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戦国時代の南九州、激動の16世紀(4)相州家の復権、島津忠良・島津貴久は南薩摩を平定

島津氏の覇権を分家の薩州家(さっしゅうけ)と相州家(そうしゅうけ)が争う。天文4年(1535年)10月に守護の島津勝久は鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)を出奔し、薩州家の島津実久(しまづさねひさ)が実権を握った。島津実久はこのときに守護職についたともされる。

しかし、相州家の島津忠良(しまづただよし)が反抗。かつて相州家は島津宗家の実権を一度は握ったのだが、大永7年(1527年)に薩州家のクーデターにより潰された。今度は島津忠良(相州家)が、政権の座から島津実久(薩州家)を引きずり降ろしにかかる。そして、伊集院を攻略し、鹿児島を奪った。

 

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天文6年(1537年)、島津忠良(相州家)は島津実久(薩州家)に和睦を持ちかけるも破談。両家の抗争は続く。

なお、記事内の日付は旧暦で記す。また、資料によって日付に違いがあるが、おおむね『島津国史』に沿ったものとする。

 

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天文6年頃の相州家と薩州家

相州家は薩摩国の田布施・高橋・阿多(たぶせ・たかはし・あた、鹿児島県南さつま市金峰)、伊作・南郷・日置・伊集院(いざく・なんごう・ひおき・いじゅういん、鹿児島県日置市の一帯)を支配下におく。鹿児島(現在の鹿児島市清水町の周辺)から島津実久(薩州家)を追い落としたあと、島津忠良・島津貴久(たかひさ、忠良の嫡男)は田布施から薩州家方の加世田(かせだ、南さつま市)をうかがう。

鹿児島には奥州家(おうしゅうけ、島津氏宗家)譜代の本田薫親(ほんだただちか)が入った。この時点では、島津勝久(奥州家)が守護への復帰を目論んでいたようだ。

一方、薩州家は薩摩国北部の出水・山門(いずみ・やまと、鹿児島県出水市)、阿久根(あくね、鹿児島県阿久根市)、薩摩国中部の隈之城(鹿児島県薩摩川内市隈之城周辺)・串木野・市来(くしきの、いちき、鹿児島県いちき串木野市・日置市東市来)、南部の加世田・河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)・鹿籠(かご、鹿児島県枕崎市)をおさえていた。

島津実久(薩州家)は鹿児島や伊集院を奪われ、さらには、入来院(いりきいん、薩摩川内市入来)を拠点とする入来院重聡(いりきいんしげさと)も薩州家領内に侵攻していた。それでもなお大きな勢力を有していた。

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薩州家と南日向、そして新納氏の没落

日向国・大隅国では多くの領主が島津実久(薩州家)方についた。だが、志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)の新納忠茂(にいろただしげ)が応じず。新納氏は周囲の領主たちを敵にまわした。

南日向では庄内(しょうない、宮崎県都城市)の北郷忠相(ほんごうただすけ)、飫肥・櫛間の島津忠朝(しまづただとも、豊州家、ほうしゅうけ)、そして志布志の新納氏が勢力争いを繰り広げていた。新納氏は北郷氏・豊州家と対立しており、新納忠勝(ただかつ、忠茂の父)が両家との同調を拒んだのだという。

ちなみに豊州家は島津氏の分家のひとつ、北郷氏と新納氏も島津氏の支族である。同族で争っていた。

島津実久(薩州家)が鹿児島を追われたあとも、南日向の戦いは続く。北郷忠相・島津忠朝(豊州家)は連携して新納氏と全面戦争を展開する。大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)の肝付兼続(きもつきかねつぐ)も新納氏攻めに加わった。

天文7年(1538年)1月3日、北郷忠相が大隅国財部(たからべ、鹿児島県曽於市財部)を攻め落とす(新納氏に取られていたものを奪い返した)。1月29日には島津忠隅(豊州家、忠朝の甥)が大崎城(おおさきじょう、鹿児島県曽於郡大崎町假宿)を攻め落とす。2月2日に北郷忠相が梅北城(うめきたじょう、宮崎県都城市梅北町)を落とす。2月20日に島津忠朝(豊州家)が安楽城(あんらくじょう、鹿児島県志布志市志布志町安楽)を、4月に夏井砦(なついとりで、志布志市志布志町夏井)を陥落させる。7月には肝付兼続が蓬原城(ふつはらじょう、志布志市有明町蓬原)・恒吉城(つねよしじょう、曽於市大隅町恒吉)を落とし、島津忠朝(豊州家)が末吉城(すえよしじょう、曽於市末吉町)・松山城(まつやまじょう、志布志市松山町)を陥落させた。

山城跡の麓に標柱と説明版がある様子

恒吉城跡

道沿いに緑に覆われた曲輪跡の写真

松山城二ノ丸跡(松山城山運動公園内)

 

そして、北郷忠相と島津忠朝(豊州家)は新納氏の城をことごとく落とし、志布志城に迫った。大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)の肝付兼演(きもつきかねひろ)も攻め手に加わる。7月27日、新納忠茂は降伏する。すべての城を明け渡して、伊東氏を頼って佐土原(さどわら、宮崎市佐土原町)に落ちのびた。また、新納忠勝は島津忠朝(豊州家)を頼り、櫛間に住まいを与えられた。

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島津忠朝(豊州家)は救仁院(志布志や蓬原など)・末吉・松山を取り、北郷忠相は財部・梅北を得た。また、島津忠朝は北郷忠相に、梅北城との交換で三俣院高城(みまたいんたかじょう、月山日和城、がっさんひわじょう、宮崎県都城市)を求めた。北郷忠相はこれに応じた。

新納氏はすべての所領を失い、一族は離散した。その中で新納祐久(にいろすけひさ)が相州家を頼った。島津忠良(相州家)の母は新納氏の出身である。その縁で庶流の新納忠澄(にいろただすみ)が相州家に仕えていた。祐久は忠澄の甥にあたる。新納忠澄の伝手で新納祐久は相州家に仕官することになった。

新納祐久は息子ともに島津忠良にお目見えする。その息子が新納忠元(ただもと)である。のちに島津氏の重臣となって活躍しまくるのだ。

 

 

加世田の戦い

天文7年12月18日(1539年1月)、島津忠良(相州家)は薩州家方の加世田城に兵を進めた。益山諏訪原(南さつま市加世田益山のあたりか)に陣取って攻めようとしていたところ、加世田城の兵が不意を突いて攻撃してきた。相州家方は敗走し、薩州家方はこれを追撃。島津忠良は馬をおりて林の中に逃げ込んだ。家臣の春成久正(はるなりひさまさ)もこれに同行した。島津忠良は諏訪大明神の祠の中に隠れ、春成久正はそばの茂みに身をひそめた。敵兵が追ってきたそのとき、近くで鳩と鳧(ケリかカモか)が飛び立った。追撃兵たちは鳥の様子を見てこの辺りには隠れていないと判断して去った。島津忠良主従は難を逃れた。

『西藩野史』では12月19日に島津忠良が加世田で敗れたとする。また、つぎのようなエピソードが記されている。

島津忠良は万之瀬川を渡河したところで、益山の鵜塚に陣取った加世田軍の攻撃を受けた。乱戦の中で島津忠良は斬り死にして自軍の士気を上げようとした。家臣の肥後掃部左衛門・井尻四郎左衛門・宮原隼人はこれを諫める、「匹夫ト争テ死ヲ軽クスルハ良将ニアラス、早ク退テ後ノ勝ヲ全フセヨ」と。そして3人は敵軍に突入して戦死した。この間に島津忠良は難を逃れて田布施に逃げることができた、という。

島津忠良は再び加世田城を攻める。臣下に策を求め、そして春成久正の献策を採用した。城のまわりには鳥(『島津国史』には「鳬鷖」と記す)が多く、兵が近づけると鳥が騒ぐ。そのことで城兵は異変に勘づくのだ。策はこれを逆手にとったものであった。阿多の住人の小鷹兵衛に命じて、夜毎に城のまわりの鳥をざわつかせた。鳥が騒ぐたびに、城兵は敵襲だと思って兵を動かすが何事もなし。これを繰り返すことで、城兵は鳥が騒ぐことをなんとも思わなくなっていった。

また、家臣の松崎大蔵・満留郷八衛門が夜毎に加世田城を探り、12月29日に城兵が家に帰るという情報を得た。守りが手薄になったところを攻め込むことにしたという(『西藩野史』より)。

決戦前の酒宴で蜘蛛の瑞兆があった。『島津国史』によると、島津忠良が盃を挙げると蜘蛛がたちまち集まってきたので、「是何祥也(これは何の兆しか?)」と家臣に問うた。すると、春成久正が「吉也、此行必勝矣(吉兆なり、この戦い必ずや勝てますぞ)」と言ったのだという。

12月29日、島津忠良(相州家)は加世田に夜襲をかける。軍を3つに分けて船待口・大手口・搦手口から加世田本城(別府城)を攻め立てて、まずは三の丸を落とす。城代の大山宮内少輔は、相州家方の飛松久友(とびまつひさとも、姓は冨松とも、伊集院氏の一族)と刺し違えて戦死する。『西藩野史』によると島津貴久・島津忠良は大手口から、島津忠将(ただまさ、忠良の次男)が搦手口から攻めかかったとしている。

石段を登ると城跡がある、という写真

加世田城(別府城)跡

天文8年1月1日、相州家方は本丸を攻める。城代の阿多飛騨守(島津氏支族の町田氏の一族)は持ちこたえられず、城門を開いて二の丸を明け渡した。

また、新城(上ノ城、跡地は加世田運動公園になっている)を囲む。二の丸・三の丸を落とし、城代の市来(いちき)某・中村(なかむら)某を討ち取る。

本丸の城代の別府(べっぷ)某は僧を使者にたてて降伏と命乞いを申し出てきた。しかし、島津忠良は「戦わずに命乞いとは見苦しい、勇士にあらず」と言って許さず。そこで別府某は直談判に動き、城を出て島津忠良の陣を訪れた。島津忠良はやはり許さず。別府某は討たれ、大手門外の樹上に梟首された。

 

また、川邉より薩州家方の鎌田政眞(かまだまさざね)・大寺越前守が加世田の救援のために襲来した。島津貴久は35騎を率いて撃って出た。敵兵12人を討ったが、背後を突かれて家臣の猿渡信資らが戦死する。新城にあった島津忠将は16騎を率いて兄の救援に出てくる。敵兵を45人を斬り、鎌田政眞らを撤退させた。

相州家は加世田を制圧。島津忠良・島津貴久は田布施に戻り、新納康久(にいろやすひさ、新納忠澄の子)を加世田の地頭とした。

相州家方が加世田をおさえたことで、南薩摩の薩州家領はその本拠地である出水からの連絡路を断たれた形となった。

 

 

谷山の戦い、河邊の戦い

天文8年(1539年)3月、島津貴久(相州家)は鹿児島に出陣。上之山(うえのやま、現在の鹿児島市城山町)に陣取り、谷山(たにやま、現在の鹿児島市の南部のほう、谷山地区)の薩州家方と対峙する。

ちなみに、上之山は鹿児島城(鶴丸城)の背後の山で、現在は「城山」と呼ばれている。もともとは中世の山城である。

堀と石垣、背後に緑に覆われた城山が見える様子

写真手前が鹿児島城跡、背後の山が上之山城跡(城山)

谷山城(たにやまじょう、鹿児島市下福元町)の守将の禰寝播磨守(大隅の禰寝氏の一族と思われるが、詳細不明)が兵を進め、島津貴久の軍も撃って出た。3月13日、両軍は谷山の紫原(むらさきばる、鹿児島市紫原)でぶつかる。島津貴久は禰寝播磨守を討ち取り、この合戦を制した。

島津貴久(相州家)は薩州家方の谷山城に迫る。支城である苦辛城(くららじょう、鹿児島市皇徳寺台、現在は「皇徳寺くらら城公園」として整備されている)では、城主の平田宗秀(ひらたむねひで)が降伏。島津貴久を城に迎え入れた。島津貴久は谷山城へ兵を出し、自身は神前城(別名に玉林城、鹿児島市和田、現在は伊佐智佐神社がある)を攻める。3月24日、神前城を守る島津忠悟(薩州家庶流)は降伏。相州家は谷山を攻略した。

本丸の曲輪跡を見上げ、段差の下には小さな祠がある様子

谷山本城跡

 

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同じ頃、島津忠良は河邊を攻めていた。3月28日、河邊高城(かわなべたかじょう、別名に松尾城、鹿児島県南九州市川辺町野崎)の鎌田政眞を降伏させ、平山城(ひらやまじょう、別名に河邊城、南九州市川辺町平山)も落とす。平山城には新納康久を入れて守らせた。

谷山・河邊を奪い、薩州家は南薩摩の所領をことごとく失った。

 

 

市来城・串木野城の攻略

相州家の島津忠良・島津貴久は、さらに薩摩国中部の薩州家方の勢力を削ろうと動く。市来・串木野に侵攻する。

天文8年(1539年)6月17日、島津貴久は市来城(いちきじょう、日置市東市来)を攻める。島津忠房(島津実久の叔父)と新納忠苗が守る平城(市来城の支城)を落とした。薩摩国入来院(いりきいん、鹿児島県薩摩川内市入来)領主の入来院重聡(いりきいんしげさと)の援軍があり、平城には入来院重朝(しげとも、重聡の嫡男)が入った。

ちなみに、入来院重聡の娘(雪窓夫人、雪窓院)は島津貴久の正室である。入来院氏は一貫して相州家の味方で、薩摩国北部の薩州家領を牽制する役割を担っていた。

6月27日、入来院重朝が兵を率いて市来本城(鶴丸城)を攻撃するが、容易には落ちない。その後、相州家方に来援もあり、市来本城の軍を破る。島津忠辰(島津実久の弟)らを討ち取った。

鶴丸城跡の城址碑の写真

市来本城(鶴丸城)の本丸跡

 

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市来攻めに馳せ参じたのは入来院氏に加え、大隅国生別府(おいのびゅう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)の樺山善久(かばやまよしひさ、島津氏支族、正室は島津忠良の次女)、薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)の島津忠俊(しまづただとし、のちに喜入氏を名乗る)、知覧(ちらん、南九州市知覧)の佐多忠成(さたただなり、正室は島津忠良の異父妹)、頴娃(えい、南九州市頴娃)の頴娃小四郎(頴娃兼堅か)らが馳せ参じた。ほかに、大隅国蒲生(かもう、姶良市蒲生)の蒲生氏、種子島(たねがしま)領主の種子島恵時(たねがしまさととき)、大隅国高山の肝付兼続(正室は島津忠良の長女)、禰寝院(ねじめいん、肝属郡南大隅町根占のあたり)の禰寝清年(ねじめきよとし)、加治木の肝付兼演、下大隅(しもおおすみ、垂水市のあたり)の伊地知重武(いじちしげたけ)らも援軍を出している。

谷山・川邉を制圧してから、相州家は支持者を一気に増やしたようである。

8月4日、相州家方は島津忠将を大将として市来本城を再び囲む。薩州家方の島津忠房・新納忠苗はよく守る。

8月28日に串木野城(くしきのじょう、いちき串木野市上名)の川上忠克(かわかみただかつ、島津氏支族の川上氏の庶流)に使いを送って降伏をすすめる。子の虎徳丸を差し出せば許すとした。川上忠克は子を市来に送り、串木野城を開城した。自身は出水に落ち、島津実久に従った。

串木野城跡入口の標柱がある山城の登り口付近の様子

串木野城跡

 

薩摩郡の百次城(ももつぎじょう、薩摩川内市百次)は島津勝久から入来院氏に与えられていたが、それまでは薩州家の支配下にあった。市来攻撃と同じ頃に入来院重朝は城を奪取する。

市来本城は孤立する。8月29日、ついに島津忠房・新納忠苗は降伏する。この地も相州家の支配下となった。

また、9月10日には入来院重朝が薩摩郡の隈之城・宮崎(くまのじょう・みやざき、薩摩川内市隈之城のあたり)を制圧。この地を奪う。

薩州家の勢力は、薩摩北部の出水の周辺を残すのみとなった。大勢は決した。

市来を攻略したあと、島津貴久は戦火で荒れた鹿児島の福昌寺(ふくしょうじ、鹿児島市池之上町)を修復し、さらに宇宿(うすき、鹿児島市宇宿)の地を寺領とした。福昌寺は島津宗家の菩提寺である。福昌寺を保護することで、島津氏の棟梁を継承したことを示した。

島津忠良が薩摩の覇権を確立。そして、島津貴久は実質的に当主の座についたのである。

……つづく。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年

『貴久記』
著/島津久通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか