ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

清色城跡にのぼってみた

鹿児島県薩摩川内市入来(いりき)にある清色城(きよしきじょう)跡にのぼってみた。訪問日は2021年2月某日。清色城は国の史跡にも指定されているため整備も行き届いている。また、山城の麓の集落(入来麓武家屋敷群、いりきふもとぶけやしきぐん)は、昔ながらの街並みがよく残る。国の「重要伝統的建造物群保存地区」にも選定されている。

 

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入来麓には観光用の広い駐車場があり、車をここに置いて散策へ。駐車場に隣接して観光案内所もあるので、まずはこちらで情報収集するべし。清色城跡の散策ガイドも入手して、いざ出陣!

 

いきなり堀切

清色城は広大な山城である。面積は約25haと推測される。『三国名勝図絵』にも「二十五町」とある(1町はほぼ1ha)。火山由来のシラス台地の自然地形を利用している。曲輪が連なり、本丸・西之城(にしのじょう)・松尾城(まつおじょう)・中之城(なかのじょう)・求聞持城(ぐもんじじょう)・物見之段(ものみのだん)などの名が伝わっている。

築城年代は不明だが、14世紀頃と推測される。慶長20年(1615年)の一国一城令により廃城となり、現在にいたる。

鹿児島の城跡

小学校入口に「清色城跡」の碑

入来麓の玉石垣の道を歩いていくと入来小学校がある。その入口の標柱には「史跡 清色城跡」の文字。いかにも城っぽい雰囲気で、いい感じの石段もある。「ここが清色城かあ」と思われがちだが、正確に言うなら「清色城の麓の居館跡」なのだ。清色城跡は小学校の裏手の山である。

清色城跡へは小学校入口を正面に見て右側(北側)からも左側(南側)からも行ける。観光案内所の方によると「北側登山口からのほうが回りやすい」ってことだったので、こっちの入口を目指す。

鹿児島の城跡

清色城跡の登山口

しばらく歩いて、小学校の裏手へ。城の入口が見えてきた。この先に登山口がある。足を進めると、なんだかすごい堀切が視界に飛び込んでくるのだ。思いっ切り掘り込んであって、左右の壁はかなりの高さだ。

鹿児島の城跡

清色城跡の堀切

 

堀切を抜けると少し広い場所に出る。城を守る際には、ここに兵を置いて待ち構えたのだろうか。

鹿児島の城跡

堀切を内側から見る

 

入口近くの分かれ道からまずは右方向へ。松尾城に登る。曲輪はなかなかの広さだ。

鹿児島の城跡

松尾城

 

入口方面に戻って、今度は奥方向の山道へ。しばらく進むと本丸跡方面へ向かう階段がある。本丸跡・中之城跡・求聞持城跡・物見之段跡の案内看板もある。西之城跡については案内がなかったが、地図を見ると中之城跡の近くだと思われる。

鹿児島の城跡

山道、清色城本丸跡へ

鹿児島の城跡

道中にて。空堀か?

 

階段を登って本丸跡へ。これまた広い。本丸跡には古い祠もあった。『入来町誌』によると「城荒神」なんだそうだ。石塔には「寛政元年(1789年)」と刻印されている。

鹿児島の城跡

清色城の本丸跡

本丸跡から山道をぬって中之城跡へ。

鹿児島の城跡

中之城跡

続いては求聞持城跡へ。曲輪に出た。

鹿児島の城跡

求聞持城跡

求聞持城跡から物見之段へ向かう。その途中……案内板はあるけれど、道がない。下を見ると、ほぼほぼ崖である。太いロープが垂れ下がっているので、これを伝って下りる。

鹿児島の城跡

道が見当たらない、ロープがある(写真右側) 

鹿児島の城跡

下から見上げると、こんな感じ

 

なんとか物見之段に到着。その名のとおり、物見の場所だったのだろう。ほかの曲輪よりも、城下の様子がよく見える。

鹿児島の城跡

物見之段跡

物見之段からくだっていくと小学校の裏手へ。そのまま道を歩いていくと、学校の入口に出る。

鹿児島の城跡

清色城跡をひとまわりして下山

所要時間は、写真を撮りつつで1時間ほどだった。

 
入来の歴史、渋谷氏下向まで

薩摩川内市入来町樋脇町の一帯は、かつて「入来院(いりきいん)」と呼ばれていた。

鎌倉時代以前は、郡司として大前(おおくま、おおさき)氏や大蔵(おおくら)氏が治めていたと考えられている。ちなみに、建久8年(1197年)の薩摩国の図田帳によると、幕府に任命された地頭は「千葉介」、在来領主である郡司に「在庁種明」と「在庁道友」の名が記されている。千葉介は鎌倉武士の千葉常胤(ちばつねたね)のことで、在庁種明は大蔵氏、在庁道友は大前氏である。

なお、「在庁」というのは国司としての官職を持つ「在庁官人」を意味し、大きな力を持っていたことがうかがえる。

 

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千葉氏は入来院・祁答院(けどういん、現在の薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)・東郷別府(とうごうべっぷ、薩摩川内市東郷)・高城(たき、薩摩川内市の西部)の地頭となった。所領は薩摩国北部のかなり広い範囲であった。

千葉氏は下総国千葉郡千葉荘(ちばのしょう、現在の千葉県千葉市)を本拠地とする一族で、桓武平氏良文流を称する。12世紀末頃の源平争乱では千葉常胤らが源氏に従って転戦して活躍。鎌倉幕府の有力御家人としての地位を確立した。千葉氏の所領はあちこちにあり、薩摩国の地頭にも任じられた。

しかし、宝治元年(1247年)の三浦(みうら)氏と北条(ほうじょう)氏の争い(宝治合戦)で、一族の千葉秀胤(ひでたね、常胤の曾孫)が縁戚の三浦氏とともに討たれる。その後、千葉氏は薩摩国の所領を没収された。

千葉氏の旧領の地頭職は、宝治合戦で北条氏に従って活躍した渋谷光重(しぶやみつしげ)に与えられた。渋谷氏は相模国高座郡渋谷荘(しぶやのしょう、現在の神奈川県藤沢市綾瀬市のあたり)を本貫とし、桓武平氏秩父氏の支族である。

渋谷光重は長男に相模国の本貫地を相続させ、次男家・三男家・四男家・五男家・六男家に薩摩の所領を任せた。次男家以下は家臣団を引き連れて薩摩に下向し、領地を分割して相続した。この大移動は在来勢力を抑えるためであったのだろう。それぞれの任地から東郷氏・祁答院氏・鶴田(つるだ)氏・入来院氏・高城氏を名乗るようになった。

 

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入来院氏の歴史

入来院氏は渋谷光重の五男・渋谷定心(じょうしん、曽司五郎定心)より始まる。

薩摩藩編纂の地誌『三国名勝図絵』には、「寶治二年(1248年)の春、初めて入部して、此清色城を治所とし、其の家累世居城せり、因て入来院、若しくは清色を家號とす」と記されている。また、入来院氏は寺尾氏・山口氏・岡元氏・村尾氏など支族も多い。

なお、下向の時期については宝治元年(1247年)説もあるようだ。清色城の築城年代についてはわかっていないが、南北朝時代にはあったと見られている。

南北朝争乱期以降、薩摩国内は乱れまくりであった。入来院氏も周辺の領主たちとの争いが絶えず、渋谷一族内でも敵と味方にわかれて戦ったりもした。入来院氏の戦いの記録を拾ってみる。南北朝並立期の年号は両朝のものを併記する。

元弘3年・正慶2年(1333年)、鎌倉幕府が滅亡する。入来院氏は倒幕方につき、一族の岡元典重が鎮西探題(幕府の九州統治の拠点、現在の福岡市)攻めに参加したようだ。入来院重基・重勝(入来院氏4代・5代)、庶流の岡元氏・寺尾氏・村尾氏らが本領安堵の綸旨を受ける。

南北朝争乱期の入来院氏は南朝についたり北朝についたり。暦応2年・延元4年(1339年)、入来院氏は南朝方として島津氏本拠地・碇山城(いかりやまじょう、現在の薩摩川内市天辰町)攻撃に参加している。貞和3年・正平2年(1348年)の東福寺城の戦いでは北朝方にあり、一族の岡元重興・寺尾重名が島津氏のもとで東福寺城を守っている。

 

