ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(7) 南北朝合一へ、されど戦いは続く

九州探題今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊)は九州平定を進めていく。九州の南朝方は勢いを失いつつあった。その一方で、永和元年・天授元年(1375年)7月の水島の変(前回記事を参照)により、島津氏は今川氏に反発。島津と今川の戦いも続いていた。

南北朝争乱もいよいよクライマックスである。

前回までの記事はこちら

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今川了俊が反島津勢力を結集

永和元年・天授元年(1375年)9月13日
今川貞世今川了俊)が渋谷重頼(入来院重頼、いりきいんしげより)に書をつかわし、幕府方に応じるよう誘う。

入来院氏は入来院清色(いりきいんきよしき、現在の鹿児島県薩摩川内市入来)を本拠地に薩摩国北部に勢力を持つ。渋谷氏の一派。

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永和2年・天授2年(1376年)3月21日
薩摩郡の碇山城(いかりやまじょう、鹿児島県薩摩川内市天辰町)にて島津師久が逝去。52歳だった。島津伊久(これひさ、師久の子)がつぐ。

永和2年・天授2年(1376年)5月25日
今川満範(いまがわみつのり、貞世の子)を南九州方面の大将として、島津攻略に動く。幕府方は薩摩国大隅国日向国肥後国の領主たちを勧誘し、反島津勢力を形成。今川貞世今川了俊)は渋谷重頼(入来院重頼)に書を発し、協力するよう求めた(再度)。伊集院久氏(いじゅういんひさうじ)・加治木氏平(かじきうじひさ)にも同様の書があった。

伊集院氏は薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)の地頭で、島津氏の支族。加治木氏は大隅国加治木郷(鹿児島県姶良市加治木)の領主。伊集院氏・加治木氏は応じなかったようだ。

永和2年・天授2年(1376年)6月2日
今川満範が肥後国球磨郡人吉(現在の熊本県人吉市)に入る。禰寝久清(ねじめひさきよ)・伊集院氏久(再度)に書を送って勧誘した。

禰寝久清は大隅国禰寝院(ねじめいん、鹿児島県肝属郡南大隅町根占)の領主。

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永和2年・天授2年(1376年)6月4日
幕府方は球磨領主の相良前頼(さがらさきより)に書を送らせ、態度をはっきりさせない禰寝久清を説得させようとする。6月5日には日向国櫛間院(宮崎県串間市)領主の野辺盛氏にも同様の書を送らせる。

永和2年・天授2年(1376年)7月3日
今川貞世今川了俊)が禰寝久清に書を送り、挙兵を促す。5日に渋谷重頼(入来院重頼)にも同様の書を下す。

永和2年・天授2年(1376年)7月16日
今川満範が禰寝久清に書を送り、日向国庄内(宮崎県都城市)を攻撃するから来援するように、と求める。


永和2年・天授2年(1376年)8月12日
島津伊久は幕府方にあったが叛き、島津氏久とともに南朝方に転じていた。幕府は両島津氏の守護職を解任し、今川貞世今川了俊)が薩摩国守護・大隅国守護となった。

島津氏も渋谷重頼(入来院重頼)や禰寝久清など国人衆を仲間に引き入れようと動く。双方で勧誘合戦が展開されている。

今川方は禰寝久清の取り込みにやたらと必死であった。戦況が有利であることを伝えたり、恩賞をちらつかせたりしつつ、勧誘を続けている。禰寝氏は古くから南大隅を支配する国人で、当時も大きな力を持っていたのだろう。また、かつては畠山直顕に従って、島津氏と対立していた時期もある。

永和3年・天授3年(1377年)12月頃
薩摩国大隅国日向国肥後国の地頭・御家人61人が連名盟書を幕府に提出。今川方の誘いに応じた。反島津連合(南九州国一揆)はかなりの勢力になった。

永和4年・天授4年(1378年)春
今川満範が島津氏久を召喚するが、氏久は行かず。

永和4年・天授4年(1378年)2月22日
今川満範が禰寝氏に兵を出すよう書状を出す。

永和4年・天授4年(1378年)3月18日
今川貞世今川了俊)が島津伊久に書を出し、薩摩国の地頭御家人とともに参陣するよう求める。

この頃、島津伊久は幕府方に帰順していたと見られる。豊後国の井田郷(現在の大分県豊後大野市)の所領安堵を今川貞世今川了俊)に求めていたところ、8月に豊後国守護・大友親世(おおともちかよ)より島津伊久に井田郷が授けられている。また。9月に今川軍が肥後国の詫麻原(たくまばる、熊本県熊本市中央区)にて菊池武朝(きくちたけとも)を攻めた際には、島津師久が兵を派遣。碇山久安(伊久の弟、島津氏庶流碇山氏)・新納左近将監(島津氏庶流・新納実久の弟)を援軍として送った。

島津氏久も島津伊久につづいて一時的に幕府に帰順したとも(『鹿児島縣史』より)。


都之城の合戦(簑原合戦)

『島津国史』によると簑原合戦(みのばるかっせん、「都城合戦」とも)は永和3年・天授3年(1377年)の出来事としているが、実際には永和5年・天授5年(1379年)にあったものと見られる。ちなみに、永和3年説は『山田聖栄自記』(15世紀末頃に書かれたもの)での記述がもとになっている。

この記事では永和5年説で記載する。『室町期島津氏領国の政治構造』(著/新名一仁)内で古文書類をもとに時期の比定が検証されていて、これを参考にした。

永和4年・天授4年(1378年)12月か 
  ※『島津国史』では永和2年
今川満範は相良氏・伊東氏(日向国御家人)を率いて、日向国諸県郡庄内の都之城(みやこのじょう、宮崎県都城市都島町)を攻めた。城は島津方の北郷誼久(北郷義久、ほんごうよしひさ、氏久の従兄弟にあたる)と島津音久(樺山音久、誼久の弟、樺山氏をつぐ)が守っていた。今川軍には市来氏・渋谷氏・菱刈氏・肝付氏・牛屎氏・禰寝氏・谷山氏などが参陣した。

永和5年・天授5年(1379年)2月23日
  ※『島津国史』では永和3年
島津氏久日向国救仁院志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)より都之城救援の兵を出す。島津軍は都之城の南にある天ヶ峰(あまがみね、都城市梅北町)に陣取った。

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永和5年・天授5年(1379年)2月28日
  ※『島津国史』では永和3年
島津氏久は平長谷(ひらはせ、都城市平塚町)に進軍し、軍を「月一揆」「杉一揆」「小一揆」の3つに分けた。左翼の月一揆は新納実久(にいろさねひさ、新納氏2代、氏久の従兄弟)が率い、右翼の杉一揆は本田重親(ほんだしげちか、島津氏久の執事)が担った。そして、島津氏久は本隊の小一揆を指揮する。

永和5年・天授5年(1379年)3月1日
  ※『島津国史』では永和3年
都之城にこもる北郷誼久は城から撃って出る。北郷基忠・北郷忠宜(ともに誼久の弟)・平田親宗・工藤蔵人ら70余人を率いて戦った。戦闘は激しく、北郷誼久は負傷。基忠と忠宜は戦死した。また、島津氏久は3つの軍を平長谷より簑原(都城市簑原町)に向けた。今川満範の軍も簑原に進み、両軍がぶつかる。島津氏久も前線で戦い、伊東六郎左衛門尉・池尻五郎・渋谷右馬助らを切り伏せた。島津軍が大勝する。

永和5年・天授5年(1379年)3月3日
  ※『島津国史』では永和3年
今川満範の軍が再び簑原に撃って出た。島津氏久が迎撃し、戦死者を出しながらもこれを破る。今川軍は大敗し、下財部(鹿児島県曽於市財部)へと撤退した。


今川と島津の抗争続く

康暦2年・天授6年(1380年)7月14日
今川貞世今川了俊)は禰寝久清の本領(鹿屋院・禰寝院)を安堵。禰寝氏の取り込みをはかる。

康暦2年・天授6年(1380年)日付けなし(7月か)
島津伊久が今川方より離反する。

康暦2年・天授6年(1380年)10月2日
禰寝久清が下大隅の鷹栖城(たかすじょう、高須城、鹿児島県鹿屋市高須)を攻め落とす。鷹栖城は島津氏久方か。

康暦2年・天授6年(1380年)日付けなし
今川満範が再び庄内に出兵。都之城を攻めようと、北郷城ヶ峰に進軍した。10月16日に禰寝久清に書を遣わして出兵を求め、あわせて鷹栖城を落とした褒美をとらせた。

永徳元年・弘和元年(1381年)6月1日
禰寝久清が島津方の佐多城(さたじょう、鹿児島県肝属郡南大隅町佐多)を落とす。

禰寝久清は今川氏に従って転戦。戦いのあとには今川貞世今川了俊)がすぐに恩賞を出している。

永徳元年・弘和元年(1381年)6月26日
今川方(幕府方・北朝方)の将である慈冬(名和慈冬?)が都之城を攻撃。村を焼き、青田を刈る。

永徳元年・弘和元年(1381年)7月4日
今川満範の軍が大隅国囎唹郡の末吉城(すれよしじょう、鹿児島県曽於市末吉)を取り、兵を駐屯させる。岩河城(いわがわじょう、岩川氏が守る手取城か)も今川方に応じた。こてにより、都之城と志布志城の間の道を分断した。

永徳元年・弘和元年(1381年)7月7日
今川方が池平(都城市安久町、池平池の近くか)を取り、土持氏(日向国の国人)の軍勢に守らせる。

永徳元年・弘和元年(1381年)7月17日
今川方が都之城に進軍し、また青田を刈らせた。

永徳元年・弘和元年(1381年)7月18日
都之城を守る北郷誼久が兵を出して今川方を追撃したが勝てず。また、幕府方の相良前頼・税所祐義(囎唹郡の国人)の兵が、島津方の本田氏が守る於奴止利城(おんとりじょう、場所は霧島市国分のあたりか)を落とす。

永徳元年・弘和元年(1381年)日付けなし(秋頃か)
島津氏久北朝方に帰順。島津伊久も続いて帰順したと思われる。

至徳元年・元中元年(1384年)日付けなし
今川貞世今川了俊)が南朝方の肥後国葦北郡二見(ふたみ、熊本県八代市二見)を攻める。配下の宮内大輔三雄(今川和元か、今川氏の一族か)を遣わして兵を置いた。8月に渋谷重頼(入来院重頼)が二見に援兵を出す。

当時の九州は、幕府方が圧倒しつつあり、南朝方は肥後国南部の宇土郡葦北郡へと追い込まれていた。葦北を領する名和顕興(なわあきおき、名和長年の孫)が中心となって征西府は抵抗を続けるが、今川満範は軍を差し向けて葦北を制圧しようとしていた。

至徳元年・元中元年(1384年)閏9月
島津伊久が、子の島津守久(もりひさ)を二見に参陣させる。

至徳2年・元中2年(1385年)1月
相良前頼が九州探題に叛き、八代(二見)の南朝方の救援に向かう。島津氏久・島津伊久もこれに呼応して、南朝に寝返る。両島津氏は援軍を派遣し、相良氏とともに宮内大輔三雄(今川和元か)の軍勢を攻撃。1月10日、宮内大輔三雄(今川和元か)は佐敷城(さしきじょう、熊本県葦北郡芦北町)に撤退する。

至徳2年・元中2年(1385年)1月10日
幕府方の渋谷重頼(入来院重頼)が佐敷へ来援。宮内大輔三雄(今川和元か)が渋谷重頼(入来院重頼)に水俣城(みなまたじょう、熊本県水俣市)を救援させた。

至徳2年・元中2年(1385年)1月30日
幕府が島津伊久に書をつかわして、南朝方の討伐を命じる。これは、寝返った島津氏に幕府方に戻るよう促したものだろうか。

至徳2年・元中2年(1385年)2月7日
今川貞世今川了俊)が渋谷重頼(入来院重頼)に、水俣での軍功を評して褒美を出す。

至徳2年・元中2年(1385年)10月17日
幕府管領斯波義将(しばよしまさ)が今川貞世今川了俊)に書を出し、島津氏久・島津伊久に八代を攻撃させるよう命じる。島津氏は南朝方にあり、この命には従わず。

至徳4年・元中4年(1387年)閏5月4日
島津氏久が鹿児島で逝去。享年60。大隅国姶良(おおあいら、鹿屋市大姶良)の龍翔寺に葬られた。嫡男の島津元久家督をつぐ。

島津氏久は死ぬまで今川貞世今川了俊)とは反目したまま。幕府方(北朝)に帰順した時期もあったが、その際も今川貞世今川了俊)の命には従わなかった。

至徳元年・元中4年(1387年)日付けなし
島津元久薩摩国鹿児島郡に清水城(場所は鹿児島市清水町)を築城。東福寺城は手狭であったために新たに城を築き、鹿児島の拠点を移した。

下の写真は東福寺城跡から見た清水城跡。東福寺城は海辺の丘の上にある。そこからやや内陸の丘陵に城を築いた。

鹿児島の城跡

正面奥の山が清水城

山城と麓の居館からなる。山城と平城が一体となった構造だ。現在、居館跡地には清水中学校がある。その裏山が山城になる。

鹿児島の城跡

清水城跡を麓から見る

 

清水城は天文19年(1550年)に島津貴久(たかひさ)が内城(うちじょう、清水城よりやや南、現在は大龍小学校がある)に拠点を移すまで島津宗家の本拠地であった。山城の麓には、島津氏が守護神として崇敬する稲荷神社もある。

鹿児島の城跡

稲荷神社、背後の山は清水城

 

南北朝の争い、終結

嘉慶元年・元中4年(1387年)9月5日
幕府管領斯波義将が禰寝久清に書を送り、今川宮内大輔(今川和元か)に属して幕府方に尽くすよう命じた。

なお、この時代の古文書には宮内大輔三雄、宮内大輔守政、今川宮内大輔、今川宮内大輔和元と「宮内大輔」を名乗る人物が複数出てくる。いずれも役割が同じで、同一人物だと思われる。

嘉慶2年・元中5年(1388年)4月26日
幕府管領斯波義将が渋谷重頼(入来院重頼)に書を送り、今川和元に属して幕府方に尽くすよう命じる。

明徳元年・元中7年(1390年)7月18日
幕府管領斯波義将が禰寝久清に書を送り、島津元久と手を切って幕府方に帰順するよう促す。また、渋谷重頼(入来院重頼)に書を送り、島津伊久と手を切って幕府方に帰順するよう促す。

明徳2年・元中8年(1391年)9月8日
幕府管領細川頼元(ほそかわよりもと、斯波義将が辞任してかわりに管領になった)が島津伊久に書をつかわして、島津元久とともに幕府に従うよう促した。

この頃に九州探題今川貞世は北部九州をほぼ制圧。肥後国で抵抗を続けていた南朝方の後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや、良成親王とされる)も幕府方に降伏した。残す抵抗勢力は南九州の島津氏だけとなっていた。

また、京においても幕府方が南朝を圧倒。南朝は和睦に向けて動く。

明徳3年・元中9年(1392年)閏10月5日
北朝後小松天皇(ごこまつてんのう)が、南朝後亀山天皇(ごかめやまてんのう)より三種の神器を受け取る。これにより南朝は消滅し、朝廷は北朝に一本化。南北朝合一なる。(明徳の和約)。

九州では南朝方にあった菊池氏や相良氏も幕府方に降った。しかし、島津元久・島津伊久は帰順せず。島津氏と今川氏の戦いはまだ続く。

後征西将軍宮(良成親王か)は両統合一をよしせず、筑後国の矢部大杣(福岡県八女市矢部)に逃れて征西府の再興を目指した。廃された「元中」年号も使い続けている。しばらくのちに逝去したと推測され、矢部の大杣公園には陵墓と伝わる場所もある。


島津はまだ戦う

明徳4年(1393年)
薩摩国では、島津伊久が本拠地の碇山城を出て、河邊城(かわなべじょう、平山城ともいう、場所は鹿児島県南九州市川辺)に移っていた。碇山城は嫡子の島津守久(もりひさ)に守らせていた。この父子はやがて不仲となり、明徳4年(1393年)には島津守久が兵を率いて河邊城を囲んだ。島津元久はこの親子喧嘩の仲裁に入り、島津守久を説得して兵を引かせた。このどさくさのなかで、伊久は伊集院氏に坊津・泊津(ぼうのつ・とまりつ、ともに南さつま市坊津にあり、重要な港であった)を奪われる。島津伊久は碇山城に帰り、島津守久は山門院の木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)に入った。また、島津伊久は島津元久に河邊郡(現在の南さつま市枕崎市)を与えた。

明徳5年(1394年)2月
今川貞兼(尾崎貞兼、おざきさだかね、今川貞世の子)が日向国三俣院(宮崎県北諸県郡三股町)の梶山城(かじやまじょう)を攻めた。梶山城は島津方の和田正覚・高木久家が守っていた。都之城にあった北郷誼久は、北郷久秀・北郷忠通(ともに誼久の子)を梶山城の救援に向かわせた。島津元久も兵を率いて来援した。

明徳5年(1394年)2月17日
梶山城の戦いで北郷忠通が戦死。

明徳5年(1394年)3月7日
梶山城の戦いで北郷久秀・伊地知又七郎(詳細不詳)が戦死。和田正覚・高木久家は城を棄てて逃亡。梶山城は今川方が奪う。

応永元年(1394年)7月5日
島津元久が反撃。今川方となっていた日向国庄内の野々美谷城(ののみたにじょう、宮崎県都城市野々美谷)に夜襲をかけて攻め落とした。野々美谷城には樺山音久を入れて守らせた。

応永元年(1394年)8月16日
幕府管領斯波義将管領に復帰した)が薩摩国大隅国御家人に書を発し、今川方に属して島津氏を討伐するよう通達した。

応永元年12月17日(1395年1月)
足利義満征夷大将軍を子の足利義持(よしもち)に譲る。ただし、足利義満が実権を握り続ける。

応永2年(1395年)日付けなし
碇山城にあった島津伊久は、島津元久に渋谷氏を挟撃することを要請していた。島津元久は梶山城を攻められて手一杯だったために、この申し出を断った。その後、梶山城の囲みが解けたこともあり、島津伊久は再び出征を要請する。

薩摩国北部には渋谷一族が盤踞する。その勢力は入来院(現在の薩摩川内市入来・樋脇)・祁答院(けどういん、薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院)・鶴田(つるだ、薩摩郡さつま町鶴田)・東郷別府(とうごうべっぷ、薩摩川内市東郷)、高城郡(たき、薩摩川内市の西方・水引・湯田のあたり)に広がり、それぞれの地名をとって入来院氏・祁答院氏・鶴田氏・東郷氏・高城氏を名乗っていた。応安年間(1368年~1375年)より入来院氏・祁答院氏・東郷氏の4氏は島津氏と対立しており、とくに渋谷重頼(入来院重頼)は今川貞世今川了俊)の与党として反島津の中心となっていた。

応永2年(1395年)8月10日
島津伊久は渋谷氏攻めの兵を出す。横峯(薩摩川内市上川内)に進軍し、高城(たき)を攻めた。

応永2年(1395年)8月
今川貞世今川了俊)が幕府からの命で京に戻る。そして、九州探題を解任された。島津氏と今川氏の抗争は、あっけなく終わる。また、今川方として島津氏と対抗してきた渋谷重頼(入来院重頼)は後ろ盾を失った。

応永2年(1395年)8月16日
豊後の大友親世(おおともちかよ)は島津伊久に書を送り、「今川は博多からいなくなったぞ。千葉も少弐も菊池も狼狽してるぞ」と告げてきた。8月23日に島津伊久は大友親世に返書し、「今川の失脚をひそかに喜んでいる」と伝えている。

応永2年(1395年)8月28日
島津元久が渋谷氏攻めを決める。まずは新納氏・和泉氏(にいろ・いずみ、ともに島津氏庶流)を横峯につかわした。そして、「鹿児島から高城を攻めるのは容易ではない。だから、あなたたち(伊久の軍勢)は山田の高牧(薩摩川内市永利町)に軍を移してほしい。そうすれば、渋谷方も樋脇・前田・市比野(ひわき・まえだ・いちひの、いずれも薩摩川内市樋脇)の城を守り切れまい。そこで、われら(元久の軍勢)は鹿児島より吉田(鹿児島市吉田)・蒲生(姶良市蒲生)を経て清敷(清色)を目指す。これで挟み撃ちにしよう」と持ちかけた。

応永2年12月(1396年1月)
島津伊久が山田に軍を動かす。

応永3年(1396年)1月
島津伊久軍が1月11日に樋脇城を落とす。13日には前田城、19日には市比野城も落城させた。

鹿児島の城跡

樋脇城跡

鹿児島の城跡

前田城跡

鹿児島の城跡

市比野城跡

 

応永3年(1396年)2月18日
島津伊久が伊作久義(いざくひさよし、島津氏庶流)・二階堂行貞(にかいどうゆきさだ)に書をおくり、渋谷氏の旧領を与えた(与える約束か)。伊作氏と二階堂氏はともに薩摩国南部に勢力を持つ。

応永3年(1396年)4月19日
新たに九州探題に任命された渋川満頼(しぶかわみつより)が博多に入った。島津元久・島津伊久・大友氏・少弐氏および九州の御家人・地頭に教書を出し、博多に会するよう命じた。島津伊久は清敷(清色)を攻めようとしていたが、教書があったことでいったん兵を退いた。

応永4年(1397年)4月
島津元久は名代として弟の島津久豊(ひさとよ、のちに島津宗家8代当主)を博多へつかわす。島津伊久は名代として次男の島津忠朝(ただとも)を博多につかわした。久豊・忠朝は阿久根から船で向かい、4月20日に渋川満頼に面会した。

この頃には、島津氏は幕府に恭順していたと思われる

応永4年(1397年)日付けなし
島津元久が5000余騎を率いて清色城(清敷城)を囲んだ。島津伊久の軍勢2000余騎も合流した。島津元久・島津伊久・伊集院頼久(よりひさ、久氏の子)のいる本隊は野頸(のくび、薩摩川内市樋脇町倉野)に陣取り、本田忠親の部隊(杉一揆)が満手野(みつての、樋脇町塔之原)に、新納実久の部隊(月一揆)が寿昌寺(じゅしょうじょう、清色城の北にある寺院)、島津守久・伊作久義の軍勢が黒瀬・木場(清色城の西側)から攻めた。清色城は食糧が尽きて和議を求める。島津軍はこれを許し、包囲を解いた。城主は城を棄てて逃亡する。

鹿児島の城跡

清色城の堀切

鹿児島の城跡

清色城の本丸跡

 

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反島津の中心であった渋谷重頼(入来院重頼)が降り、これにて南九州での南北朝争乱は終わった。しかし、戦乱がおさまるのかというと、そんなことはないのである。

 

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<参考資料>
『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『山田聖栄自記』
編/鹿児島県立図書館 1967年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『室町期島津氏領国の政治構造』
著/新名一仁 出版/戎光祥出版 2015年

鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年

入来町誌 上巻』
編/入来町誌編纂委員会 発行/入来町 1964年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか