鹿児島市清水町にある東福寺城(とうふくじじょう)跡に行ってきた。訪問したのは2021年1月某日。現在は、多賀山(たがやま)公園として整備されている。
鹿児島で最初の島津氏居城
東福寺城は、島津氏が14世紀半ばから拠点とした城である。もともとは鹿児島郡司の矢上(やがみ)氏・長谷場(はせば)氏の城で、天喜元年(1053年)に長谷場永純(ながずみ、か)が築城したとされる。
矢上氏・長谷場氏についてはこちらの記事でも触れている。
島津氏がこの城に入ったのは南北朝争乱の時代。北朝方にあった島津貞久(しまづさだひさ、島津氏5代当主)は南朝方の矢上(やがみ)氏・長谷場氏・谷山(たにやま)氏・肝付(きもつき)氏らと戦い、この東福寺城も激戦の舞台となった。暦応4年・興国2年(1343年)、島津貞久は東福寺城を落城させる。
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そして、東福寺城には四男の氏久(うじひさ、のちに6代当主)が入った。薩摩国の要衝である鹿児島を抑え、領国支配を強めていく足がかかりとなった。その後、島津氏の本拠地は近くの清水城へ移るが、東福寺城は後詰の城として機能した。
伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)の反乱で清水城が奪われた際には、東福寺城を拠点に鹿児島奪回戦を展開している。
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慶長6年(1601年)に鹿児島城(鶴丸城)が島津氏の本拠地となると、東福寺城は廃城となった。
海がよく見える
東福寺城は、海辺の要塞という感じだ。山の上からは鹿児島湾と桜島がよく見える。
鹿児島港の桜島フェリーターミナルがあるあたりから海沿いに北へ2㎞ほど行ったところに、多賀山公園(東福寺城跡)はある。ちなみに山のすぐ下にある祇園之洲公園は、かつて薩摩藩の砲台場だった。文久3年(1863年)の薩英戦争では、ここからイギリス船にむけて大砲をぶっ放した。現在は海まで200mほどの距離があるが、これは埋め立てによるもの。昔は山のすぐ下が海岸線だった。
鹿児島湾は火山由来の地形で、湾北側は直径20㎞ほどの姶良(あいら)カルデラに海水が入り込んでできたものである。ちなみに、桜島は姶良カルデラの一部だ。鹿児島市街地から姶良市方面にかけて海岸線を国道10号が通っているが、海際まで山が迫り、ずっと崖が続く。それがカルデラ壁なのだ。東福寺城(多賀山)はそのカルデラ壁の南端に位置する。
公園はなかなか広い。大きな山城だ。園内には段差がいくつもあり、それぞれにけっこうな広さのスペースがある。整備が進んでいるが、そこには曲輪の形状も残っている。下の写真の場所は切り通しか堀切だったと思われる。
広場を奥の方へ進む。公園の北側に鬱蒼とした山がある。こちらが主郭(本丸)のようだ。頂上には「島津氏居城東福寺城跡」の記念碑がある。
段差を登ると祭壇のような感じになっている。石灯籠などがあったが、詳細はよくわからない。
山の中には古そうな石垣もあった。いつ頃のものかは、わからないけど。
海とは反対側も眺めよし。こちらも攻め登るには難儀しそうだ。
「肝付兼重卿奮戦之跡」という記念碑もあった。肝付兼重(きもつきかねしげ)は肝付氏8代当主。東福寺城に救援で入り、8か月間にわたって島津氏と戦ったとされる。
公園の南側には元帥海軍大将・東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の像や墓碑、記念碑もある。ちなみに、初陣は薩英戦争だったそうだ。
山の一角には多賀神社も鎮座。境内の御由緒看板によると、天正7年(1579年)に島津義久(しまづよしひさ)が近江国(現在の滋賀県)の多賀大社から勧請して創建したという。これに由来して、「多賀山」と呼ぶようになったそうだ。
<参考資料>
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年