ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

『島津国史』に見る島津忠久の経歴

正史の島津忠久

鎌倉時代から近世まで薩摩国大隅国日向国(一部)を統治した島津家。その初代の島津忠久(しまづただひさ)の足跡を、『島津国史』に沿って見ていく。

『島津国史』は島津家の歴史をまとめたもので、19世紀初め頃に島津重豪(しまづしげひで、薩摩藩第8代藩主)が編纂させた。島津家の正史ともいえる存在だ。ただ、忠久の誕生伝説や薩摩下向の伝承など、史実かどうか疑問視されていることも含まれている。

※以下、日付は旧暦。※赤字は補足など。


治承3年(1179年)
摂津国の住吉社(住吉大社大阪市住吉区にある)で誕生。母は丹後局。父は源頼朝とする。住吉社をたまたま参詣した関白の藤原基通(ふじわらのもとみち、近衛基通)の庇護を受ける。誕生は源頼朝に報告され、「三郎」の名を頼朝から与えられる。しばらくして、丹後局は惟宗広言(これむねのひろこと、名の読みは「ひろとき」とも)に嫁ぐ。
この誕生エピソードの史実性は疑わしい。生年は1169年以前という説もある。実父は惟宗広言や惟宗忠康(これむねのただやす)など諸説あり。

 

元暦2年(1185年)3月24日 壇ノ浦の戦い平氏政権が滅ぶ。

 

元暦2年(1185年)6月15日
三郎が鎌倉へ。源頼朝と対面する。畠山重忠はやけやましげただ)を烏帽子親として元服し、「惟宗忠久(これむねのただひさ)」と名乗るようになる。
惟宗忠久伊勢国須可荘(すかのしょう、現在の三重県松阪市)・波出御厨(はたみくりや、現在の三重県津市一志町)の地頭職に補任される。
頼朝対面や元服については真偽不明。伊勢国波出御厨の地頭補任については源頼朝による下文(くだしぶみ)が『島津家文書』内に残っている。

 

文治元年(1185年、8月に改元)8月17日
惟宗忠久が島津荘(薩摩・大隅・日向の3ヶ国にまたがる、現在の鹿児島県・宮崎県南部)の下司職(げすしき)に任じられる。
源頼朝による下文が『島津家文書』にある。

 

文治2年(1186年)1月8日
惟宗忠久信濃国塩田荘(現在の長野県上田市)の地頭職に補任される。同じ頃に島津荘の惣地頭職(地頭を統括する)に任じられる。また、島津氏を名乗るようになったともしている。
源頼朝による下文が島津家文書』にある。4月3日(日付は旧暦)付の下文で、島津荘の地頭に補任されたことが記される。「島津」の名乗り時期は諸説あり。この記事では、ここから「島津忠久」の表記で統一する。

 

文治2年(1186年)8月2日
島津忠久が薩摩に下向。出水郡山門院の木牟礼城(きのむれじょう)に入る。
下向は史実ではないと見られている。実際には家来の本田貞親(ほんださだちか)らを遣わして実務を行わせたようだ。木牟礼城跡は鹿児島県出水市高尾野にあり、現在は一部が残る。

 

鹿児島の城跡

木牟礼城跡

 

文治3年(1187年)9月9日
島津忠久薩摩国大隅国日向国守護職に補任される。
『島津国史』ではそう書かれている。源頼朝による下文(『島津家文書』にある)では、押領使に任じられている。

 

文治5年(1189年)
島津忠久が奥州征伐に従軍。
戦後に若狭国(現在の福井県西部)守護に任じられ、島津忠季(しまづただすえ、忠久の弟)を守護代とする。
裏付ける史料はないようだ。ただし、若狭国守護の補任は史実。


建久8年12月3日(1197年)
島津忠久薩摩国大隅国の奉行人に任じられる。
ほとんどの資料が、この件をもって守護補任ととらえているようだ。


建久10年(1199年)1月13日
源頼朝が死去。子の源頼家(みなもとのよりいえ)が家督を相続。建仁2年(1202年)に征夷大将軍に任じられる。

 

建仁3年(1203年)8月
源頼家伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の修善寺に幽閉され、弟の千幡(せんまん)が後継者に立てられる。
『島津国史』では上記のとおり。源頼家が病のために嫡子の一幡(いちまん)に家督を相続しようとするが、弟の千幡にも分割相続されることになった。一幡の外祖父である比企能員(ひきよしかず)の権力拡大を恐れ、北条時政(ほうじょうときまさ、北条政子の父、頼家・千幡の外祖父)が強引に決めた。これに不満を持った比企能員北条時政の追討を企てる。そして、建仁3年9月2日に比企能員北条時政邸で謀殺される。比企一族は一幡の御所にたてこもるが、幕府の軍勢に攻め滅ぼされた。

 

建仁3年(1203年)9月4日
比企氏の謀反に連座して、島津忠久薩摩国大隅国日向国守護職を罷免される。忠久は比企能員の甥とされる。9月2日の変事の際には、忠久はたまたま薩摩にいた。大隅国の台明寺(だいみょうじ、現在の霧島市国分にあった)の紛争解決のためであった。その後の無事を祈願する願文を台明寺に収めている。
『島津国史』によると忠久の母・丹後局比企能員の妹とされている。血縁関係の史実性はわからないが、比企氏と何かしらの縁はあったと考えられる。忠久は大隅から鎌倉には戻らず、しばらく京にあったという。


建仁3年(1203年)9月7日
千幡が元服して源実朝(みなもとのさねとも)と名乗る。征夷大将軍に任じられる。

 

建仁3年(1203年)9月10日
島津忠久が守護に復す。
『島津国史』ではそう書いてある。薩摩国守護には比較的短期間で復帰できたと見られるが、正確な時期はよくわかっていない。守護職復帰は薩摩国のみで、大隅国守護と日向国守護は北条氏のものとなった。


元久元年(1204年)7月18日
伊豆修善寺に幽閉されていた源頼家が討たれる。


建保元年(1213年)
執権の北条義時(ほうじょうよしとき)に従って、和田義盛(わだよしもり)反乱の鎮圧に参陣。その戦功により、甲斐国波加利新荘(はかりしんしょう、現在の山梨県の東南部のあたりか)の地頭職に補任される。


建保6年(1218年)
島津忠久薩摩国満家院厚地村(現在の鹿児島市郡山)に花尾権現社(はなおごんげんしゃ、花尾神社)を創建。
創建についての真偽は不明。祭神は源頼朝丹後局


建保7年(1219年)1月27日
源実朝が暗殺される。幕府は藤原頼経(ふじわらのよりつね、当時2歳)を鎌倉に迎えて征夷大将軍とした。

 

承久3年(1221年)5月
島津忠久信濃国太田荘(現在の長野県長野市)の地頭職に補任される。

 

承久3年(1221年)6月
島津忠久が幕府方で承久合戦に参加。島津忠時(しまづただとき、忠久の嫡子、初名は忠義)・島津忠康(ただやす、忠時の長子)、島津忠季(ただすえ、津々見忠季とも名乗る、若狭国守護)も従軍。忠康と忠季は戦死した。またこの頃に、島津氏の本性を「惟宗氏」から「藤原氏」に改めた。

 

承久3年(1221年)7月12日
島津忠久越前国(現在の福井県東部)守護に任じられる。息子の島津忠綱(しまづただつな、忠時の弟)を守護代として、現地を治めさせる。
忠綱が越前島津家の祖となる。

 

承久3年(1221年)8月25日
島津忠時が越前国生部荘(現在の福井県福井市生部町のあたり)・久安保重富(場所の詳細は不明)の地頭職に補任される。

承久3年(1221年)10月15日
島津忠時が伊賀国長田郷(現在の三重県伊賀市)の地頭職に補任される。

 

貞応2年(1223年)6月6日
島津忠時が近江国興福寺荘(現在の滋賀県興福寺領のことか)の地頭職に補任される。

 

元仁元年(1224年)9月7日
島津忠時が讃岐国櫛無保(現在の香川県善通寺市のあたりか)の地頭職に補任される。

 

嘉禄元年(1225年)7月3日
島津忠時が信濃国津乃郷(現在の長野県、場所の詳細はわからない)地頭代職に補任される。

 

嘉禄3年(1227年)6月18日
島津忠久が鎌倉で逝去。墓所薩摩国の五道院。家督は嫡子の忠時が継ぐ。

 

鹿児島の史跡

本立寺(五道院)跡の島津氏5代の墓所

五道院(のちに本立寺と改称)は鹿児島市清水町にある。廃寺となって墓所のみが残る。5基の仏塔は島津氏初代~5代(忠久・忠時・久経・忠宗・貞久)の墓で、真ん中が忠久のもの。


島津忠久の生年について

『島津国史』にあるとおり島津忠久が治承3年(1179年)の生まれとするなら、5歳くらいで島津荘下司職に補任されたことになる。当時の南九州は平氏政権が倒れて混沌としており、相応の荘園経営手腕を要したはずである。すでにそれなりに経験を持った成人であったと考えるのが自然だろう。

実際は比企氏の縁を頼って源頼朝に仕えるようになったと考えられる。惟宗氏は摂関家である近衛家の家来筋でもあり、そういった面でも重宝されたのだろう。

 


島津忠久の下向について

出水郡山門院に下向した伝承については、可能性が低いとされている。裏付ける史料もない。島津忠久が薩摩大隅を訪れた確実な記録は、建仁3年(1203年)の大隅国台明寺に出向いた一度だけである。とはいえ、「記録がない=史実ではない」とするのは乱暴か。伝承のもととなった「何か」が、もしかしたらあるかもしれない。

通説では、忠久は鎌倉住まいで、領国経営は代官に任せていたと考えられる。ちなみに『島津国史』には薩摩下向の際に本田貞親(ほんださだちか)・鎌田政佐(かまだまさすけ)・酒匂景貞(さこうかげさだ)・猿渡実信(さるわたりさねのぶ)の名が出てくる。彼らがその代官だったと推測される。

木牟礼城には守護所を置いたとされ、ここを拠点に島津氏の南九州統治の基盤が築かれた。

鹿児島の城跡

木牟礼城跡の記念碑


出水市野田には栄西が開山したとされる感応寺があり、これは島津忠久(あるいは本田貞親という説も)が建立させたもの。島津氏の菩提寺で、島津氏初代~5代(忠久・忠時・久経・忠宗・貞久)の墓もある。

鹿児島の寺院

感応寺

 

『三国名勝図絵』では日向国島津院(現在の宮崎県都城市)に御所を構えたとも記されている。

 

<参考資料>
『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
※『島津家文書』などからの抜粋を収録

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか

 

 

rekishikomugae.net

 

rekishikomugae.net