ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱へ

14世紀の日本は混乱の時代である。鎌倉幕府が倒れ、天皇家は分裂し、足利(あしかが)氏でも内部抗争が起こる(観応の擾乱)。めまぐるしく状況が変わる。決着はなかなかつかない。ややこしくてグダグダな展開が続く。ここのところの歴史はわかりにくいのである。

 

南北朝争乱期のおおまかな流れをたどってみた。なお、年号は南朝のものと北朝のものを併記する。日付は旧暦にて記す。

 

こちらは南九州の南北朝争乱について。おもに島津家の動きである。状況がころころ変わる中で、地方の領主たちも振り回された。

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天皇家分裂

13世紀の半ばから天皇家は持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)の2系統に分裂し、対立するようになる。この事態に鎌倉幕府が介入し、それぞれから交互に天皇を出すように定められた。この体制を両統迭立(りょうとうてつりつ)という。

のちに持明院統が北朝へと、大覚寺統が南朝へとつながる。

 

 

倒幕失敗

元徳3年(1331年)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう、大覚寺統)の倒幕計画が発覚。急遽、天皇方は挙兵し、笠置山(現在の京都府相楽郡笠置町)に籠城するが敗北した。後醍醐天皇は退位させられ、隠岐国(現在の島根県隠岐郡)に流される。

天皇方では、天台座主の尊雲法親王(そんうんほっしんのう、後醍醐天皇の皇子、「大塔宮」とも称される)が笠置山から逃げ延びた。また、楠木正成(くすのきまさしげ)は河内国の下赤坂城(現在の大阪府南河内郡にあった)に籠城(赤坂城の戦い)。寡兵で幕府の大軍を翻弄するも、城を捨てて退却する。

 

なお、後醍醐天皇は反乱のさなかに「元弘」と改元するが、幕府はこれを認めなかった。後醍醐天皇の退位後は、持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)が即位した。

 

 

倒幕挙兵、再び

元弘2年・正慶元年(1332年)に護良親王(もりよししんのう、もりながしんのう、尊雲法親王が還俗)が吉野山で挙兵する。楠木正成は千早城・上赤坂城で幕府の大軍を相手に奮戦(千早城の戦い)。千早城は落ちなかった。

翌年には後醍醐廃帝が隠岐を脱出。伯耆国(現在の鳥取県)の名和長年(なわながとし)がこれに協力。挙兵する。さらに、全国で呼応する者があり、倒幕方は勢力を増していった。

 

 

鎌倉陥落、幕府滅亡

幕府方は足利高氏(あしかがたかうじ、足利尊氏)に反乱の討伐にあたらせる。しかし、その足利高氏が倒幕勢力に寝返ってしまう。状況は一気に動く。足利高氏らの軍勢が幕府軍を破り、元弘3年・正慶2年(1333年)5月7日に六波羅探題(京にある幕府の本拠地)を落とした。

 

同時期に上野国(現在の群馬県)で新田義貞(にったよしさだ)が挙兵する。5月22日に鎌倉を落とす。得宗(北条氏の惣領)の北条高時(ほうじょうたかとき)は自害。鎌倉幕府は滅亡した。

 

九州でも有力御家人が幕府に反旗をひるがえす。少弐貞経(しょうにさだつね)・大友貞宗(おおともさだむね)・島津貞久(しまづさだひさ)らが挙兵し、5月25日に鎮西探題(幕府の九州統治の拠点、探題館は現在の福岡市にあったと考えられる)を攻め滅ぼした。

 

 

建武の新政

後醍醐天皇が再び即位し、元弘3年(1333年、「正慶」の元号は廃止)6月5日に親政を開始した。翌年に「建武」と改元される。

ちなみに足利高氏は、「足利尊氏」と名を改めた。後醍醐天皇の名「尊治」から「尊」の字を拝領してのことだった。

 

建武政権は旧来の天皇中心の政治を目指した。鎌倉幕府の本領安堵は白紙とされ、天皇が再度配分することとなった。公地公民制の復活を目指した感じである。

そんな中で武家の不満がふくらんだ。また、急な改革を処理する能力は新政権には整っていない。大混乱をまねくことになった。それまでの権利は保証されず、土地をめぐる争いの裁定も滞り、綸旨(政府の命令書)ひとつで土地を失うことがあったりもした。公家を重用し、恩賞についても不公平感を訴える者が多かった。

新政権の評判はどんどん悪くなる。

 

 

護良親王が失脚

征夷大将軍に補任された護良親王が、足利尊氏の排斥を計画する。建武元年(1334年)に護良親王は尊氏追討の令旨を発しようとしたが、後醍醐天皇はこれを許可せず。この令旨が皇位簒奪の企てと疑われて護良親王は失脚する(足利氏側の謀略とも)。

親王は捕らわれて、鎌倉将軍府の足利直義(あしかがただよし、尊氏の弟)の監視下で幽閉された。

 

 

中先代(なかせんだい)の乱

建武2年(1335年)7月、信濃国(現在の長野県)で反乱軍が挙兵する。北条時行(ほうじょうときゆき、北条高時の遺児)を奉じてのものだった。旧幕府の残存勢力や政権に不満を持つ者たちが加わり、大きな勢力となる。破竹の勢いで関東を席巻し、7月25日に鎌倉を落とした。

なお、鎌倉陥落を前に護良親王は足利直義の命令で殺害された。この行動は、反乱軍が護良親王をかつぐことをおそれたことが理由ともされる。

 

反乱軍鎮圧のために、京から足利尊氏が出兵する。尊氏は総追捕使と征夷大将軍の職を望んだが、後醍醐天皇はこれを拒む。尊氏は勅状を得ないまま出陣し、天皇は追って「征東将軍」を与えた。足利軍は反乱軍を殲滅し、8月19日に鎌倉を奪還した。

 

 

足利尊氏が建武政権に叛く

反乱鎮圧後も足利尊氏は鎌倉に留まる。さらに勝手に戦後の恩賞を与えた。

建武政権は足利尊氏のふるまいを叛乱とみなす。尊良親王(たかよししんのう、後醍醐天皇の皇子)と新田義貞が率いる討伐軍を鎌倉に派遣する。足利軍はこれを返り討ちにする。さらに西へ進軍し、京を制圧した。しかし、新田義貞・楠木正成・北畠顕家(きたばたけあきいえ)らに攻められ、足利尊氏は敗北する。播磨国(現在の兵庫県)から九州へと落ちていった。

 

 

足利尊氏の九州大返し

九州に入った足利尊氏は少弐氏・大友氏・島津氏などの協力を得る。そして、九州の敵対勢力を撃破していく。また、持明院統の光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受け、自身の正統性も主張した。

 

延元元年・建武3年(1336年)3月に筑前国の多々良浜(たたらはま、現在の福岡市のあたり)で菊地武敏(きくちたけとし、肥後の有力者)が率いる天皇方の軍勢を破る。この勝利を機に、九州の有力者の多くが足利尊氏に従うようになった。九州で足場をかため、軍を率いて再び上洛する。

 

同年5月、足利尊氏は摂津国湊川(みなとがわ、兵庫県神戸市)へ。楠木正成・新田義貞らが率いる天皇方の軍を撃破。なお、湊川の戦いでは楠木正成が戦死している。勢いに乗った足利尊氏は、6月に京を制圧する。

 

 

建武政権の終焉、武家政権の樹立

後醍醐天皇は比叡山に逃げ、のちに和睦。そして、後醍醐天皇が退位し、持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう、光厳上皇の弟)が擁立された。足利尊氏は「建武式目」を制定し、武家政権を樹立する。

これが、実質的な室町幕府のはじまりである。延元3年・暦応元年(1338年)には尊氏が征夷大将軍に任命された。

 

 

もうひとつの朝廷

後醍醐天皇は大和国の吉野山(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れ、ここに朝廷を開く。京の朝廷を「北朝」と呼び、吉野朝廷を「南朝」と呼ぶ。ここから北朝方と南朝方が対立。それぞれを支持する勢力どうしが日本中で争い、内乱状態が激化していくことになるのだ。

そんな中で後醍醐天皇は病に倒れ、延元4年 ・暦応2年(1339年)8月に義良親王(のりよししんのう、後村上天皇)に譲位し、まもなく崩御した。

 

 

 

南朝、旗色悪し

南北朝の争いは続く。南朝方は有力武将を失い、次第に劣勢となっていく。正平3年・貞和4年(1348年)には吉野山を落とされ、南朝は賀名生(あのう、現在の奈良県五條市)に本拠地を移した。

 

 

足利直義の失脚

北朝方では政権の中枢にある足利直義と高師直(こうのもろなお)が対立する。正平4年・貞和5年(1349年)に足利直義は高師直を政権から排除しようと企てた。対する高師直は兄の師泰(もろやす、弟という説もある)らとともに挙兵してクーデターを図った。

この争いは高氏に軍配があがる。足利直義が出家して政権から身を引く、という形で決着した。

 

 

足利直冬の反乱

足利直義の失脚に反発して、備後国(現在の広島県東部)に滞在していた足利直冬(あしかがただふゆ)が兵を率いて上洛しようする。足利直冬は足利尊氏の庶長子(尊氏は認知していない)だが、足利直義の養子となっていた。幕府は高師直を追討軍として派遣。足利直冬軍は敗れ、九州に逃れた。

 

