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鹿児島城(鶴丸城)跡にいってみた[前編] 江戸時代における島津氏の政治拠点

鹿児島城(かごしまじょう)は鹿児島市城山町にある。通称を「鶴丸城(つるまるじょう)」といい、鹿児島ではこちらのほうで呼ぶ人が多い。

「史跡鶴間城跡」の碑がある、奥に石橋と御楼門、堀にはハスが見える

鹿児島城跡の大手門

 

江戸時代の島津(しまづ)氏の居城であり、この地で藩政を行なった。現在、城の目の前には鹿児島市役所や鹿児島地方裁判所がある。また、かつては鹿児島県庁もあった(跡地には「かごしま県民交流センター」)。江戸時代に整備された鹿児島の政治都市は、現代にも引き継がれているのである。

城は上之山(現在は「城山」と呼ぶ)の麓に築城され、本丸・二之丸・出丸の3つの曲輪からなる。ネタはなかなかに豊富だ。てなわけで、記事は2回にわけて掲載する。前編は本丸・二ノ丸を中心に紹介していく。

 

出丸と城山については後編にて。

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関ヶ原の戦いのあとに築城

築城は島津忠恒(しまづただつね)による。慶長6年(1601年)1月より普請が始まり、慶長11年(1606年)頃に完成した。

島津忠恒は島津義弘(よしひろ)の三男で、島津氏の当主の座を引き継ぐ。また、徳川幕府の成立後に、鹿児島藩(薩摩藩)の初代藩主となる。

ちなみに島津氏の鹿児島の居城の変遷はつぎのとおり。

暦応4年・興国2年(1343年)、島津貞久(さだひさ、5代当主)が海辺にある東福寺城(とうふくじじょう、鹿児島市清水町)を鹿児島郡司の矢上氏から奪う。ここを鹿児島の拠点とする。

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至徳元年・元中4年(1387年)、島津元久(もとひさ、7代当主)が清水城(しみずじょう)を築いて移る。場所は東福寺城よりやや内陸。清水城は山城と麓の居館からなる。ふだんは麓で政務を行い、戦時には山城に籠ることを想定している。

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天文19年(1550年)に島津貴久(たかひさ、15代当主)が内城(うちじょう、鹿児島市大竜町、現在は大竜小学校がある)に拠点を移す。島津義久(よしひさ、16代当主、貴久の嫡男、義弘の兄)も引き続き居城とした。

文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の意向で島津義久は大隅国の富隈城(とみくまじょう、鹿児島県霧島市隼人町住吉)に移ることになった。そして、鹿児島へは島津義弘が入るよう命じられた。島津氏の内部対立を狙った嫌がらせである。島津義弘は当主である兄に遠慮して自身は大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)に居館を構えた。鹿児島には後継者に指名されていた島津忠恒を入れた。

内城は、城というよりは館である。近くの東福寺城を詰めの山城としていた。島津忠恒は防御の薄い内城に代わる新たな城を建てようと考えるようになる。

まず候補となったのが帖佐の瓜生野城(うりうのじょう、建昌城、けんしょうじょう、姶良市西餅田)であった。ここを改修して移ろうと考えたのだ。瓜生野城(建昌城)は防御にすぐれるほか、島津氏の所領(薩摩国・大隅国・日向国南部)のほぼ中心に位置しているのも都合が良かった。島津忠恒は瓜生野城を新城とする案を島津義弘に相談した。しかし、島津義弘は反対する。「堅城だけど、水利がよくない。工事が大変で、領民に迷惑がかかる」というのが理由だった。

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その後、島津忠恒は上之山城改修を計画する。これも島津義弘が反対する。海に近すぎるために防御に難があるというのである。ところが、こちらの計画はそのまま進められることになった。

新城の計画のさなか、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いがあった。島津義弘が属した西軍は敗れる。島津義弘は「前方への撤退」で的中を突破し、鹿児島まで帰ってきた。

島津氏は負け組についてしまったが、島津義久と島津忠恒が粘り強く交渉する。そして、慶長7年(1602年)に本領安堵を勝ち取り、徳川家に従った。また、島津忠恒は島津義久から家督を相続し、島津氏の当主となった。

引き続き築城を進めるも、あんまりガチガチに造り込むわけにはいかなくなる。徳川家から謀反の疑いをかけられかねないからだ。鹿児島城には天守閣がなく、簡素な建物になった。島津忠恒(島津家久)の理想の城には、たぶんなっていないと思う。

 

 

 

御楼門が復元された!

本丸跡の遺構はそこそこ残っている感じで、石垣や水堀が往時の面影を伝えている。建物は現存せず。明治7年(1874年)に焼失してしまったのだという。

現在は鹿児島県歴史資料センター黎明館がある。黎明館には貴重な史料がたっぷりと展示されているほか、鹿児島城の館の復元模型、志布志城(しぶしじょう、鹿児島県志布志市にある)や出水外城(いずみとじょう、鹿児島県出水市にある)の巨大なジオラマなどもある。

庭園跡と黎明館の建物

本丸跡、左側の建物が黎明館

 

大手門には大きな御楼門(ごろうもん)。明治6年(1873年)に焼失したものが復元されている。官民連携事業により2020年に完成した。

石橋を渡り、楼門を抜けて城内に入る

鹿児島城大手口と御楼門

門を見上げる、大きな扉と大きな柱が見える

御楼門を内側から見る

城内に直線的に入れないような造り

御楼門をくぐると桝形虎口

 

石垣は戦国時代末期に見られるようになった切込接ぎ(きりこみはぎ)だ。北東角の石垣は鬼門除けで隅欠(すみおとし、角を削る)にしてある。

城の石垣の角のあたり、堀にはハス

本丸の石垣、角が削られている

 

使われている石材は火山由来の溶結凝灰岩。姶良カルデラの火砕流によって形成された反田土石(たんたどいし)というものである。火山噴出物が溶けて圧縮されて固まったもので、直線的に割れる性質がある。加工しやすく石積みに適した素材なのだ。堀に沿って歩いていくと石積みの模型もあった。

石垣の断面を見せて構造がわかる

石垣の模型

 

鹿児島城で見られる亀甲積み(きっこうづみ)・算木積み(さんぎづみ)・金場取残積み(かなばとりのこしづみ)について説明してある。

 

夏はハスがきれいだ。

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薩摩義士碑

本丸跡の北辺を城山に向かって歩いていくと「薩摩義士碑」というものがある。薩摩義士(さつまぎし)とは宝暦治水で命を落とした80余名の薩摩藩士のことだ。

石段を登ると供養塔がある

薩摩義士碑

 

南美濃(岐阜県大垣市・海津市・養老町・羽島市)や伊勢国桑名(三重県桑名市)には木曽川(きそがわ)・長良川(ながらがわ)・揖斐川(いびがわ)が横たわる。3本の大河が隣りあうように流れ込むため、たびたび洪水が発生する。

幕府はこの地の治水工事を行うことにした。そして、その御手伝い普請を藩主の島津重年(しまづしげとし)に命じてきたのである。宝暦3年12月(1754年1月)のことだった。「手伝い」とはいうものの、工事のすべてを請け負う。人も金も、すべて鹿児島藩(薩摩藩)持ちだ。これには鹿児島藩の力を削ぐ狙いもあった。

島津家中では命令に従うのか、あるいは断るのか議論が紛糾した。請ければ藩の財政はガタガタになり、断れば取り潰される。理不尽な仕打ちに腹を立てた者もあり、「最後の一兵が死ぬまで、幕府と戦おう!」といった意見もあったようだ。そんな中で家老の平田靱負(ひらたゆきえ、平田正輔)が「苦しんでいる人を助けるのも武士の本分」と説き、工事を請けることで藩論をまとめた。

宝暦4年1月、島津重年は平田靱負を総奉行とし、約1000人の藩士を工事に派遣した。難工事の連続で、費用はかさみまくった。事故や病気で命を落とす者もあった。

宝暦5年5月22日、治水工事は完工した。幕府の検分を終えて5月24日に平田靱負は亡くなる。多くの犠牲者を出したこと、莫大な借金が残ったことの責任を取って自害したとも伝わっている。

宝暦治水については鹿児島では語られることはなかった。あまりにも犠牲が大きかったことから、語ることを避けたのである。また、触れれば幕府批判にもつながりかねない。みな口をつぐみ、忘れられていった。

一方で、美濃や伊勢の住人は偉業として語り継いだ。徳川の時代が終わって明治になると、桑名の有志により薩摩義士の顕彰運動が動き出し、それが波及する。鹿児島でも偉業の掘り起こしがはじまった。

大正5年(1916年)に平田靱負に従五位が追贈される。そのことを受けて、大正9年(1920年)に薩摩義士碑が建立されたのである。

薩摩義士が縁となって鹿児島県と岐阜県は姉妹県盟約を結んでいる。ちなみに、御楼門復元の際には岐阜県からケヤキの大木が贈呈され、大扉の部材として使われている。

 

 

「島津重豪公頌徳碑」と「聚珍寶庫碑」

敷地内には記念碑がけっこうある。御楼門の近くに建っているのは島津重豪(しまづしげひで、25代当主、8代藩主)の頌徳碑だ。

石碑が建つ、左側には御楼門も見える

島津重豪の功績を伝える

 

父の島津重年は宝暦治水の心労もあったのか、宝暦5年(1755年)6月に若くして亡くなる。島津重豪は11歳で家督をついだ。

島津重豪は傑物であった。そして、蘭癖大名の代表格のような人物でもある。蘭学にのめり込んで、西洋の知識をどんどん取り入れた。幕末に薩摩は近代化をガンガンすすめることになるが、その基礎を作ったのがこの殿様なのである。そして、曾孫の島津斉彬(なりあきら、28代当主、11代藩主)にも影響を与えた。

島津重豪は藩政改革を積極的に進める。産業振興に力を入れるとともに、教育・学術面での成果も目覚ましい。二ノ丸門前に藩校の造士館(ぞうしかん)、武芸の鍛錬をする演武館(えんぶかん)、医学研究のために医学院(いがくいん)を設立。その跡地である中央公園には造士館・演武館・医学院の記念碑もある。天文学と暦学の研究所である明時館(めいじかん)もつくる。この通称の「天文館(てんもんかん)」は、繁華街の名として現在も残っている。

天明7年(1787年)に島津重豪は早々に隠居する。オランダ商館に気軽におもむくなど、自身が動きやすくなることが目的だったともされる。隠居はしたものの実権は握り続け、すごく長生きした。80歳を過ぎてからも精力的に動きまわり、フランツ・フォン・シーボルトに会いにいったりもしている。

本丸跡の頌徳碑は、おもに教育・学術分野の功績をたたえる。刻まれた建碑年は「皇紀2602年(昭和17年、1942年)」とある。建碑当時は本丸跡に第七高等学校造士館(鹿児島大学の前身のひとつ)があった。これは造士館の流れをくむもので、創設者として島津重豪を讃えたのである。

黎明館の近くに「聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)」なるものもある。聚珍寶庫とは島津重豪の江戸屋敷(場所は東京都港区高輪)内にあったもので、重豪が収集したものを保管していた。宝物が散逸しないように祈願して作られた碑だという。

寛政元年(1789年)、島津重豪は娘を徳川将軍家に御台所(正室)として送り込むことになった。その娘の名は篤姫(あつひめ、於篤、おあつ)といった。のちに茂姫(しげひめ)、寧姫(ねいひめ)とも名乗る。落飾後は広大院(こうだいいん)という。

もともとは一橋家の嫡男と婚約していたのだが、その婚約者が徳川本家をついだ。11代将軍の徳川家斉(とくがわいえなり)である。婚約は解消されることはなく、いったん近衛家の養女となり、将軍に嫁いだ。外様大名から将軍家への輿入れは前例がなかった。

のちに、もう一人の篤姫が出てくる。幕末の篤姫はもともと一(かつ)という名であったが、広大院にあやかって「篤子」「篤姫」と名乗るようになったのだ。

 

鹿児島城内には「聚珍寶庫碑」なるものもある。場所は黎明館の入口の近く。

石碑

聚珍寶庫碑

島津重豪は文政10年(1827年)に蒐集したモノを収蔵しする蔵を、江戸高輪(東京都品川区)にあった島津家別邸の設けた。ここを「聚珍寶庫(しゅうちんほうこ)」と呼んだ。そして、これらの貴重な資料が散逸しないように保存していくことを願った、と。碑文はそういった内容である。

 

 

 

 

天璋院像

2010年12月に建立。2008年に放映されたNHK大河ドラマ『篤姫』で注目を集めたことから造られたのだろう。

天璋院(篤姫)の銅像、座った姿で

天璋院像

 

篤姫(篤君)は分家の今和泉(いまいずみ)島津家の出身で、島津斉彬の養女となり、さらに近衛家の養女を経て、13代将軍の徳川家定(いえさだ)の御台所となった。落飾後は天璋院(てんしょういん)と呼ばれる。

幕末には徳川家のために尽くし、江戸城総攻撃を前に徳川家救済の嘆願書を新政府に出すなどしている。結果的には無血開城の一助となった。明治時代になっても徳川家に残り、鹿児島に帰ることはなかった。

 

 

二ノ丸跡も見て回る

二ノ丸は鹿児島県立図書館・鹿児島市立美術館・鹿児島県立博物館などがあるあたり。城郭の痕跡は図書館のあたりに少しだけ残っている。

整然と積まれた石垣

二ノ丸は本丸より低い、段差部分の石垣

照国神社の脇には探勝園(たんしょうえん)という場所も。二ノ丸の庭園跡である。ここには最後の藩主となった島津忠義(ただよし、29代当主、12代藩主)、その父であり「国父」として実権を握った島津久光(ひさみつ)の銅像がある。また、照国神社に隣接した広場には島津斉彬の像がある。

探勝園の奥に池があり、そこに像が建っている、

島津久光の像

古びた石積みの遺構

庭園跡の痕跡

 

探勝園には「電信使用の地」碑もある。安政4年(1857年)に島津斉彬が電信通信(モールス信号)の実験を行った。蘭学者の松木弘安(まつきこうあん、のちに外務大臣などを歴任する寺島宗則)と中原猶助(なかはらなおすけ)が本丸と探勝園を電線でつないで通信を試みる。実験は成功した。

 

後編につづく。

【関連記事】鹿児島城(鶴丸城)跡にいってみた<後編> 日本史上最後の攻城戦、西郷隆盛が城山に散る

 

<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか