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南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(6)今川了俊がやってきた

足利尊氏(あしかがたかうじ)と足利直義(ただよし)が争った「観応の擾乱」(1350年~1352年)が収束したあと、全国的には北朝方(幕府方)が南朝方を圧倒しつつあった。しかし、九州では事情が違っていた。

 

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守護家である少弐(しょうに)氏・大友(おおとも)氏・島津(しまづ)氏は幕府と距離を置くようになり、一時は南朝方についたりもした。幕府方の九州攻略は難航する。延文3年・正平13年(1358年)に九州探題・一色(いっしき)氏は九州から追い出され、南九州方面の大将である畠山(はたけやま)氏も敗走する。南朝方が九州をほぼ制圧した。

 

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だが、これで決着! とはいかず。その後も戦乱はおさまらないのである。

『島津国史』(19世紀初め頃に鹿児島藩(薩摩藩)が編纂した正史)の記述をもとに南九州の動きを追っていく。今回は延文3年・正平13年(1358年)から。元号については北朝と南朝のものを併記。日付は旧暦で記す。

 

 

 

 

 

九州の有力者たち

南朝方は征西大将軍・懐良親王(かねよししんのう、かねばがしんのう、後醍醐天皇の皇子)を旗頭に、菊池武光(きくちたけみつ、菊池氏15代)が中心となって九州制圧を進める。菊池武光は戦上手で、破竹の勢いで敵をくだしていく。

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(3) 懐良親王が薩摩へ

 

少弐氏・大友氏・島津氏の動きも戦況を左右する。南朝方の攻勢にさらされながら少弐氏は一色氏と対立。島津氏は畠山氏と対立。南朝にくだって敵対勢力と戦ったりもした。

少弐氏・大友氏・島津氏および菊池氏について、ちょっとおさらいしておく。

 

少弐氏

武藤資頼(むとうすけのり)が源頼朝(みなもとのよりとも)に仕え、建久年間(1190年~1199年)に鎮西奉行に任じられて九州に派遣されたのがはじまり。武藤氏は武蔵国(現在の東京都・埼玉県)に知行を得た藤原氏の一族とされる。藤原道長(ふじわらのみちなが)の後裔とも、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の後裔とも。武藤資頼は鎌倉幕府より肥前国・筑前国・豊前国・壱岐国・対馬国の守護に補任された(支配域は現在の福岡県・佐賀県・長崎県)。さらに朝廷より大宰少弐(大宰府の次官)にも任じられ、名乗りもこれに由来する。

元軍が襲来した文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)では領内が主戦場となり、少弐氏は日本軍の先頭に立って奮闘した。

元弘3年・正慶2年(1333年)、5代・少弐貞経(しょうにさだつね)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の倒幕運動に参加し、島津氏・大友氏とともに鎮西探題を陥落させた。建武の新政が崩壊したあとは、九州に逃れた足利尊氏を支援。その後、少弐貞経は菊池氏との戦いで戦死する。

父のあとをついだ少弐頼尚(よりなお、よりひさ)は引き続き足利尊氏に協力し、多々良浜(福岡市東区)での勝利に貢献する。少弐氏は足利政権からも重く用いられるが、幕府が派遣した九州探題の一色範氏(いっしきのりうじ)・一色直氏(ただうじ、なおうじ)と対立するようになった。

観応の擾乱では、九州に落ちてきた足利直冬(ただふゆ、尊氏の庶長子、直義の養子)を支援し、一色氏と戦った。少弐頼尚は直冬に娘を嫁がせてもいる。足利直冬が勢力を失うとともに少弐氏の立場も悪くなるが、南朝方に転じる。宿敵でもあった菊池氏とも協力し、ついには一色氏を九州から追い出した。

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(1) 倒幕と建武政権崩壊

 

 

大友氏

源頼朝に仕えた大友能直(おおともよしなお)が、武藤資頼とともに鎮西奉行に任命されて九州に派遣されたのがはじまり。豊前国・豊後国(現在の大分県と福岡県の一部)の守護にも補任された。名乗りは相模国足柄上郡大友郷(神奈川県小田原市大友)に所領があったことに由来するという。大友能直の出自は諸説あり、源頼朝の落胤説もあったりする。近藤氏の出身と見られ、のちに中原親能(なかはらのちかよし)の養子となったという。ちなみに、近藤氏は少弐氏(武藤氏)と同族ともされる。

6代・大友貞宗(さだむね)は後醍醐天皇の倒幕運動に参加し、鎮西探題を攻めた。貞宗急死のあとは大友氏泰(うじやす、7代)が若年ながら惣領となった。建武政権崩壊後に九州に落ちた足利尊氏は氏泰・氏時(うじとき、8代)兄弟に「氏」の字と源姓を与えている。

南北朝の争乱では大友氏時は幕府方にあった。南朝方に降伏した時期もあるが、のちに幕府方に復帰する。

やや時代が下って、応安元年・正平23年(1368年)に氏時が亡くなると、家督をついだ大友氏継(うじつぐ、9代)は南朝方に転じる。その一方で、大友親世(ちかよ、10代、氏継の弟)は幕府方(北朝方)に残り、こちらが当主となる。兄弟で両勢力に分かれた。

 

 

島津氏

源頼朝に仕えた惟宗忠久(これむねのただひさ)が薩摩国・大隅国・日向国(3国の範囲は鹿児島県と宮崎県)の守護職に補任されたことにはじまる。3ヶ国にまたがる広大な荘園「島津荘(しまづのしょう)」にちなんで、島津氏を称した。源頼朝の御落胤という説もあるが、秦氏後裔の惟宗氏というのが通説。惟宗氏は摂関家の藤原北家・近衛家に仕えていた。

鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱にかけては、5代・島津貞久(しまづさだひさ)が活躍。難しい状況の中で、幕府方として働き、ときには南朝に転じたりしながら、うまく立ちまわった。島津貞久の後継者は三男・島津師久(しまづもろひさ)と四男・島津氏久(うじひさ)。島津師久は薩摩国の攻略を、島津氏久は大隅国の攻略をまかされた。

幕府は南九州の大将として畠山直顕(はたけやまただあき)を派遣する。当初は、島津氏と畠山氏は協力して南朝勢力と戦ったが、畠山氏の勢力が大隅まで広がってくると、両者は対立するようになる。そして、観応の擾乱の頃から抗争に発展する。畠山氏を倒すために南朝にくだり、延文3年・正平13年(1358年)頃には畠山勢を大隅から追い出す。

山城の麓に中世の風情を残した街並み

島津氏久の本拠地、志布志内城(背後の山)

古墳から山城跡を見る

碇山城跡、島津師久の本拠地

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菊池氏

11世紀頃に肥後国菊地郡(現在の熊本県菊池市)に土着した菊池則隆(きくちのりたか、藤原則隆)を祖とする。菊池則隆は、刀伊の入寇で活躍した大宰権帥(だざいごんのそつ)の藤原隆家(ふじわらのたかいえ)の後裔を称する。大宰少弐の藤原政則(ふじわらのまさのり)の子という説もある。

源平争乱期には平家方として戦う。のちに源氏方に寝返って鎌倉御家人となるが、幕府は九州に守護として送り込んだ少弐氏・大友氏・島津氏を優遇した。また、承久の乱(1221年)では敗れた後鳥羽上皇方につき、戦後は所領を大幅に削られてしまう。菊地氏にとっては不遇な時代であった。

元弘3年・正慶2年(1333年)、12代・菊地武時(きくちたけとき)は後醍醐天皇の倒幕の綸旨を受けると、挙兵して鎮西探題を襲撃した。しかし、反乱は失敗し、菊地武時も討ち死にする。倒幕後に建武政権が発足すると、後醍醐天皇は武時の武功を称して、子の菊池武重(きくちたけしげ)を肥後守(ひごのかみ)に任命した。南北朝分裂後は菊池氏は一貫して南朝方にあり、九州南朝勢の中心的な存在となっていく。

貞和4年・正平3年(1348年)には、15代・菊池武光が懐良親王を本拠地の隈府城に迎え入れた。幕府方の内部分裂で敵方が浮き足だつ中で攻勢に出る。南朝方は勢いを増し、幕府方を打ち負かしていった。大宰府を奪って九州探題を追い出し、菊池武光は九州南朝方の最盛期をつくり上げた。

 

 

足利尊氏逝く、島津貞久逝く

延文3年・正平13年(1358年)4月29日
征夷大将軍の足利尊氏が逝去。足利義詮(あしかがよしあきら)があとをつぎ、同年12月に征夷大将軍に任命される。

延文4年・正平14年(1359年)頃
少弐頼尚が幕府方(北朝方)に転じる。少弐氏は南朝方に帰順して九州探題の一色氏を倒したが、共通の敵がいなくなるとその協力関係は崩れた。大友氏時も幕府方(北朝方)に復帰した。

 
延文4年・正平14年(1359年)7月19日~8月
筑後国大原(現在の福岡県小郡市)で、菊池武光が率いる南朝方と少弐頼尚・大友氏時らの幕府方が合戦に及ぶ(筑後川の戦い、大保原の戦い、大原合戦)。島津氏は南朝方で参戦した。大激戦の末に南朝方が勝利。南朝側も被害が大きく、死傷者は多数。懐良親王や菊池武光も負傷した。

延文4年・正平14年(1359年)10月5日
肥後国球磨郡(現在の熊本県人吉市のあたり)の相良定頼(さがらさだより、幕府方)が日向国諸県郡庄内(しょうない、宮崎県都城市)を奪ったので、島津氏久がこれを撃つために出陣。大隅国曽於郡末吉の国合原(くにあいばる、鹿児島県曽於市末吉町二之方・南之郷)で相良軍と戦った(国合原の戦い)。相良定頼には再起をかける畠山直顕が協力していたとも。島津軍は敗れ、佐多忠直(さたただなお、島津氏庶流の佐多氏2代目、氏久の従兄弟にあたる)らが戦死している。

 

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島津氏久は手取城(てどりじょう、曽於市大隅町中之内)の岩川氏に救援を求めたが断られた。また、日向国諸県郡の蓬原城(ふつはらじょう、鹿児島県志布志市有明町蓬原)の救仁郷氏にも援助を求めたが応じず。島津氏久は鹿児島に退いて軍を立て直し、再出征すると手取城と蓬原城を攻め落としている。

 

延文5年・正平15年(1360年)日付なし
幕府から島津氏久に帰順を命じる教書がもたらされ、これに応じる。島津氏久は延文5年2月に書状で北朝年号を使用していて、この頃に幕府方(北朝方)に転じていたと見られる。

延文5年・正平15年(1360年)6月13日
畠山直顕が島津氏久に書状を送る。「幕府に戻ったと聞いている。これまでのことは水に流して、ともに戦おう」といった内容だったという。

 

康安元年・正平16年(1361年)8月
南朝方が制圧した大宰府(福岡県太宰府市)に懐良親王が入る。征西府を大宰府に移した。

康安元年・正平16年(1361年)日付なし
幕府より新たに九州探題に任命された斯波氏経(しばうじつね、足利一門)が、豊後国(現在の大分県)の大友氏時を頼って九州に入る。高崎城(たかさきじょう、場所は大分市神崎)を九州北朝方の拠点とした。

康安元年・正平16年(1361年)9月20日
斯波氏経は子の松王丸を大将として兵を出す。筑前国の長者原(ちょうじゃばる、福岡県糟屋郡粕屋町)で菊地武光と戦って、幕府方は敗れる(長者原の戦い、長者原合戦)。なお『太平記』では長者原合戦を康安2年・正平17年(1362年)の出来事としている。

康安元年・正平16年(1361年)9月24日
島津師久は豊後の斯波氏・大友氏に援軍を出すために出征するが、肥後国で和泉政保(いずみまさやす)・牛屎高元(うしくそたかもと)・馬越行家や肥後葦北七浦党が行く手を阻んだ。島津軍の被害は大きく、島津師久は薩摩に引き返す。再出征のために薩摩国内で募兵を行うも応じる者が少なかった。和泉政保の蜂起により国中が争乱となり、戦いは3年にも及んだ。

和泉氏は薩摩国和泉郡(鹿児島県出水市)の国人、牛屎氏は薩摩国牛屎院(鹿児島県伊佐市大口)の国人である。馬越氏は大隅国菱刈郡(鹿児島県伊佐市菱刈)の菱刈(ひしかり)氏の一族か。葦北七浦は現在の熊本県葦北郡芦北町のあたり。

康安元年・正平16年(1361年)10月16日
斯波氏経は樺山資久(かばやますけひさ、島津貞久の弟、樺山氏初代)に書を送り、菊池武光を撃つために兵を出すよう要請した。

康安2年・正平17年(1362年)3月25日
斯波氏経が大隅小四郎に感状を出す。薩摩国の池部城の戦いでの功績を賞した。

大隅小四郎は、薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)の島津親忠(伊作親忠、いざくちかただ、通称は大隅宗四郎)のことだと思われる。池部城の戦いの詳細はわからず。阿多郡田布施池辺(南さつま市金峰)で戦いがあったようだ。

康安2年・正平17年(1362年)6月
島津貞久が幕府に申状を出す。九州探題・斯波氏経に薩摩・大隅の所領給付の権限が与えられたことへの抗議、島津領である讃岐国櫛無保(愛媛県仲多度郡琴平町上櫛無・下櫛無)を中国大将・細川頼之(ほそかわよりゆき、足利一門)が横領したことへの訴えであった。この中で、島津貞久は「薩摩・大隅・日向は、源頼朝公より島津に与えられたもの。この三州は島津の本貫地である」という主張をしている。

貞治2年・正平18年(1363年)4月10日
島津貞久が薩摩国守護職を島津師久に、大隅国守護職を島津氏久に譲る。分割して跡目を相続した。

貞治2年・正平18年(1363年)7月3日
島津貞久が逝去。95歳だった。墓所は薩摩国の五道院(ごどういん)。

鹿児島市清水町にある本立寺(ほんりゅうじ)跡が、五道院である。のちに「本立寺」と名称を改めている。ここには島津氏の初代から5代までの墓塔がある。

墓塔が5基並ぶ

五道院、向かって左端が島津貞久の墓塔

 

 

今川了俊が九州入り、南朝方を切り崩す

貞治3年・正平19年(1364年)2月1日
後村上天皇(ごむらかみてんのう)は渋谷重門(入来院重門、いりきいんしげかど)に綸旨を出し、南朝に帰順するよう求めた。

渋谷重門(入来院重門)は薩摩国北部に勢力を持つ渋谷一族のひとつ。入来院清色(いりきいんきよしき、現在の鹿児島県薩摩川内市入来)を本拠地とし、当時は渋谷氏の中でもっとも強勢であった。渋谷氏はもともとは相模国(神奈川県)の御家人で、13世紀中頃に薩摩国内に地頭職を得て下向した。南九州にしっかりと根を張っていた。

清色城の登山口

清色城跡、入来院氏の本拠地

「史跡清色城跡」の石柱と石段

清色城の麓に標柱

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貞治3年・正平19年(1364年)9月14日
後村上天皇は島津親忠(伊作親忠、いざくちかただ)を下野守に任じた。これは、南朝への帰順を申し出たことに対するものだという。

貞治4年・正平20年(1365年)閏9月17日
九州探題に任命された渋川義行(しぶかわよしゆき)より渋谷重門(入来院重門)に書が送られ、北朝方に誘う。なお、南朝方が強勢だったこともあり、渋川義行は九州に入れていない。

その後、渋谷重門(入来院重門)は南朝方につく。この頃から、入来院氏は反島津勢力の中心的な存在となっていく。

貞治5年・正平21年(1366年)3月5日
島津師久が嫡男の伊久(これひさ)に薩摩国守護職を譲る。

貞治5年・正平21年(1366年)4月16日
島津氏久が肥後国日之岡(熊本県山鹿市か)に七将を遣わし、菊池武光と戦わせる。七将のうち種子島頼時(たねがしまよりとき、種子島氏7代)が戦死。

貞治6年・正平22年12月7日(1369年1月)
征夷大将軍・足利義詮が逝去。

応安元年・正平23年12月(1369年1月)
足利義満(あしかがよしみつ、義詮の子)が征夷大将軍に任じられる。

応安4年・建徳2年(1371年)冬
九州探題・今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊)が九州に入り、南朝勢の攻略に動き出す。なお、前任の九州探題である渋川義行は九州に足を踏み入れられないまま病没。今川貞世はその後任に抜擢された。

応安5年・建徳3年(1372年)1月25日
今川貞世(今川了俊)が島津親忠(伊作親忠)に書をつかわし、幕府に協力するよう求めた。また、大隅国禰寝院(ねじめいん、鹿児島県肝属郡南大隅町禰寝)の禰寝氏にも帰順を呼びかける。

応安5年・文中元年(1372年)6月23日
南朝方の渋谷重門(入来院重門)が薩摩国薩摩郡高江(鹿児島県薩摩川内市高江町)の峯ヶ城(みねがじょう、峰ヶ城)を攻める。峯ヶ城は島津師久が築城したもので、山田忠房(やまだただふさ、島津氏庶流山田氏の一族)らが守っていた。渋谷重門(入来院重門)城攻めの際に石が直撃して戦死するが、渋谷一族の祁答院(けどういん)氏・東郷(とうごう)氏・高城(たき)氏の援軍もあって城は陥落する。この戦いで、山田忠房と守護代の酒匂氏が戦死する。

また、菱刈氏・牛屎氏・相良氏の連合軍が薩摩郡平佐の碇山城(いかりやまじょう、薩摩川内市天辰町)を囲む。碇山城は島津師久の本拠地である。島津師久は日向国救仁院志布志(鹿児島県志布志市志布志町)にあった島津氏久に救援を要請。島津氏久はすぐに鹿児島に入って、兵を集めた。そして、援軍を向かわせて敵軍を攻め、碇山城の囲みを解かせた。

山城跡の麓にある神社

碇山城、写真手前は保食神社と日枝神社

社殿脇に城址碑がある

碇山城跡碑

応安5年・建徳3年(1372年)8月
今川貞世が筑前国の大宰府(現在の福岡県太宰府市)を攻撃。ここには九州南朝方の本拠地である征西府が置かれていた。8月12日に大宰府は陥落し、懐良親王・菊池武光は筑後国の高良山(福岡県久留米市)に敗走する。北朝方が12年ぶりに大宰府を奪還した。これを機に、九州南朝方の勢いにかげりが見えはじめる。

応安5年・文中元年12月21日(1373年1月)
朝廷(南朝)は渋谷重頼(入来院重頼、しげより、重門の子)に恩賞を与えた。これは、戦死した渋谷重門(入来院重門)を賞してのこと。

同じ頃に今川貞世(今川了俊)は島津一族をはじめ、南九州の有力者たちに本領安堵・褒賞を出している。幕府方(北朝方)への懐柔に積極的だった。渋谷氏(入来院氏)へも同調を呼びかけている。

応安6年・文中2年(1373年)
幕府方(北朝方)は高良山の南朝軍を攻めるが、戦況は膠着する。この頃から、南朝軍をけん引してきた菊池武光の名が記録に出てこなくなる。高良山の戦いのさなかに死去した。その死は伏せられたようで、正確な時期はわかっていない(11月16日とも伝わる)。菊池武政(たけまさ、武光の子)が菊池氏の惣領となる。

文中3年・応安7年(1374年)
5月26日、菊池武政が病死。戦いで負った傷がもとになったとも。菊池氏の家督は幼少の菊池武朝(たけとも、武政の子)がつぐことになる。菊地武光・菊池武政を相次いで失ったことで、南朝は勢いを失った。9月17日に南朝軍は高良山の陣を解いて肥後国の隈府城に撤退した。

なお、この頃に懐良親王は征西大将軍の地位を後継者に譲っている。譲位時期は諸説あり。その後継者を「後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)」と呼んだりする。後征西将軍宮が誰なのか、じつははっきりしていない。良成親王(よしなりしんのう)だとするのが通説となっている。良成親王は後村上天皇の皇子とも、懐良親王の嫡子とも。

 

 

水島の変、島津氏久が今川より離反

永和元年・天授元年(1375年)7月12日
今川貞世(今川了俊)は隈府城を攻めるために進軍し、水島(熊本県菊池市七城町)に陣取った。総攻撃のために大友親世(おおともちかよ、豊後国守護)・少弐冬資(しょうにふゆすけ、筑前国守護)・島津氏久(大隅国守護)を招集。大友・島津はこれに応じたが、少弐冬資は来なかった。今川貞世(今川了俊)は島津氏久に参陣を催促させた。

少弐氏はもともと大宰少弐(大宰府の次官)を歴任した一族で、鎌倉幕府に従って守護として北部九州を支配した。最盛期には筑前・筑後・豊前・肥前・肥後・壱岐・対馬など複数の守護職を兼任していた。少弐氏は九州探題に力が大きくなることを嫌い、かつて一色氏と対立した。少弐頼尚(よりなお、冬資の父)は足利直冬に娘を嫁がせてこれと組んだり、南朝と協調したり、と幕府に反発した過去がある。今川貞世(今川了俊)が九州攻略を進展させる中で、少弐冬資も次第に対立の姿勢を見せつつあった。

永和元年・天授元年(1375年)8月26日
少弐冬資が水島に参陣する。島津氏久の説得を受け入れたのである。そして、事件が起こる。今川貞世(今川了俊)は酒宴を開き、なんとそこで少弐冬資を殺害した。その後、今川貞世(今川了俊)は「事の次第について話をしたい」と島津氏久を宿舎に招いた。家臣団が「危ないから」ととめたが、島津氏久は本田氏親(ほんだうじちか)・伊地知季弘(いじちすえひろ)ら数人の部下を連れておもむく。今川貞世(今川了俊)は「少弐冬資か南朝に通じていて、九州を乱すだろう。だから殺した」と島津氏久に説明した。島津氏久はこれを聞き、その場を立ち去った。

永和元年・天授元年(1375年)8月28日
今川貞世(今川了俊)は島津氏久に書をつかわし、筑後国守護にすると言ってくる。幕府方につなぎとめるために出してきたものだ。島津氏久は面目を潰され、怒りはおさまらない。今川貞世(今川了俊)に離反することを告げて帰国する。そして、南朝に転じた。

 

少弐氏も南朝に帰順し、大友親世も不信感を抱いて幕府方に従わなくなった。水島の変で今川貞世(今川了俊)は有力な味方を失った。菊池攻めも頓挫し、幕府方は兵を引くことになる。

幕府方の九州平定まであと少しのところだったのだが、島津氏と今川氏の対立でそうもいかなくなる。

……つづく。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『山田聖栄自記』
編/鹿児島県立図書館 1967年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年

『入来町誌 上巻』
編/入来町誌編纂委員会 発行/入来町 1964年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか