ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

安永城跡にのぼってみた、北郷氏の拠点のひとつ、庄内の乱の激戦地にも

日向国の都城盆地の一帯は昔から「庄内(しょうない)」「荘内」と呼ばれている。これは「島津荘(しまづのしょう)のうち」を意味する。そして、宮崎県都城市に「庄内町」というところがある。

この庄内町に山城跡がある。安永城(やすながじょう)という。別名に鶴翼城とも。

 

都城盆地は14世紀から島津一族の北郷(ほんごう)氏が長きにわたって治めた。北郷氏は17世紀に名乗りを「島津」に復し、「都城島津氏」「都城島津氏」とも呼ばれている。

安永城は、北郷氏が拠点とした城でもある。

 

 

 

 

北郷氏と安永城

南北朝争乱期に活躍した人物に島津資忠(しまづすけただ、北郷資忠)がいる。北郷氏の初代にあたる。島津氏4代当主の島津忠宗(ただむね)の六男で、兄の島津貞久(さだひさ、5代当主)とともに各地を転戦する。

文和元年・正平7年(1352年)、足利義詮(よしあきら)より日向国北郷(ほんごう)の地が島津資忠に与えられる。この所領を名乗りとしたのが北郷氏の始まりだ。ちなみに、安永城も北郷のうちにある。

 

北郷氏は、はじめに北郷山田の薩摩迫(さつまさこ、都城市山田町中霧島)に住んだ。そして永和元年・天授元年(1375年)に都之城(みやこのじょう、都城市都島町)を築いて居城を移した。

 

都之城についてはこちらの記事にて。また北郷氏の詳細もこちらにて。

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享徳2年(1453年)、北郷持久(もちひさ、北郷氏5代)は大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)を匿ったことで幕府から追及される。都之城を没収され、謹慎の身となった。

寛正6年(1465年)に許されて謹慎が解け、そして、応仁2年(1468年)に安永城を築いて居城を移した。

安永城は北郷氏の再起の場となったのだ。

 

文明8年(1476年)、北郷敏久(としひさ、持久の子、6代当主)は都之城へ復帰した。その後も、安永城は北郷氏の重要な城のひとつとして扱われる。北郷数久(かずひさ、7代当主)の隠居所にもなった。

 

安永城の近くには、初代の北郷資忠をはじめ、一族の墓所もある。

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気軽に山城の雰囲気を感じられる

安永城は霧島連山から連なるシラス台地の尾根先に築かれている。内城・今城・新城・金石城の4つから構成される。現在は、開発が進んでいて、だいぶ削られてしまっている。

本丸(内城)は山城の雰囲気を残す。「庄内城山公園」「庄内児童公園」として整備されている。

駐車場は2ヶ所。麓と山上にある。下から攻めるもよし、いきなり車で山上を目指すもよし。今回の訪問では麓から向かう。

 

安永城は近世においては廃城となるが、その麓には庄内十二外城のひとつの「安永郷」の地頭仮屋が置かれた。「庄内城山公園」の駐車場からちょっと登ると、広い平坦な空間がある。そこが地頭仮屋だという。

山城跡の公園

城山公園の広場、地頭仮屋跡

 

山のほうに近づくと登り口がある。ここを上へ。

登山道の登り口

本丸へ

 

登山道は山城跡らしい、

登山道

登る

登山道

さらに登る


一気に視界が開けた。3分ほどで山上の「庄内児童公園」に。ここが本丸の曲輪跡である。ただし形状については、公園整備の際に山がだいぶ削られているという。

広場

本丸跡

 

広場

こちらも本丸跡

 

山上の駐車場から下りの道路が伸びている。道路を挟んだところにも曲輪跡と思われる場所がある。

堀っぽい地形

たぶん堀かな?

 

道路を降りていく。この道も堀っぽくも見えるが……どうだろう?

堀っぽい地形

車道を降りる

 

ちょっと降りると、城への入口。ここに標柱もあった。

登り口

「安永城跡入口」の標柱

 

入口から道路へ出て歩く。この道は本丸跡と二之丸跡(今城か?新城か?)を区切る堀にあたる。

ここも堀

左が二之丸跡、右が本丸跡

 

 

この道を登ると二之丸跡にも登れる。台地の上は畑だ。

山城跡の道路

右が二之丸への道

 

さらに道を下っていくと、スタート地点に戻ってきた。

ちなみに、麓の広場には立派な記念碑も。「前田正名翁顕彰碑」である。前田正名は鹿児島藩の藩医の家柄の出身で、明治維新後に殖産興業に尽力した人物だ。都城でも開田事業を手掛けている。

記念碑

前田正名翁顕彰碑

 

ちょっと車で移動して、本丸跡の西側へまわる。写真右奥が本丸跡。左手前が金石城跡。

田園風景と山城

麓から見る

 

山道も歩きやすく、気軽に立ち寄れる山城跡となっている。散策時間もあまりかからない。ただ、歩き回ったのは本丸のあたりだけにすぎない。全体の規模はかなり大きい。

 

 

 

北郷忠相が巻き返す

15世紀末の南九州は「三州大乱」と呼ばれる状態だった。島津氏は薩摩国・大隅国・日向国の守護ではあったが、領内を押さえきれない。分家が反乱を起こしたりも。島津氏領内が混乱する中で、日向国の庄内においては伊東(いとう)氏が勢力を広げつつあった。

伊東氏に圧されて、北郷氏は都之城と安永城の2城にまで勢力を削られていた。伊東氏だけでなく、北原(きたはら)氏・新納(にいろ)氏・本田(ほんだ)氏・肝付(きもつき)氏と周囲も敵だらけである。

そんな滅亡一歩手前の状況で家督を継承したのが北郷忠相(ただすけ、数久の子、8代)だった。北郷忠相は伊東氏の攻撃をしのぐ。周囲の勢力との外交も巧みだった。逆に攻め手に回って次第に勢力を広げていった。

天文元年(1532年)には伊東氏を攻めて勝利し、庄内から追い出すことに成功。天文12年(1543年)には庄内を制圧する。

北郷氏は島津貴久(たかひさ)・島津義久(よしひさ)と連携して、伊東氏や肝付氏と戦う。島津氏の勢力拡大において、大きな役割を果たした。

 

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北郷相久の自害

北郷時久の嫡男は、北郷相久(すけひさ)といった。安永城のうちの金石城の城主であった。天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)で活躍するなど、武勇に優れた人物だったという。

天正9年(1581年)あるいは天正7年(1579年)のこと、北郷相久は父と不和になり、金石城で自刃した。家臣の讒言により父子が敵対したことによるものと伝わる。死後は祟りもあったとかで、都之城近くに若宮八幡を建てて霊を慰めたという。のちに兼喜大明神と改称。現在は兼喜神社と称する。

 

ちなみに、北郷相久は島津義弘(しまづよしひろ)の長女を妻とした。名を千鶴という。「御屋地(おやじ)」という呼び名で知られている。

島津義弘は北郷忠孝(忠相の子)の娘を最初の妻とした。政治的な理由ですぐに離縁するが、このときに千鶴が生まれている。

北郷忠孝の娘は、その後、北郷時久の後妻となる。千鶴も北郷家で育てられた。長じて北郷相久の妻となる。ということは、北郷相久は妹と結婚したことになる。ただし、父も母も違う妹である。ややこしい。

時期はわからないが、北郷相久と千鶴は離縁している。

 

 

 

庄内の乱

天正15年(1587年)に島津氏は豊臣秀吉の傘下となる。北郷時久(ときひさ、忠相の孫、10代)は抵抗するが、こちらも降伏。庄内を安堵された。

しかし、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の命により、島津家中では大幅な国替えが行われる。北郷時久は薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)に転封。庄内を離れることとなった。

庄内は伊集院忠棟(いじゅういんただむね)に与えられた。

慶長4年(1599年)、事件が起こる。伊集院忠棟が島津忠恒(ただつね、島津家の後継者)によって京の伏見で殺害される。

そして、庄内にあった息子の伊集院忠真(ただざね)が挙兵。「庄内の乱」である。島津義久・島津忠恒は叛乱の鎮圧に動く。北郷氏の軍勢も従軍し、旧領の庄内をともに攻めた。

 

慶長4年12月8日(旧暦)、安永で戦いがあった。島津方は大敗する。『三国名勝図会』によると次のとおり。

安永城は伊集院五兵衛・中山平太夫・白石永仙らが守っていた。伊集院方は中霧島・諏訪山・風呂谷・枳ヶ谷に兵を伏せて、島津勢が押さえていた山田城(都城市山田町山田)に攻撃を仕掛けた。島津方の種子島氏の部隊200が出撃し、敵が退くところを追撃。中霧島で伏兵が起こって島津方は敗走した。

また、安永城中では薪を積んで火をかけて落城を偽装する。安永城が陥落したと見た島津方が攻勢に出ると、諏訪山・風呂谷・枳ヶ谷の伏兵が島津方を叩く。城兵も撃って出た。島津方は敗走。伊集院方がなおも追撃する。島津勢は追い込まれるが、頴娃秀久(えいひでひさ、のちの入来院重高)が救援に入り、なんとか伊集院方を退けた。

激戦であった。


その後、島津氏と伊集院氏は徳川家康の仲介があって和睦。慶長5年(1600年)、伊集院忠真は移封となり、庄内を離れた。庄内へはかわりに北郷忠能(ただよし、時久の孫)が入った。北郷氏は旧領に復帰する。これ以降、明治維新まで北郷氏(都之城島津家)の庄内支配は続いた。

 

 

 

 

 

 

<参考資料>
『【新版】都城市の中世城館』
編集・発行/都城市教育委員会 文化財課 2019年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『旧記雑録拾遺 諸氏系譜二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1990年

ほか