ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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山久院跡(豊幡神社)と釣璜院跡、日向国庄内に根づいた北郷氏の墓所

島津(しまづ)氏の一族に北郷(ほんごう)氏がある。「北郷」とは日向国島津院(庄内)の北西部。現在の宮崎県都城市庄内町や山田町のあたりである。この地を島津資忠(しまづすけただ)が領したことから、「北郷」を名乗るようになった。北郷氏は江戸時代に名乗りを「島津」に復し、「都城島津家」とも呼ばれる。

 

庄内町には北郷氏初代の北郷資忠(島津資忠)の菩提寺がある。山久院(さんきゅういん)といい、墓塔と伝わるものもある。寺院跡地には、現在は豊幡神社が鎮座している。

また、近くには釣璜院(ちょうこういん)という寺院もあった。こちらにも北郷一族の墓所が残っている。

 

 

 

 

 

北郷氏ゆかりの地

島津資忠は島津忠宗(ただむね、島津氏4代当主)の六男。14世紀の南北朝争乱期に活躍した人物で、兄の島津貞久(さだひさ、島津氏5代当主)に従って各地を転戦。暦応3年・興国元年(1340年)の催馬楽城(せばるじょう、鹿児島市玉里団地)攻めなどにその名が見える。

観応2年・正平6年(1351年)筑前国金隈(かねのくま、福岡市博多区金隈)の合戦にも参加。こちらの戦功を賞されて、文和元年・正平7年(1352年)に足利義詮(よしあきら)より日向国諸県郡北郷の300町が島津資忠に与えられた。

 

北郷資忠(島津資忠)は、北郷中霧島の薩摩迫(さつまさこ、都城市山田町中霧島)に館を構えたという。中霧島に鎮座する安原権現(現在の安原神社)にちなんで、北郷は「安永(やすなが)」とも呼ばれた。

応仁2年(1468年)、北郷持久(もちひさ、北郷氏5代)は安永城(都城市庄内町)を築く。一時期、こちらが北郷氏の本拠地となった。

その安永城の近くに、山久院跡と釣璜院はある。

 

安永城については、こちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

北郷氏の詳細は、こちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

 

山久院跡(豊幡神社)へ

山久院は北郷資忠の菩提寺である。寺号は北郷資忠の法名「山久院殿月窓道明居士」より。北郷資忠の墓所もある。明治時代初めに廃寺となり、跡地は豊幡神社となっている。

ちなみに豊幡神社は、旧称を八幡神社といったという。御祭神は応神天皇。もともとは野々美谷城(ののみたにじょう、都城市野々美谷町)内にあったもので、明応9年(1500年)に北郷数久(かずひさ、7代当主)が安永へ移し、安原権現の末社としたという。安永では、現在とは別の場所にあったようだ(詳細わからず)。山久院が廃されたあとに移転復興された。


石段をちょっとのぼって鳥居をくぐる。

神社の参道口

石造りの鳥居、脇には「山九院跡」とも

 

壇上に広場があって、二つめの鳥居の上はさらにもう一段高くなっている。境内の形状は、山久院の伽藍跡を利用したものだろうか。

神社の広場

境内入ってすぐ、広くなっている

 

鳥居の横にはカヤの大木も。推定樹齢は500年とのこと。

鳥居と御神木

二つめの鳥居、カヤの大木も存在感あり

 

二つめの鳥居をくぐると、玉垣がある。その内側はけっこう広い。扉が閉じていたので、中には入らず。玉垣の外から墓参する。

墓所のあるところ

玉垣がある

 

玉垣の内側に、さらに玉垣に囲まれた場所がある。そこに五輪塔が2基。北郷資忠とその妻の墓塔だと伝わっている。

墓塔か2基

北郷資忠の墓塔(左)とその妻の墓塔(右)

 

玉垣内にはほかにも石塔がある。こちらの由緒はわからず。

山久院の石塔群

玉垣内の脇のほうに

 

墓所からさらに奥へ行くと豊幡神社の拝殿。

豊幡神社の拝殿

お詣りする

 

拝殿前から振り返ると、鳥居の向こう側に真っすぐに道が伸びている。道路は表参道かな?

神社の境内

参道を拝殿前から見る

 

 

釣璜院跡へ

豊幡神社(山久院跡)の鳥居から直線の道を500mほど南下したところに釣璜院はあった。こちらは北郷数久の菩提寺である。北郷数久は安永城を隠居所として、大永元年(1521年)にこの地で没している。

 

跡地には農業協同組合の建物がある。その敷地内に墓塔がちょっと残っている。公民館の横のあたりに史跡への入口がある。

史跡を示す石柱

入口には石柱、わかりやすい

 

標柱には「福持庵無極道悦大居士」の文字。こちらは北郷持久(5代)の墓塔だ。ここにある墓塔はほとんどが宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。

玉垣に囲まれた墓塔

北郷持久の墓塔

 

手前の玉垣内にあるのが北郷数久(7代)の墓塔。その隣りが北郷知久(ともひさ、4代)の墓塔。石柱には北郷数久の法名「釣璜院殿哲翁忠英大禅定門」、北郷知久の法名「天岩融善居士」の文字が確認できる。「釣璜院」とは北郷数久の法名から。

玉垣と墓塔

墓塔が並ぶ

 

こちらの玉垣内には北郷誼久(よしひさ、2代)・北郷持久(6代)の室・北郷数久の後室の墓塔がある。法名はそれぞれ「無塵道端居士」「玉庵忠清大姉」「好山妙貞大姉」。写真の右端には「了山様御廟所」の石柱もある。

石塔群

墓塔と石柱

 

「了山様」とは北郷相久(すけひさ)のこと。法名を「常徳院殿了山等玄大禅定門」という。北郷時久(ときひさ、10代)の長男で、 天正7年(1579年)に金石城(安永城の城郭群の一つ)で自害したとされる。ここには金石城にあった玉垣も移設されている。

石塀、中には木が生えている

移設された石塀

 

北郷相久は釣璜院に葬られたという。現在、墓所は万年山龍泉寺跡(「竜泉寺」とも書く、都城市都島町)にある。

 

 

 

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『旧記雑録拾遺 諸氏系譜二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1990年

ほか