を栗林氏が、豊臣政権下の島津家の動きについては久下沼氏が担当している。この両氏の解説も丁寧であり、濃密であり、わかりやすい。
「図説」とあるとおり、ビジュアルが豊富に掲載されている。地図や系図、写真や絵図など、これだけでもかなり見応えがある。
また、島津氏の史料としては『島津家文書』というものがある。島津家に伝わる膨大な古文書で、東京大学史料編纂所が収蔵。国宝にも指定されている。この『島津家文書』からのものをはじめとする書状も多く掲載されている。貴重な史料を見ることができるのもうれしい。
ちなみに表紙の絵は『耳川合戦図屏風』(京都市上京区・相国寺像)から。こちらも本書の中で掲載されている。
島津忠良より前の時代も面白い!
島津氏の歴史は、16世紀に入ってからの島津忠良(しまづただよし)以降のことがよく語られる。島津忠良と島津貴久(たかひさ)の父子、孫世代の島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟は、それなりに知名度も高い。
一方で、島津忠良よりも前の時代……つまり南北朝争乱期から戦国期の初めまでについては、知っている人はすごく少ないんじゃないかと思う。地元の鹿児島県内でも、あまり興味を持たれていないような気がする。
これには理由がいろいろあると思う。
まず、戦国時代後期(16世紀の半ば以降)というのは人気のある時代である。ゲーム・漫画・小説・映像作品などで光が当たるこも多い。だが、その前の時代となると、あまりピンとこない人も多いんじゃないだろうか。
また、島津忠良にはじまる三世代は顕彰されがちなのだ。鹿児島県内での肌感覚としてそんな印象を受ける。例えば、島津忠良の『いろは歌』が持てはやされたり、島津義弘を偲んで「妙円寺詣り」が続いていたり。戦国島津氏に関しては、けっこう馴染みがある。
こういった顕彰については、家柄の正統性を示す必要があったからだろう。江戸時代の島津氏の血統は島津忠良・島津貴久から続くもの。もともとは分家であり、本家に取ってかわった。いわゆる下剋上なのである。だから、江戸時代から島津家が主体となってなんとか持ち上げようとしてきた、という印象がある。史料もよく残っているし、二次資料の編纂も盛んに行われた。その傾向は、現在にも引き継がれている。
かたや、島津忠良以前の歴史については、初代以外は「あまり持ち上げる必要がなかったところ」なのだろう。
そんな感じであまり語られない島津忠良以前の歴史なのだが、これがものすごく面白い! 14世紀から16世紀初頭の長きにわたって泥沼の戦乱が展開されているのだ。
そして、島津忠良より前の時代をよく知ることで、戦国大名としての島津氏についての理解もより深まると思う。
14世紀からずっと戦国時代
「戦国時代」の定義はいろいろ言われていたりする。応仁元年(1467年)の「応仁の乱」から、というのが一般的だろうか。
これは島津氏のいる南九州においては当てはまらない。ずっと戦乱が続いているような感じなのである。
12世紀末、島津忠久が守護職・地頭職として南九州の支配者に。郡司系氏族と領有権を争いつつ、鎌倉の幕府のもとで支配権を確立していく。だが、元弘3年(1333年)に鎌倉の幕府が倒れて、さらに新政権も崩壊して南北朝争乱期に突入。南九州では島津氏と在地豪族系領主たちとの戦いが激化する。
南北朝争乱期の南九州の状況は二転三転四転五転……する。島津氏は足利尊氏に従うも、単純に南朝方と戦うという構図だけにはとどまらない。幕府が派遣した畠山直顕(はたけやまただあき)や今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)とも抗争。状況によって島津氏は北朝方についたり、南朝方についたりと立ち回る。
ちなみに島津氏が鹿児島に本拠地を置いたのはこの頃。東福寺城(とうふくじじょう、鹿児島市清水町)に入ったのが始まり。
また、島津氏は総州家と奥州家の2系統に分かれた。14世紀半ばに島津貞久(さだひさ)が島津師久(もろひさ)に薩摩国守護を、島津氏久(うじひさ)に大隅国守護を分割して相続させたことによる。島津師久のほうを「総州家」、島津氏久のほうを「奥州家」と呼ぶ。南北朝争乱期は両家は協力して、目の前の敵と戦った。しかし、共通の敵がいなくなると、協力から対立へと変わる。この争いは奥州家の島津元久(もとひさ)が制した。奥州家が島津氏の本流となっていく。
15世紀に入ると、島津元久(奥州家)の後継者問題にからんで大乱となったり、奥州家が分裂して争ったり、分家が反乱を起こしたり……と混乱が続く。政権を運営するには島津氏の分家や支族、島津氏以外の有力国衆の支持を集める必要があった。そして、守護家である奥州家の求心力は、とんどん弱くなっていく。15世紀末には統制がとれなくなり、「三州大乱」という状況に。
そのあとに登場するのが相州家の島津忠良・島津貴久の父子。島津家の覇権をめぐって薩州家と争うことになるのだ。そして、薩州家との抗争を制し、本家筋にあたる奥州家から政権を奪う。
島津貴久とその息子たち
島津家の歴代当主の中でもっとも「凄さ」を感じるのは島津貴久だ。あくまでも、個人の感想ではあるが。
島津氏の最大版図を築き上げたのは次の世代(島津義久・島津義弘・島津歳久・島津家久)で、こちらのほうがよく知られていることだろう。その最盛期への道筋を立てたのが、四兄弟の父である。
また、島津日新斎(島津忠良)がやたらと顕彰されていることもあり、この父の影に島津貴久は隠れてしまっているような印象もある。
南九州は収拾のつかない状況が200年以上続いていた。これを収拾し、強固な政権を築いていく。しかも、分家から本家に取ってかわってのことである。これは凄いことだ、と思う。
天文8年(1539年)に島津貴久は薩州家との抗争を制し、その後、島津家の実権を握る。三州(薩摩・大隅・日向)の太守であることを宣言するが、反発する者は多かった。島津貴久を認めない一門衆・国衆との戦いに明け暮れることに。苦労しながらも、着実に勢力を広げていく。
島津貴久は戦巧者であったようだ。本書を読むと、そんな印象を受けるのではないだろうか。攻めどころの見極め、調略や和睦交渉の仕掛けどころ……などなど、じつに巧みに立ちまわっている。
永禄9年(1566年)に島津貴久は隠居。家督を嫡男の島津義久に譲った。この時点で、薩摩国の中南部、大隅国の始羅郡・桑原郡、日向国の真幸院を押さえている。また、薩摩国出水の薩州家、日向国庄内の北郷(ほんごう)氏とは同盟関係を結んでいた。
一方で、島津氏の包囲網も形成されていた。菱刈(ひしかり)・入来院(いりきいん)・東郷(とうごう)・相良(さがら)・伊東(いとう)・肝付(きもつき)・伊地知(いじち)・禰寝(ねじめ)などが連携して対抗する。
隠居した島津貴久は包囲網の切り崩しにかかる。菱刈・大口(現在の鹿児島県伊佐市)を攻めて、菱刈氏・相良氏と戦う。永禄12年(1569年)に菱刈氏を降伏させ、相良氏とも和睦する。菱刈氏が降伏すると、入来院氏と東郷氏も従属を申し出た。包囲網の一角は崩れた。
元亀2年(1571年)に島津貴久は没する。これを好機と見たのか、翌年に大隅の肝付氏・伊地知氏。禰寝氏が鹿児島に侵攻。また、伊東氏も動く。元亀3年に真幸院の島津領内を攻めた(木崎原の戦い)。
ここから、南九州の状況は目まぐるしく動く。島津義久・島津忠平(島津義弘)・島津歳久・島津家久は敵の侵攻を迎撃し、逆に撃って出る。天正2年(1574年)までに大隅勢(肝付・伊地知・禰寝)を降伏させる。さらに、天正5年12月(1578年)には日向国伊東氏領を奪う。ものすごい速度で「三州統一」を成し遂げた。
そのあとの展開も速い。島津氏は九州北部の大友(おおとも)氏や龍造寺(りゅうぞうじ)氏としのぎを削る。両勢力と争いつつ、島津氏は勢力をどんどん広げていく。天正14年(1586年)頃には、九州は島津一強の様相となる。
戦国時代を生き残る
島津氏と大友氏との争いに、関白になった豊臣秀吉が介入。「惣無事令」をつっぱねた島津氏は、豊臣秀吉の大軍勢に攻められて天正15年(1587年)に降伏した。
豊臣政権政権下で島津氏は苦労する。領内の統制がなかなかとれず、家を取り仕切る島津義久と島津義弘も噛み合わない。豊臣政権の命令を遂行できないどの失態もあり、取り潰されてもおかしくないような「危うさ」の連続という感じだ。そして、関ヶ原の戦いにも巻き込まれて……。
このあたりの事情についても『図説 中世島津氏』ではよくわかる。
島津氏は中世を生き残る。そして、近世へと続いていく。