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観応の擾乱(1350年~1352年頃、足利氏の内部抗争)においては、入来院氏は足利直冬(あしかがただふゆ、足利尊氏の庶長子だが、足利直義の養子)に応じたと見られる。直冬より感状や所領安堵を得ている。

入来院氏は島津氏と敵対するようになる。応安5年・文中元年(1372年)、南朝方にあった入来院氏が北朝方(幕府方)の島津氏を攻める。入来院重門(入来院氏6代)は峰ヶ城(薩摩川内市高江)の戦いで戦死する。

応安6年・文中2年(1372年)、入来院重頼(7代、重門の子)は九州探題今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊)に応じて北朝方(幕府方)につく。一方、島津氏は天授元年・永和元年(1375年)に南朝方に転じて、入来院氏とはまたも対立関係に。今川貞世今川了俊)に従って、島津氏と戦いを重ねた。

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南北朝合一が成り、今川貞世九州探題を罷免されて去ったあとも、入来院重頼は島津氏と抗争を続けた。応永2年(1395年)、島津伊久(しまづこれひさ、総州家2代当主)・島津元久(もとひさ、島津家7代当主・奥州家2代当主)が入来院氏を攻めた。応永4年に清色城は落ち、入来院重頼は城を棄てて逃げた。清色城には伊集院頼久(いじゅういんよりひさ、島津氏支族)が入った。

 

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応永7年(1400年)頃になると、今度は島津氏の中で対立が表面化。総州家と奥州家が主導権をめぐって争うようになる。渋谷一族のうち入来院氏・祁答院氏・高城氏・東郷氏は総州家側につき、応永8年(1401年)には奥州家方の鶴田氏を攻撃した(鶴田合戦)。この戦いで鶴田氏は所領を失い、没落する。

 

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鶴田合戦以降は、奥州家が優勢になっていく。その中で、渋谷一族は奥州家方に転じたようだ。応永16年(1409年)に島津元久薩摩国守護にも任じられ、島津宗家の地位は奥州家に統一された。

応永17年(1410年)に渋谷一族は総州家と結託して反乱を起こす。応永18年(1411年)、入来院重頼は清色城(伊集院頼久が居城としていた)を落とす。かつての本拠地を奪還した。

応永18年に島津元久は陣中で病を発し、しばらくのちに逝去。奥州家では後継争いが起こる。後継者とされていたのは伊集院初犬千代丸(伊集院煕久、いじゅういんひろひさ、伊集院頼久の子、島津元久の甥)だったが、元久の弟である島津久豊(ひさとよ)がこれを阻んで強引に家督を相続した(8代当主に)。伊集院頼久は総州家と連携して奥州家に戦をしかけ(伊集院頼久の乱)、この混乱の中で総州家も勢いを盛り返す。この頃、渋谷一族は総州家に協力した。

 

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応永24年(1417年)に島津久豊(奥州家)は島津久世(しまづひさよ、総州家4代)を謀殺し、総州家は勢いを失う。伊集院氏とも和解し、伊集院頼久の乱も終結した。この頃には、渋谷一族も奥州家に転じる。応永28年には入来院重長(入来院氏8代)が総州家の永利城(ながとしじょう、薩摩川内市永利)を攻撃している。

 

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島津忠国(ただくに、9代当主)は、永享3年(1430年)に島津久林(ひさもり、総州家5代)を攻めて自害させる。これで総州家が滅亡した。一方で、永享5年(1432年)に薩摩国内で国一揆が勃発。反乱は伊集院煕久を中心とし、入来院重豊(10代当主)をはじめとする渋谷一族も加わった。

島津忠国国一揆の鎮圧に失敗。弟の島津用久(もちひさ、名は「好久」「持久」とも、薩州島津家の祖)を守護代に任じて鎮圧にあたらせた。永享8年(1435年)に用久は伊集院氏を降伏させ、渋谷一族も破り、反乱は沈静化する。しかし、島津家中で用久の力が強くなってしまい、今度は忠国と用久が対立。守護職の座を巡って兄弟で争い、再び内乱状態に突入した。文安5年(1448年)に忠国と用久が和解し、しばらくして一連の争乱も終息した。入来院氏も島津氏に帰順した、とりあえずは。

 

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15世紀半ば頃から、島津氏内でまたも争いが起こる。若くして10代当主となった島津忠昌の実権は弱く、分家が台頭してくる。文明8年(1476年)には島津国久(くにひさ、島津用久の子、薩州家)や島津季久(すえひさ、島津久豊の三男、豊州家)、島津友久(ともひさ、島津忠国の庶長子、相州家)が反乱を起こす。文明16年(1484年)に伊作久逸(いざくひさやす、「島津久逸」とも、島津忠国の三男で、伊作家に養子に入っていた)と島津忠廉(ただかど、豊州家2代)も反乱を起こす。入来院重豊もこれらの反乱に呼応した。

 

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島津忠昌は内乱鎮圧に明け暮れ、領内運営がうまくいかないことに悩んだのか自殺してしまう。その後、家督を継いだ12代・島津忠治(ただはる、忠昌の長男)は若くして死に、そのあとを継いだ13代・島津忠隆(ただたか、忠昌の次男)もまた若くして死ぬ。そして、永正16年(1519年)に14代・島津忠兼(ただかね、のちに「勝久」と改名、忠昌の三男)が家督を継ぐが、島津宗家はすっかり弱体化していた。

16世紀前半は薩州家の島津実久(さねひさ)と相州家を相続した島津忠良(しまづただよし、伊作久逸の孫)・島津貴久(忠良の子、本家を相続して15代当主になる)が争った。守護職を渡すまいとする島津勝久も対抗する。

 

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入来院重聡(しげさと、入来院氏11代)は初め島津宗家の忠昌・忠治・忠隆・忠兼(勝久)に仕えたのち、相州家・伊作家に味方する。さらに重聡は娘(雪窓夫人、雪窓院)を貴久に嫁がせた。雪窓夫人は島津義久(よしひさ、16代当主)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)の母である。

 

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入来院重朝(しげとも、重聡の子、12代)も島津貴久の薩摩平定を助けたが、のちに離反する。大隅合戦(1554年~1557年、戦場となったのは現在の鹿児島県姶良市)では、蒲生範清(かもうのりきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)・菱刈重豊(ひしかりしげとよ)らとともに島津氏と戦った。

 

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入来院重嗣(しげつぐ、重朝の子、13代)は永禄12年(1569年)は島津義久に降伏。多くの所領を失うが、本拠地の入来院は安堵された。

入来院重豊 (しげとよ、重嗣の子、14代)も島津義久に従った。天正6年(1578年)の耳川の戦い(島津氏と大友氏の決戦)など、島津氏家臣として各地を転戦した。

入来院重豊は天正11年(1583年)に亡くなるが、子がなかったために島津以久(もちひさ、島津義久の従兄弟)の次男を養子にむかえて家督を継がせた。入来院重時(しげとき、15代)と名乗る。入来院重豊の妻は以久の妹で、それが縁となっているものと思われる。

重時は島津歳久に従って豊臣氏との戦いに参加したほか、島津義弘に従って朝鮮にも渡った。関ケ原の合戦にも参加し、撤退の際に討ち死にした。

重時に男児がなかったために、島津義虎(よしとら、薩州家)五男の島津忠富を養子にむかえた。家督を継いで、入来院重高(しげたか、16代)と名乗る。

ちなみに、重高の母は島津義久の娘であり、雪窓夫人(入来院重聡の娘、義久・義弘・歳久の母)から入来院の血を受け継いでいる。また、重時は島津歳久の娘を妻としていて、娘がいた。この娘を重高の妻とした。

こういった経緯もあって、入来院氏は島津氏の一門として遇されるようになった。

入来院氏は大隅国菱刈郡湯之尾(現在の伊佐市菱刈)に所領替えとなった時期もあったが、のちに入来院の地頭に復帰。その後は、明治維新までこの地の領主であり続けた。

 


<参考資料>

『新薩摩学 中世薩摩の雄 渋谷氏』
編/小島摩文 発行/南方新社 2011年

『入来文書』
著/朝河貫一 訳/矢吹晋 発行/柏書房 2005年

『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

入来町誌 上巻』
編/入来町誌編纂委員会 発行/入来町 1964年

『宮之城町史』
著/宮之城町史編纂委員会 発行/宮之城町 2000年

祁答院町史』
編/祁答院町誌編さん委員会 発行/祁答院町 1985年

ほか