中世の島津氏の惣領は奥州家(おうしゅうけ)である。そもそも奥州家とは何なのか? その始まりについて、ちょっと記事にしてみた。
島津氏が南九州の支配を確立するのは、南北朝争乱期のことである。その立役者となったのが島津氏久(しまづうじひさ)だった。この人物から奥州家は始まる。そして、奥州家2代目の島津元久(もとひさ)が、島津の惣領の座を手にすることになる。
なお、北朝元号・南朝元号を併記する。日付については旧暦にて記す。
南北朝争乱と島津氏
12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が薩摩国・大隅国・日向国にまたがる島津荘(しまづのしょう)の地頭職を任されたこと、そして3ヶ国の守護に補任されたこと。これが島津氏の始まりである。名乗りは島津荘にちなむ。
だが、島津忠久(惟宗忠久)は建仁3年(1203年)の比企氏の変において、縁座ですべてを没収される。のちに薩摩国のみを取り戻す。大隅国と日向国は回復できなかった。
島津氏の5代目は島津貞久(しまづさだひさ)という。文保2年(1318年)に家督を継承。薩摩国守護職を相続したほか、以下の土地の地頭職も譲り受けている。
薩摩国十二島(竹島・硫黄島・黒島・口永良部島・屋久島・吐噶喇列島)
薩摩国薩摩郡(鹿児島県薩摩川内市、いちき串木野市串木野のあたり)
薩摩国山門院(鹿児島県出水市高尾野・野田、阿久根市脇本のあたり)
薩摩国市来院(鹿児島県いちき串木野市・日置市東市来)
薩摩国鹿児島郡永吉(鹿児島市伊敷)
讃岐国櫛無保上村下村(香川県善通寺市のあたりか)
信濃国太田荘南郷(長野県長野市)
下総国相馬郡苻川村・下黒崎・発戸(茨城県取手市のあたりか)
日向国高知尾荘(宮崎県西臼杵郡高千穂町のあたり)
豊前国副田荘(福岡県田川市のあたりか)
このうち南九州の所領は薩摩国の一部と、あとは日向国の高知尾荘。この頃、大隅国と日向国の守護職は北条氏が持っている。大隅・日向と島津氏の関係は、ほぼない。薩摩国においても、島津氏の支配領域はかなり限られている。鎌倉幕府から地頭職に任じられた御家人はほかにもいた。
元弘3年(1333年)、鎌倉の幕府が滅ぶ。島津貞久は足利高氏(足利尊氏)の誘いに応じて討幕に参加。鎌倉や六波羅探題の陥落と同時期に、九州で北条氏を攻める。少弐貞経(しょうにさだつね)・大友貞宗(おおともさだむね)らとともに鎮西探題を落としている。
後醍醐天皇の新政権下では大隅国・日向国の守護職が与えられ、島津忠久が失ってから130年以上を経て3ヶ国を回復したことになる。ただし、名目だけである。実効支配はともなっていない。
後醍醐天皇の治世はうまくいかない。建武2年(1335年)に足利尊氏が反乱を起こす。島津貞久は足利方に寝返り、行動をともにする。足利尊氏の九州大返しにも協力している。足利尊氏は後醍醐天皇方を破り、京を制圧。建武3年・延元元年(1336年)8月に新た光明天皇を即位させ、武家政権を樹立した。これが実質的な室町幕府の始まりである。
一方の後醍醐天皇も諦めず、大和国の吉野山(奈良県吉野郡吉野町)に逃れて、こちらでもう一つの朝廷を立ち上げる。吉野の朝廷を「南朝」、幕府が擁立した京の朝廷を「北朝」と呼ぶ。国内では南朝方と北朝方に分かれて抗争が続いていくことになる。
南九州の争乱も激しいものであった。島津貞久は薩摩国の平定を足利尊氏より任される。幕府が日向攻略の大将として派遣した畠山直顕(はたけやまただあき、足利氏の一族)と連携をとりつつ、薩摩や大隅の南朝方と戦う。
九州は南朝方が優勢だった。島津貞久は苦戦を強いられた。さらに、幕府の内訌(観応の擾乱)にも振り回された。日向から大隅へと勢力を広げる畠山直顕との対立も表面化する。畠山氏を倒すために南朝方に転じたり、また、北朝方に戻ったりと立ちまわる。
島津氏の拠点は、当初は山門院の木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)であった。暦応2年・延元4年(1339年)頃に薩摩郡の碇山城(いかりやまじょう、鹿児島県薩摩川内市天辰町)に拠点を移し、暦応4年・興国2年(1341年)には鹿児島を奪う。苦労しながらも、少しずつ薩摩国の支配領域を広げている。
貞治2年・正平18年(1363年)7月3日に島津貞久は没する。享年95。亡くなる前年に、島津貞久は幕府に申し状を提出している。その中で「薩摩・大隅・日向は島津の本貫地である」と強く主張している。三州制圧は島津氏の宿願となる。
島津氏久の大隅攻略
