ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

天辰寺前古墳、被葬者は身分の高い女性、サツマの女王か?

薩摩半島の西側に川内(せんだい)というところがある。ここに天辰寺前古墳(あまたつてらまえこふん)がある。場所は鹿児島県薩摩川内市天辰町。

 

この古墳は2008年6月に発見された。区画整理工事の中で大きな石がでてきて、動かすと空洞になっていたという。そこは石室だった。盗掘の形跡はなく、遺骨と副葬品が出てきたという。被葬者は壮年の女性。副葬品などから身分の高い人物であり、5世紀初め頃に埋葬されたと推測される。

ここを「天辰寺前古墳」と命名。「天辰寺前古墳史跡公園」として整備されている。

 

 

 

 

 

丘の上にあるのは円墳か?

住宅街の中に丘がある。けっこう目立つ存在だ。公園としてきれいに整備されている。駐車場もあるので、見学もしやすい。

 

天辰寺前史跡公園

住宅街の中に

 

天辰寺前古墳

きれいに整備されている

 

史跡公園の階段

ちょっと登る

 

丘の上に登っていくと墳丘がある。ほぼ円形で、直径は27m~28mほど。高さは約3m。たぶん円墳だと思われる。ただ、北側が大きく削られているそうで、じつはもっと大きくて、前方後円墳など違う形状であった可能性もあるという。

 

天辰寺前古墳

墳丘がある

 

天辰寺前古墳

頂上部分に石室

 

なお、墳丘のあたりは史跡の保護のために立入禁止。石室のほうにも行くことはできない。調べたところ、石室については、年に一度の特別公開日があるようだ。

 

墳丘の近くに、2分の1サイズの模型がある。こちらで中の様子を知ることができる。

 

古墳の展示物

石室の模型

 

模型の中

石室内が再現されている

 

墳丘のある丘の上には、ちょっとした広場がある。

 

丘の上の広場

写真奥が墳丘

 

ここには天井石も展示されている。長さは約1.3m、幅は約1m、重さは700㎏、工事の際に重機がこれに当たり、石をどけたら石室があった、と。

 

石室の上にあったもの

石室の天井石

 

発掘時は、身長140㎝ほどの小柄な壮年女性の人骨が頭を東に向けて埋葬されていたとのこと。そして左腕に14個、右腕に2個の貝製腕輪をつけていた。

副葬品としては足元に銅鏡が1枚、頭のほうに鉄製刀子が1本あった、とのこと。道鏡は神頭鏡(しんとうきょう)と呼ばれるもので、5世紀前半頃のものであるという。

腕輪の材料はイモガイの殻。南方に生息する貝である。また、神頭鏡は中部地方から九州中部で出土するものであるという。南方にも北方にも、他地域との交流があったことがうかがえる。

 

 

久木原神社

墳丘にはもともと久木原神社が鎮座していた。神社が上に建っていたことから、古代からずっと掘り返されることがなかったのだろう。

こちらの神社の由緒については不明。鹿児島神社庁のホームページによると、御祭神は久々能智神(ククヌチノカミ)とのこと。

 

久木原神社は丘のふもとに遷されている。

 

鳥居と古墳

現在の久木原神社

 

 

古石塔もある

このあたりは「寺前」と呼ばれている。周辺にはほかに「坊ノ下」「三堂」という地名もある。これらの地名は、龍興寺(りゅうこうじ)・諏訪坊(すわぼう)・三桃庵(さんとうあん)という3つの寺院があったことに由来する。区画整理の際に寺院跡にあった石塔類は、天辰寺前古墳史跡公園の一角に移設展示されている。

 

こちらの層塔は延宝3年(1675年)に建立された庚申供養塔。龍興寺にあったもので、北郷久加が建てたものだ。この人物は、この地を領した平佐北郷氏の当主である。

 

古い層塔

北郷久加の庚申供養塔

 

天和2年(1682年)の紀年銘がある墓塔。「寿珊禅定門」という法名が刻まれている。

 

古い墓塔

天和2年の墓塔

 

古い板碑。16世紀後半頃のものとのこと。板碑の上のほうには十字が確認できる。

 

板碑

戦国時代末期のもの

 

 

川内には、古代に大きなクニがあった?

8世紀初めに薩摩国が設置されるが、川内に国府が置かれた。

国府が置かれたということは、もともとこの地が拠点となり得る場所だった、と容易に想像できる。人が多く住む場所であり、交易に便利な港があり、稲作に向いた場所でもあったのだろう。

 

rekishikomugae.net

 

「川内(せんだい)」というのは、おそらくそのまま「川の内(かわのうち)」の意味からきているのだろう。畿内に河内国(現在は大阪府)というのもあるが、こちらとも似たような感じの語源なんじゃないかな、と。

川内には「川内川(せんだいがわ)」という大きな川が流れている。川内川沿いには沖積平野が広がる。

南九州は山地が多めで、火山噴火も非常に多かった。そんな南九州にあって、川内には平野があり、水もたっぷりある。稲作に向く土地だ。そして、古代に噴火しまくっていた桜島・開聞岳・霧島のいずれからもある程度の距離がある。火山の影響も比較的小さかったのではないだろうか。

川内の中心地は海岸から10㎞ほどの内陸にある。海からは遠いのだが、川内川から船が入っていける。海上交通の要所でもあった。

 

繁栄する条件は揃っている。ここには大きなクニがあったのではないだろうか。

川内には高塚式古墳と思われるものがけっこうある。この天辰寺前古墳もそうである。ほかには可愛山陵(えのみささぎ)・中陵(なかのみささぎ)・端陵(はしのみささぎ)・川合陵古墳(かわいりょうこふん)など。川内川河口近くには船間島古墳(ふなましまこふん)もある。

 

ここは南九州である。隼人が住んだ地なのだが、ヤマトとの関わりが深かったこともうかがえる。

 

 

ニニギノミコトの神話から

可愛山陵はニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)の陵墓と伝わる。可愛山陵は神亀山にあり、ここには新田神社が鎮座している。神亀山には中陵と端陵もある。中陵はホスセリノミコト(火闌降命、火須勢理命)の墓、端陵はコノハナサクヤヒメノミコト(木花之佐久夜毘売命、木花開耶姫命)の墓と伝わる。

また、神亀山からやや西にある川合陵古墳はアメノホアカリノミコト(天火明命)の墓と伝えられている。

 

ニニギノミコトは日向襲之高千穂峰(ひむかのそのたかちほのみね)に天下り、吾田長屋笠狭之碕(あたのながやのかささのみさき)に移り、そしてオオヤマツミノカミ(大山祇神)の娘のアタツヒメ(吾田津姫、コノハナサクヤヒメノミコト)を娶って国づくりを始めた。……と、神話ではそう伝えている。

そして、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメノミコトが、のちに宮居を構えたのが川内であったという。「川内」の地名は、宮居の「千台(せんのうてな)」に由来するとも。神亀山の近くには「宮里(みやさと)」という地名もある。また、「新田(にった)」「水引(みずひき)」といった開田事業を連想させる地名もある。

 

ニニギノミコトのモデルとなり得るような強い統治者が、この地にあった可能性は高いようにも思える。

 

 

 

サツマの女王?

「薩摩」というが、この「サツマ」とは何であろうか?

薩摩国のうちの「薩摩郡」というのは、川内のあたりである。もともとはこの地が「サツマ」と呼ばれる場所であったと考えられそうだ。

薩摩国の設置は大宝2年(702年)のこと。当初は「唱更国(はやひとのくに)」と呼ばれ、のちに「薩麻国」「薩摩国」と呼称が改められるている。サツマ(川内)に国府が置かれたことが、そのまま国名になったという可能性もありそうだ。

 

『続日本紀』の文武天皇4年(700年)6月の条にこんな記事がある。

薩末比賣久賣波豆 衣評督衣君縣 助督衣君弖自美 肝衝難波 従肥人等 持兵剽劫覓國使刑部眞木等 於是勅竺志惣領准犯決罸 (『続日本紀』より)

 

「薩末比賣久賣波豆と衣評督衣君縣と助督衣君弖自美と肝衝難波らが、兵を率いて覓國使(南方の調査団)に脅しをかけた」というものである。ここで最初に登場す人名が「薩末比賣久賣波豆」である。読みは「サツマノヒメのクメハズ」だろうか。

 

ちなみに、「薩末比賣」「久賣」「波豆」と3人の女性として解釈されるのが一般的みたい。資料を見るとだいたいそうなっている。だが、これは「薩末比賣久賣波豆」で一人の名前であるようにも思える。

古代に確認できる隼人の人名には「薩麻君福志麻呂」「前君乎佐」「曾君多理志佐」といったものがある。一族名(氏みたいなもの)+個人名、という構造だ。「君(キミ)」は姓(カバネ)だろう。これに照らし合わせて考えると、「薩末(サツマ)」は地名か一族の名、「比賣(ヒメ)」は「君」あたるもので女性であることも示す、そして「久賣波豆」が名前、と解釈するのが自然なような感じを受ける。

 

rekishikomugae.net

 

「薩末比賣(サツマノヒメ)」は、サツマを統治した女性という感じだろうか。もしかしたら、サツマ(=川内?)の地は女王が統べることもあったクニだったのかも? ……と、そんな想像もさせられる。

 

天辰寺前古墳に埋葬されている女性は、薩末比賣久賣波豆よりも300年ほど前の人物である。こちらも、女王だったりするのかも?

 

 

 

<参考資料>

『天辰寺前古墳公園』(パンフレット)
編・発行/薩摩川内市教育委員会教育部文化課 2018年

『川内市史 上巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1976年

『六国史 巻參』増補版(『続日本紀』を収録)
編/佐伯有義 発行/朝日新聞社 1940年

ほか