足利直冬は九州で勢力を広げ、第三勢力を形成する。3勢力が入り乱れ、九州はより混沌とした状況になった。

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足利直義が南朝へ

足利尊氏は足利直冬の討伐に自ら出陣。九州へと軍を向けた。しかしその道中、京で事件が起こる。足利直義が出奔し、南朝に降ってしまう。

正平6年・観応2年(1351年)1月、南朝方の足利直義が京を攻めて制圧。足利尊氏は京へ引き返そうとするが、直義軍と戦って敗北。足利尊氏は和議を申し入れ、2月20日に成立する。これにより高師直・師泰は出家引退することと決まる。そして、護送途中に殺害された。

南朝方は壊滅寸前であったが、足利氏の内紛もあって息を吹き返した。

 

 

足利兄弟の対立と正平一統

今度は足利尊氏と足利直義が対立。尊氏は軍を動かして直義を討つ体制を整えると、直義は京を脱出して鎌倉へ逃げた。西国の足利直冬も直義方に呼応した。

足利尊氏は直義追討のため、なんと南朝方に降る。そして、南朝から足利直義・直冬の追討の綸旨を受けた。

観応2年・正平6年(1351年)11月に北朝は廃され、南朝に統一された。北朝の元号「観応」も廃され、南朝の「正平」に一本化された。

足利尊氏は関東の足利直義を攻める。正平7年(1352年)1月に鎌倉に追い込んで降伏させた。その後、足利直義は幽閉先で急死した。

 

 

南朝の裏切りと北朝の復活

足利尊氏が京を留守にしている間に、南朝方が足利勢力を排除しようと動き出す。正平7年(1352年)閏2月に南朝は尊氏の征夷大将軍職を解き、鎌倉に軍を派遣して足利尊氏を敗走させた。

同じ頃に南朝方の軍が京を占拠し、三種の神器を奪い、北朝方の上皇や親王も連行した。京で留守を守っていた足利義詮(あしかがよしあきら、尊氏の嫡子で、のちの2代将軍)は近江国(現在の滋賀県)へ逃れる。

 

足利尊氏はいったん引いて軍を立て直し、すぐに反撃に転じる。南朝軍との合戦を制し、3月12日に鎌倉を奪還した。また、足利義詮も軍を編成して反撃。3月15日に京を奪還した。南朝の後村上天皇は京を脱出して男山八幡(京都府八幡市にある石清水八幡宮)に籠城するが、5月11日に陥落した。

 

京では持明院統の後光厳天皇(ごこうごんてんのう、光厳上皇の皇子)を擁立し、北朝が復活した。足利尊氏も征夷大将軍に再び任じられた。尊氏は鎌倉にとどまり、幕府の政治は義詮に任せた。

 

南九州では、島津氏と畠山直顕(はたけやまただあき)が勢力争いを繰り広げる。

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両朝の対立つづく

三種の神器は南朝が持っていかれ、北朝の後光厳天皇の威光は弱いものであった。京を追われた南朝勢力はその後も抵抗を続ける。南北朝の争いは泥沼化していく。

南朝はたびたび京を攻撃する。正平8年・文和2年(1353年)6月には、北朝方から離反した山名時氏(やまなときうじ)が楠木正儀(くすのきまさのり、楠木正成の三男)と連携して足利義詮から京を奪う。しかし、鎌倉から足利尊氏が救援に駆け付け、幕府方が京を奪還した。

また、南朝に帰順した足利直冬が京を攻撃し、正平10年・文和4年(1355年)1月に一時的に占拠した。こちらも東国から足利尊氏が救援に入り、北朝が取り戻す。

正平13年・延文3年(1358年)4月、足利尊氏が死去。2代将軍となった足利義詮が南朝に攻勢をかけるが、決定打にはならず。その後は、幕府でまたもや内部抗争があり、離反者を糾合した南朝が再び京を攻めたりもした。

 

九州では南朝方が優勢だった。幕府は今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)を九州探題に任じ、九州の攻略を任せることに。応安4年・建徳2年(1371年)に今川貞世(今川了俊)が九州入りすると、北朝方(幕府方)が巻き返す。南朝方を追い込んでいった。

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和議成立、朝廷が一本化

南北朝の争いは、元中9年・明徳3年(1392年)の和議成立(明徳の和約)まで続く。足利義満(あしかがよしみつ、3代将軍)は、両統迭立(持明院統と大覚寺統から天皇を交互に即位させる)の復活を条件に南朝方と話をまとめた。

朝廷はまた一つになるが、すっきりと決着しない。北朝は三種の神器を南朝から入手すると、両統迭立の約束を守らず。そのまま南朝政権は消滅してしまう。その後も問題はくすぶる。持明院統(北朝)の皇位の独占に反発して、大覚寺統(南朝)側が反乱を企てることもあった。

 

一方、南九州では今川氏と島津氏の対立が続く。戦いは終わらない。

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<参考文献>
『日本の歴史8 南北朝の動乱』
著/伊藤喜良 発行/集英社 1992年

『動乱の日本史 南北朝対立と戦国への道』
著/井沢元彦 発行/KADOKAWA 2019年
(電子書籍版)

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

ほか