貞治2年・正平18年(1363年)、島津貞久は守護職を二人の息子に譲る。薩摩国守護は三男の島津師久(もろひさ)に、大隅国守護は四男の島津氏久にそれぞれ相続させた。島津貞久はすでに高齢であったため、観応2年・正平6年(1351年)頃から現場を息子たちに任せている。島津師久は薩摩国の攻略を、島津氏久は大隅国の攻略を、と分担して。
島津貞久は「上総介」を称した。島津師久はこの名乗りを継承している。薩摩国の守護であり、父と同じ「上総介」を称する島津師久が家督を相続したと思われる。一方の島津氏久は「陸奥守」を称した。受領名から島津師久に始まる家系は「総州家(そうしゅうけ)」、島津氏久の家系は「奥州家」と呼ばれる。
大隅国の守護となった島津氏久だが、当時の島津氏は大隅国の支配をまったくできていない。大隅では南朝方が跋扈するとともに、畠山直顕も勢力を広げていた。
島津氏久は、まずは薩摩国鹿児島の東福寺城(とうふくじじょう、鹿児島市清水町)を拠点とした。鹿児島は鹿児島湾の海路の基点となり得る場所でもある。この地を拠点にしたことがのちの奥州家にとって有利に働いたのかも、とも思える。
薩摩国では島津師久が敵対勢力と激戦を展開する。その一方で、島津氏久は大隅へと進出する。島津氏は南朝方と戦うとともに、畠山直顕とも敵対関係となる。そこで、南朝方に転じて畠山氏の打倒を目指した。
延文元年・正平11年(1356年)、島津氏久は大隅国加治木・帖佐(かじき・ちょうさ、鹿児島県姶良市)を攻める。畠山勢を破り、この地を押さえた。さらに大隅半島も制圧して、大姶良城(おおあいらじょう、鹿児島県鹿屋市大姶良町)に拠点を移した。貞治2年・正平18年(1363年)には嫡男の島津元久が大姶良城で誕生している。
延文2年・正平12年(1357年)頃に日向国志布志(鹿児島県志布志市)を畠山氏から奪う、その後、島津氏久は志布志城に通リ、ここを本拠地とした。
島津 vs. 今川
九州では南朝方の優勢が続く。ただ、応安4年・建徳2年(1371年)に九州探題に任じられた今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)が九州入りすると、北朝方が盛りかえす。南朝方から筑前国の大宰府も奪還して、圧倒しつつあった。島津氏久も今川貞世(今川了俊)に従って転戦した。
そんな中で、永和元年・天授元年(1375年)8月に事件が起こる。「水島の変」と呼ばれるものである。
今川貞世(今川了俊)は肥後国の隈府城(わいふじょう、熊本県菊池市隈府)を攻めるために進軍し、水島(菊池市七城町)に陣取った。そして、豊後国守護の大友親世(おおともちかよ)、筑前国守護の少弐冬資(しょうにふゆすけ)、大隅国守護の島津氏久(大隅国守護)に参陣を要請した。このうち少弐冬資が応じなかった。そこで、今川貞世(今川了俊)は島津氏久に参陣の催促を依頼した。
8月26日、少弐冬資は島津氏久の説得に応じて参陣する。その晩のことである。酒宴が催され、その場で今川貞世(今川了俊)が少弐冬資を殺害した。これを知った島津氏久は激怒する。今川貞世(今川了俊)は島津氏久に対して弁明もするが、怒りはおさまらなかった。8月28日、島津氏久は離反を宣言して陣を去った。
島津氏久は今川貞世(今川了俊)に対して徹底抗戦の構えを見せる。今川氏のほうでも薩摩国・大隅国の領主たちに協力を呼びかけ、反島津の国一揆を結成させる。薩摩の反島津方は渋谷重頼(入来院重頼、いりきいんしげより)が中心となり、激しい抗争が展開されていくことになる。
そんな状況の中で、永和2年・天授2年(1376年)3月21日に薩摩国守護の島津師久が逝去。島津伊久が家督をついだ。島津伊久はまだ若く、島津氏久が実質的に島津氏の舵取りをすることになる。
永和5年・天授5年(1379年)、島津氏久は今川氏の軍勢と日向国都城(みやこのじょう、宮崎県都城市)で決戦に及ぶ。「簑原合戦」「都城合戦」と呼ばれるものである。
幕府方は今川満範(みつのり、貞世の子)を南九州攻略の大将とする。今川軍は都之城(みやこのじょう、都城市都島町)を攻める。市来氏・渋谷氏・菱刈氏・肝付氏・牛屎氏・禰寝氏・谷山氏なども参陣している。一方、城方は北郷誼久(氏久の従兄弟にあたる)と樺山音久(誼久の弟)が守っていた。島津氏久は志布志城から出陣。都之城の救援に向かう。
「簑原合戦」は島津方が勝利する。
その後も、島津氏と今川氏の抗争をは一進一退の状況が続く。島津氏は一時的に幕府に帰順したこともあったようだが、ほどなく離反している。帰順している間に、島津伊久は今川氏の要請で兵を出した記録も残るが、島津氏久は命に従った形跡は見当たらない。島津氏久は死ぬまで今川貞世(今川了俊)を許さなかったようである。
なお、幕府に反抗した島津氏は、薩摩国・大隅国・日向国の守護を没収された。
島津元久、引き続き幕府に反抗
至徳4年・元中4年(1387年)閏5月4日、島津氏久が没する。享年60。嫡男の島津元久(もとひさ)が跡を継ぐ。
島津元久は鹿児島に拠点を移す。嘉慶元年・元中4年(1387年)に清水城(しみずじょう、鹿児島市稲荷町)を築いて入城した。
島津元久も父の方針を継承。幕府に対して徹底抗戦の姿勢を貫いた。今川貞世(今川了俊)は九州を攻略しつつあったが、島津氏だけは従わない。島津と今川の抗争が続くなかで、明徳3年・元中9年(1392年)閏10月5日に南朝と北朝の合一がなった(明徳の和約)。だが、島津氏の戦いは終わらない。今川氏が攻めかかり、島津氏は激しく抵抗する。
応永2年(1395年)8月、今川貞世(今川了俊)は京に戻され、九州探題を解任された。島津氏と今川氏の抗争はあっけなく終わる。後任には渋川満頼(しぶかわみつより)が任じらる。そして、島津氏は幕府に恭順したようだ。
応永4年(1397年)4月、島津元久と島津伊久は九州探題の渋川満頼(しぶかわみつより)に使いを出す。島津元久は名代として弟の島津久豊(ひさとよ、のちに8代当主)を、島津伊久は名代として次男の島津忠朝(ただとも)をそれぞれ遣わした。島津久豊・島津忠朝は4月20日に渋川満頼に面会している。
また、島津元久・島津伊久は今川方だった渋谷氏(入来院氏)を攻撃し、その本拠地の入来院(鹿児島県薩摩川内市入来町)を落とす。
三州の守護
奥州家の島津元久と、総州家の島津伊久は、今川氏との抗争ではうまく連携をとった。しかし、共通の敵がいなくなると、両家は対立するようになる。
島津氏久は総州家と奥州家の統合を考えていたようである。惣領である総州家よりも、自身の奥州家のほうが島津家を主導していたことに、何かしらの懸念や引け目を感じていたのだろう。
島津氏久の遺言により、島津元久は総州家から妻を迎え、島津伊久は奥州家から妻を迎えた。そして、島津伊久の三男の生黒丸が島津元久の養子に入り、元服して島津照久と名乗る。こちらを奥州家の後継者とした。
一方で、総州家では島津伊久と嫡男の島津守久の間で不和が生じている。明徳4年(1393年)には島津守久が島津伊久の居城を攻めるという事態にもなった。島津元久が仲裁に入り、この親子喧嘩をおさめた。そして島津氏の家督相続者が持つ家宝を、島津元久に渡した。惣領の座が、総州家から奥州家に移ったのである。
島津伊久と島津守久の不和の原因については伝わっていない。状況から推測すると、島津照久を次期当主にすることで、総州家と奥州家を統合する話がすすんでいたが、本来は総州家に嫡男である島津守久が反発した、というところではないだろうか。
応永7年(1400年)に両家の融和策は決裂する。島津元久は島津久照との養子縁組を解消し、総州家出身の妻とも離縁する。その後は、奥州家と総州家の抗争に突入する。
応永8年(1401年)に薩摩国鶴田(つるだ、鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田)で両軍がぶつかる。「鶴田合戦」と呼ばれている。この戦いは島津伊久(総州家)が勝利する。だが、鶴田合戦で敗れた島津元久(奥州家)が盛り返す。応永11年(1404年)6月、幕府は停戦を命じる。あわせて島津元久が大隅国守護・日向国守護に任じられた(没収されていたものを回復したか)。
抗争は終わらない。ただ、奥州家が押し気味であった。そんな中で応永14年(1407年)に島津伊久が没する。島津元久(奥州家)はさらに攻め立てた。そして「奥州家が惣領だ」と総州家に認めさせたと推測される。
応永16年(1409年)、幕府は島津元久(奥州家)を薩摩国守護に任じた。三州守護は奥州家のものとなった。翌年に島津元久は上洛し、将軍・足利義持に謁見している。
奥州家が惣領家としての地位を確立した。だが、島津元久が応永18年(1411年)8月6日に急死。……そのあと、後継者問題に端を発し、大混乱の渦の中へ。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 発行/鹿児島県地方史学会 1972年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 発行/山本盛秀 1905年
『西藩野史』
著/得能通昭 発行/鹿児島私立教育會 1896年
鹿児島県史料『旧記雑録 前編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1979年
『山田聖栄自記』
編・発行/鹿児島県立図書館 1967年
『鹿児島縣史 第1巻』
編・発行/鹿児島県 1939年
『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年
ほか