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おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

島津義久の娘たち、御平と新城と亀寿、血の重さを背負わされた三姉妹

島津義久(しまづよしひさ)には娘が3人いる。長女は御平(於平、おひら)、次女は新城(しんじょう)、三女は亀寿(かめじゅ)と呼ばれている。

島津義久の娘たち

島津義久は島津氏の16代当主に数えられる。薩摩国・大隅国・日向国を制圧し、さらには九州全土へとその勢力を広げた。ただ、島津義久には男子がなかった。当然、後継者をどうするのかという問題が出てくるのである。そんな中で、島津義久の娘たちの存在がかなり重要になってくる、「島津義久の血をつなぐ者」として。

なお、日付については旧暦にて記す。

 

 

島津義久の略伝

島津義久は天文2年(1533年)の生まれ。島津貴久(たかひさ)の長男である。母は入来院重聡(いりきいんしげさと)の娘。弟には島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)がいる。ちなみに島津貴久に娘はいない。

 

元服してまずは「島津忠良(ただよし)」と名乗る。「忠良」というのは祖父と同じ名であった。天文21年(1552年)に足利義輝から偏諱を賜って「島津義辰(よしとき)」と名乗る、さらに「島津義久」と改名している。

 

天文23年(1554年)の岩剣城(いわつるぎじょう、鹿児島県姶良市平松)攻めで初陣。父ともに本陣にあって、総大将を務めた。これ以降も同様の陣立てが多く、若い頃から次期当主として期待されていたことがうかがえる。

永禄9年(1566年)、家督を譲られる。島津義久は当主となる。元亀2年(1571年)に後見していた父が没し、島津家は完全に代替わりした。

島津義久の代になり、大隅の肝付兼亮(きもつきかねすけ)らを降伏させ、日向の伊東氏を倒してこちらにも勢力を広げた。天正6年(1578年)には、日向の覇権をめぐって豊後の大友氏と戦い(高城川の戦い、耳川の戦い)、大勝する。その後は、肥後国に進出し、肥前の龍造寺氏との抗争も制し、勢力範囲は九州全土まで広がる。しかし、豊臣秀吉の征討を受けて敗北。降伏して豊臣政権下に入った。

 

島津義久について、詳しくはこちらの記事にて。

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島津義久の妻たち

島津義久の正室は島津忠良の四女(島津貴久の異母妹)である。なんと叔母にあたる。生年は不明。実名も不明。永禄2年(1559年)に若くして亡くなる。法号は「花舜妙香大姉」という、後世では「花舜夫人」と呼ばれたりもする。こちらは長女の御平をもうける。

 

継室は種子島時堯の次女。こちらも生年と実名は不明。元亀3年(1573年)に亡くなっていて、法号は「円信院殿妙連大姉」。このことから「円信院」や「妙連夫人」と呼ばれる。こちらは新城と亀寿を産んだ。

ちなみに種子島時堯の次女の母は、島津忠良の三女(島津貴久の同母妹、「御西」という名が伝わっている)である。つまり、島津義久とは従兄妹にあたる。こちらも近親婚であった。

 

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なお、島津義久が側室を持った、という話は伝わっていない。

 

 

 

長女の御平

長女は「御平」と呼ばれる。「於平」とも書く。天文20(1551)年の生まれ。御平は薩州家(さっしゅうけ)の島津義虎(よしとら)の正室となる。

 

薩州家は島津氏の有力分家の一つ。ちなみに島津貴久も相州家(そうしゅうけ)という分家の出身である。薩州家の島津実久(さねひさ)と相州家の島津貴久は激しく争った。この抗争を島津貴久が制して当主の座についた。そんな経緯もある。島津義虎は島津実久の嫡男。激しく争った父とは異なり、島津貴久・島津義久とは同盟関係となる。

島津義虎は島津貴久と協力した記録は、永禄10年(1567年)の菱刈攻めから。こちらに出陣している。このちょっと前に同盟関係となったことが推測される。御平が薩州家に嫁いだ時期は不明だが、この頃だったのだろう。

 

御平は薩州家で6人の男子を産む。

長男/島津忠辰(ただとき)
次男/島津忠隣(ただちか)
三男/島津忠清(ただきよ)
四男/島津忠栄(ただなが)
五男/島津忠富(ただとみ)
六男/島津忠豊(ただとよ)


天正13年(1585年)に島津義虎が没し、薩州家の家督は嫡男の島津忠辰が継いだ。島津氏が豊臣秀吉に降ったあと、薩州家は御朱印を得て大名として遇された。このとき、四男の島津忠栄は人質として差し出され、細川藤孝(ほそかわふじたか、細川幽斎、ゆうさい)の預かりとなっている。

文禄2年(1593年)5月に島津忠辰は改易される。朝鮮出陣で命令に従わなかったとして豊臣秀吉の怒りを買ってのことだった。同年8月には島津忠辰が没する。病死と伝わる。

改易後、御平・島津忠清・島津忠富・島津忠豊は肥後国宇土(熊本県宇土市)に連行され、宇土領主の小西行長(こにしゆきなが)の預かりとなった。

 

なお、次男の島津忠隣は、男子のなかった島津歳久の婿養子に迎えられている。ただ、天正15年(1587年)に日向国根白坂(ねじろさか、宮崎県児湯郡木城町)で戦死。早世している。また、四男の島津忠栄は引き続き細川家預かりの身である。

 

宇土連行の直後に、御平のみが島津家に戻された。島津義久の娘でもあり、島津氏側としてはなんとか取り戻せるように交渉したのだろうか。以降は父のもとで暮らすことになる。文禄3年(1594年)に島津義久は大隅国の富隈(鹿児島県霧島市隼人町住吉)に移り、御平もこちらへ。上井(霧島市国分上井)に住居が与えられた。慶長8年(1603年)に上井で亡くなる。墓も上井城跡の麓にある。

 

『本藩人物誌』の島津義虎の項にて、御平のことでこう記されている。

忠辰御改易ノ後隅州上井ノ平ニ被成御座御平様ト申上候 (『本藩人物誌』より)

「御平」と呼ばれるようにはなったのは、上井平に住んだことに由来するという。そうであるならば、呼称はけっこう晩年の頃のものとなる。若い頃は何と呼ばれていたのだろうか?


御平の息子のうち、五男の島津忠富は宇土を抜け出し、朝鮮の島津義弘のもとに参陣。島津家に帰参する。泗川の戦いなどで活躍した。帰国後に「島津久秀」と名乗りを変え、さらに頴娃氏の家督をつぐ。頴娃久秀は島津義弘に従って関ヶ原の戦いに参加し、帰国をはたす。慶長10年(1605年)には入来院氏の家督を継承し、「入来院重国」と名乗る。のちに「入来院重高」と名を改めている。その生涯で、名前や立場がかなり変化した。

 

四男の島津忠栄も細川家のもとを抜け出す。日向国の佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)の島津豊久(とよひさ)のもとに転がり込む。豊久の姉のとりなしもあって食客となった。そして、島津豊久が関ヶ原で戦死したあと、豊久の姉とともに佐土原城の乗っ取りを画策したとも。そして佐土原の家臣団に攻められ、逃亡する。その後は島津義久を頼る。母の御平の所領の一部を継承した。


六男の島津忠豊は宇土で早世。三男の島津忠清については、いろいろある……後述する。

 

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三女の亀寿

元亀2年(1571年)の生まれ。幼名が「亀寿」。読みは「かめじゅ」とするのが一般的だが、「かめひさ」である可能性もなくはないかな、と。結婚後は「御上様」と呼ばれた。

 

天正15年(1587年)に島津氏が豊臣秀吉に降伏し、亀寿は人質として上洛。翌年に帰国する。その後、島津久保(ひさやす)と結婚する。

島津久保は島津義弘の次男である。島津義久に男子がなかったことから、島津家の後継者に指名された。亀寿が正室となったのも、この決定によるものだろう。そして、島津久保と亀寿とのあいだに子ができ、家督を引き継いでいくことが期待されていたと考えられる。

天正20年(1592年)に島津久保は朝鮮に出征。一方、亀寿は人質として再び上洛する。

文禄2年(1593年)、島津久保が朝鮮で陣没。病死であった。島津家中では代わりの後継者として、島津忠恒(ただつね)が立てられることになった。こちらは島津義弘の三男だ。後継者擁立にあわせて亀寿も再婚することに。引き続き島津義久の血を継ぐ役割を期待された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのあと、戦場を脱出した島津義弘は大坂に寄る。そして、人質を奪還して帰国する。亀寿も鹿児島に戻った。

 

島津忠恒と亀寿のあいだに、子はできなかった。夫婦仲はかなり悪かったと伝わる。島津義久が没した慶長16年(1611年)には、亀寿は鹿児島城から国分城(鹿児島県霧島市国分中央)に移る。ここは島津義久の居城であった。以降は、「国分」とも呼ばれる。別居のまま寛永7年(1630年)に国分で没した。

 

 

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次女の新城

天正6年(1563年)の生まれ。実名は不明。「新城」と呼ばれたのは、結婚後の住まいのあった場所に由来する。

天正2年(1574年)に島津彰久(あきひさ)との縁談が持ち上がり、しばらくして結婚する(正確な時期はわからない)。

島津彰久は島津以久(もちひさ)の嫡男である。島津以久は島津忠将(しまづただまさ、島津貴久の弟)の子。島津義久とは従兄弟の関係であり、家中で重きをなした。島津以久は相州家を相続したともされる。相州家は「脇の惣領」とも言われ、ナンバー2の家柄という感じであった。

文禄4年(1595年)に島津彰久は朝鮮で陣没する。病死であった。島津彰久と新城のあだいには息子が一人。島津忠仍(ただなお)といい、のちに島津久信(ひさのぶ)と名を改める。

島津以久は慶長8年(1603年)に徳川家康から佐土原を拝領され、これが佐土原藩の起こりとなる。島津以久は佐土原に移り、本領の大隅国垂水(たるみず、鹿児島県垂水市)は嫡孫の島津久信に譲る。


慶長4年(1599年)に島津義久は島津忠恒に家督を譲る。これは、亀寿とのあいだに男子を、つまり「島津義久の孫」をもうけることを前提としていたと考えられる。だが、二人は不仲で、子ができる気配はない。そんな状況にあって、すでに島津義久には孫がいた。薩州家の兄弟たちと、そして新城が産んだ島津久信である。

島津義久は島津久信を後継者にしたいと思うようになった。だが、家臣の反対もあって実現はしなかった。

この相続問題は、その後も続く。慶長15年(1610年)には家老の平田増宗(ひらたむすむね)が島津家久(島津忠恒から改名)の命で上意討ちされるという事件も。上意打ちの理由は記録がないが、島津久信の当主擁立を画策していたことによるとも。

慶長15年には島津以久が没する。島津久信は幕府から佐土原の相続を命じられるが、これを辞退する。この時点ではまだ、島津家の当主の座につける可能性が残されていたのだろう。

慶長16年(1611年)に島津義久が亡くなる。これで、後継者争いは終わる。島津久信の立場はかなり悪くなった。

 

佐土原の相続を蹴った島津久信は、引き続き垂水を領した。この家は「垂水島津家」と呼ばれる。垂水家は本家に次ぐ家として遇された。その一方で、島津家久(島津忠恒)にとっては、煙たい存在であったようだ。

元和2年(1616年)、島津久信は隠居させられる。体の弱かった長男を廃嫡し、次男を立てようと画策したことを咎められてのことだった。長男の島津久敏(ひさとし)が家督をつぐが、こちらは寛永元年(1624年)に早世した。次男の島津久章(ひさあきら)には家督相続が認められず、島津家久(島津忠恒)の子が垂水家の後嗣とされた。四男が入り、のちに七男が後継者とされた。

 

垂水家を継ぐことができなかった島津久章は、祖母の新城の所領を相続して新たに家を起こすことになった。こちらは「新城島津家」という。

寛永13年(1636年)、島津久章は島津家久(島津忠恒)の七女と結婚。翌年、島津家久(島津忠恒)は結婚祝いで垂水を訪れる。その直後に島津久信が急死する。毒殺されたとも。

寛永17年(1640年)、島津久章は江戸からの帰国途中に失踪。紀伊国の高野山(和歌山県伊都郡高野町)で見つかり、薩摩国に送還された。

 

寛永18年(1641年)、新城は垂水で亡くなる。享年79。法号は「瑚月浄珊庵主」。長生きはしたものの、家族に不幸が多い生涯だった。

なお、孫の島津久章は薩摩国谷山の清泉寺に蟄居。この地で正保2年12月(1646年)に討たれている。

 

 

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御平の孫娘が血をつなぐ

島津義久の血は、じつは継承される。御平の息子の島津忠清からつながるのである。

島津忠清は肥後国宇土で小西行長の預かりとなっていたが、関ヶ原の戦いのあとに小西家が消滅。かわって加藤清正(かとうきよまさ)の預かりとなり、隈本(熊本市)で暮らした。島津義久は加藤清正にこの孫の返還を求めて交渉。交渉はまとまり、慶長14年(1609年)に島津忠清は薩摩国に戻ることができた。

島津忠清は宇土で嫁をとり、子もいた。長女は島津家久(島津忠恒)の側室となり、三男三女(島津家久の長女・次男・四男・七女・七男・九女)をもうけた。

島津忠清の娘(実名は不明、「心応夫人」とも呼ばれる)が産んだ子には島津光久(みつひさ、島津家久の次男)がいた。島津光久は亀寿を養母とし、島津氏の家督を継ぐことになった。島津光久は、血統的には島津義久の玄孫でもあるのだ。


また、島津忠清の娘が産んだ子は、垂水家とも関わりが深い。四男は北郷忠直。垂水家の島津久敏(新城の孫)の後継者に指名されたあと、北郷家を継ぐことになった。七男は島津忠紀で、北郷家に移った兄にかわって垂水家の家督をついだ。そして七女は島津久章(新城の曾孫)に嫁いでいる。

 

 

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<参考資料>
『旧記雑録 後編五』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1985年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集6『諸家大慨・別本諸家大慨・職掌紀原・御家譜』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1966年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年

ほか