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花尾神社【前編】 源頼朝と丹後局を祭る、島津家ゆかりの地

花尾神社(はなおじんじゃ)は、鹿児島市花尾町に鎮座する。旧称は「花尾権現社」「花尾大権現社」。この地は、薩摩国満家院(みつえいん)の厚地(厚智、あつち)というところであった。

 

御祭神は源頼朝と丹後局(たんごのつぼね)。従祀神に永金(ようきん)、相殿祭神に清和天皇。建保6年(1218年)に島津忠久(しまづただひさ)が御堂を建て、源頼朝の尊像を安置したのが始まりとされる。

島津忠久は島津氏の初代である。丹後局はその母とされる。そして源頼朝の御落胤という伝承がある。つまり、花尾権現社(花尾神社)の御祭神は島津忠久の両親とされる人物なのである。

 

なお、日付は旧暦にて記す。

 

 

島津忠久は源頼朝の御落胤と伝わる

「島津忠久は源頼朝の庶長子」というのを、島津家では正式に採用している。『島津世家』や『島津国史』に記されている

明和6年(1776年)に完成した『島津世家』、享和2年(1802年)に完成した『島津国史』はいずれも島津氏の正史とされる。島津忠久の誕生について、つぎのように伝える。

 

丹後局は比企尼(ひきのあまのむすめ)。比企能員(ひきよしかず)の妹にあたる。比企尼は源頼朝の乳母だった。丹後局は源頼朝といい仲に。そして懐妊する。そのことを知った北条政子は怒り、丹後局を殺すよう命じた。丹後局はひそかに逃がされ、西へ向かう。摂津国の住吉社(住吉大社、大阪市住吉区)に至ったとき、ここで男の子を生んだ。住吉社に参詣に来ていた藤原基通(近衛基通、このえもとみち)に保護され、源頼朝にも子が生まれたことが報告される。源頼朝より三郎と名付けられた。その後、丹後局は近衛家に仕えていた惟宗広言(これむねのひろこと)に嫁ぎ、三郎も惟宗氏の子として養育された。

……と。

 

島津家は、惟宗忠久(これむねのただひさ)が「島津」を名乗りとしたことに始まる。これは「島津荘(しまづのしょう)」にちなむ。島津荘とは日向国・薩摩国・大隅国にまたがる巨大荘園である。元暦2年(1185年)8月17日付で源頼朝より島津荘(しまづのしょう)の下司職(げすしき)に任じられる。その後、島津荘の惣地頭に補任され、三ヶ国の守護職も与えられた(政変で解任され、のちに薩摩国のみ再任)。

 

島津忠久は丹後局を薩摩国に呼び、市来(鹿児島県日置市東市来・いちき串木野市)に住ませたという。そして、丹後局は満家院厚地に移り住んで、この地で亡くなったと伝わる。

丹後局は永金という僧に帰依していた。丹後局が亡くなると、永金が花尾山の麓に葬った。また、花尾権現社の別当寺である平等王院を開山した人物とも。なお、永金は市来氏の一族であるという。

ちなみに市来氏は大蔵姓。永金よりあとの時代になるが、市来氏は惟宗姓国分氏から養子を迎えて、大蔵姓から惟宗姓に変えている。

 

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島津忠久の出自について

「島津忠久は源頼朝の御落胤」という伝承は、史実ではない可能性が高いとされる。この情報は島津氏の資料(編纂物など)にしか出てこない。母の丹後局についても、その存在自体があやしい感じもする。

島津忠久の出自は、よくわからないのである。

 

ただ、惟宗氏の出身であったことは確かだろう。伝承では惟宗広言が養父とされるが、こちらとのつながりもうかがえる。惟宗広言は日向介であったともされ、惟宗忠久と南九州はもともと縁があった可能性もありそうだ。

また、惟宗忠久は近衛家に仕えていたようだ。近衛家は島津荘の本家(持ち主)でもある。そして、島津忠久は近衛家の許しを得て、惟宗姓から藤原姓に改姓している。

 

源頼朝御落胤説は、系譜に箔をつけるために作り上げられた可能性が高い。この説は文明2年(1470年)から文明14年(1482年)にかけ書かれた『山田聖栄自記』に見え、15世紀以前には島津家が言っていたことになる。

南北朝争乱期を戦う中で権威付けのために言い出したことなのではないか? と。そんな想像もさせられる。

 

 

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島津本宗家による再興

花尾権現社は16世紀には荒廃していたようだ。別当寺の平等王院も廃絶し、鹿児島の経圍山宝成就寺大乗院に花尾権現社の管理が任されていた。

寛文9年(1669年)より花尾権現社の整備が始まる。島津光久(みつひさ、島津氏19代、2代藩主)が命じてのことだった。翌年にかけて社殿造営などが行われている。寛文8年(1668年)に島津光久は幕府の許可を得て、藤原姓から源姓に改姓する。島津忠久の源頼朝御落胤説を根拠としてのことである。そして、改姓の翌年から、花尾権現社の再興にとりかかったことになる。やや時代が下って、元禄11年(1698年)には源頼朝の五百年忌法要も行われている。

宝永5年(1708年)に島津吉貴(よしたか、島津21代当主、4代藩主)により、平等院が再興された。大乗院の住持が、平等王院の住持も兼務した。

正徳3年(1713年)に、島津吉貴が花尾権現社の本格的な再興をはかる。社殿造営など大規模な整備が行われた。

 

『三国名勝図会』には島津吉貴が再興したあとの花尾権現社の絵図が掲載されている(画像をクリックすると大きな画像で見られます)。

花尾権現の絵図

『三国名勝図会』巻之十より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

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絵図は、ほぼほぼ現在の境内の様子と重なる。ただし、平等王院などの寺院群は明治初めに廃寺となっている。

 

田園風景と鳥居

参道の入口の鳥居から

 

寛政元年(1789年)、島津重豪(しげひで、島津25代当主、8代藩主)の請願により「大権現」号を得る。「花尾大権現社」と号する。

島津重豪は「島津家は源頼朝の後裔である」ということを積極的に広めようとしていた印象だ。前述の『島津世家』『島津国史』の編纂を命じたのも島津重豪であった。

また、鎌倉の法華堂跡にある源頼朝の墓は島津重豪が安永8年(1779年)に整備したものである。このとき法華堂に、島津忠久の墓も整備されている。


島津家の世子(世継ぎ)は、江戸の藩邸に住んでいた。家督をついだあとに薩摩国に入ることになるが、初入部の際には花尾大権現社に参詣している。

 

 

 

 

境内が美しい

前向きがだいぶ長くなってしまった。花尾神社の境内の様子を紹介する。

 

鹿児島県道211号から脇道にちょっと入る。田んぼの中に鳥居が見える。花尾神社のものである。鳥居の向こうに見える山のほうに参道が続いている。かつては、この鳥居近くに平等王院などがあった。

 

田園風景に鳥居

奥の山が花尾神社の境内

 

 

鳥居をくぐって山に入る。森の中の参道が美しい。

 

木立を抜けて

参道

 

奥へ向かう。鳥居の向こう側に社殿が見える。社殿の手前に車も停められる。

 

花尾神社の鳥居

二つめの鳥居をくぐる

 

一段高くなったところに社殿がある。石段をのぼる。スロープもある。

 

石段と社殿

社殿のほうへ

 

社殿は正徳3年(1713年)に島津吉貴によって造立されたもの。豪華な造りである。彫りものも見事だ。また、嘉永5年(1852年)に島津斉彬(なりあきら、島津氏28代当主、11代藩主)の名で大改修が行われている。天井画をはじめ、このときに手を入れたところも多い。

 

花尾神社の社殿

社殿は入母屋造り

 

花尾神社の社殿

彫刻も手が込んでいる

 

拝殿に上がることができる。宮司さんに撮影の許可もいただき、いろいろと撮らせてもらった。

こちらの写真の右のほうが幣殿から本殿へ。随神の木像2対も見える。格天井には花鳥風月の絵も描かれている。能勢一清という絵師によるもの。天井画は色があせてしまっているが、かつては鮮やかな色彩で飾っていたことだろう。

 

花尾神社の社殿

拝殿にて

 

拝殿内にはたくさんの扁額が掲げられている。年号を見ると18世紀~19世紀のものが多いようだ。

 

琉球国の使節が奉納した額もある。

「澤敷海國」 
安永二年癸巳菊月穀旦
中山王世子尚哲謹立

琉球の扁額

「澤敷海國」の扁額

 

安永2年(1773年)に琉球国の中山王で、世子でもあった尚哲(しょうてつ)が薩摩国に来ている。このときに奉納されたものである。「澤敷海國」は「たくふかいこく」「澤を海國に敷く(たくをかいこくにしく)」と読む。「恵みを受ける海国」といった意味で、感謝の意を表したものだ。

 

「無斁」 
天明七年丁未菊月吉日
琉球国使者
 盛島親雲上朝朗
 伊集親雲上朝義
 冨里親雲上朝永 

 

琉球の扁額

「無斁」の扁額

 

「無斁」は「むと」「むえき」「いとうなし」と読む。いろいろな解釈ができそうだが、琉球と薩摩藩は「厭わない関係(友好関係)が続く」ということだろうか。天明7年(1787年)に奉納されたもので、3人に使者の名で奉納。「親雲上」は「ぺーちん」と読む。琉球国の士族の称号である。

 

 

拝殿には「華尾権現」の額もあった。享保5年(1720年)に掛けられたもので、前関白の近衛基煕(このえもとひろ)の揮毫によるもの。正徳3年(1713年)に島津吉貴により花尾権現(花尾神社)の社殿が造立された際に、揮毫を依頼したという。

 

神額

「華尾権現」の額

 

扁額類をはじめ、拝殿には貴重なものが多い。また機会があれば、一つ一つを確認してみたいと思う。

 

社殿の脇には摂社がある。稲荷大明神と春日大明神を祭る。稲荷神は島津氏の氏神だ。春日神は藤原氏の氏神だが、島津氏が藤原姓を称していたこととも関わりがあるのかな?

 

花尾神社の摂社

稲荷大明神と春日大明神

 

 

 

もともとは熊野権現か?

花尾権現は花尾山の麓にある。かつては厚智山権現社とも称した。花尾山の山上には熊野権現が祭られていて、もともとはこちらの信仰であったようだ。熊野権現に島津家の信仰が重ねられ、すり替わったと考えられる。

 

創建に関わったとされる永金は大蔵姓と伝わる。厚智山権現社は大蔵氏が関わる熊野権現であったと推測できる。

大蔵氏は満家院の院司であった。中世以前は薩摩国・大隅国で大蔵氏がかなりの勢力を持っていた。在国司としても名が見える。大蔵氏の中に加治木氏を称する一族がある。大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)を拠点とする。満家院の院司の大蔵氏は、この加治木氏と同族と推測される。また、市来氏も大蔵姓である。加治木氏と市来氏の関係性はよくわからないが、こちらも同系統であるのかも。

 

市来には丹後局の伝承がある。市来の来迎寺跡(いちき串木野市大里)には丹後局の墓と伝わるものがあったり、湯田(日置市東市来町湯田)の稲荷神社は丹後局が創建したと伝わっていたりと、伝承と関連したものもある。

 

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市来氏はのちに惟宗姓を称するが、13世紀に島津氏と系図に関する争論があったことが『酒匂安国寺申状』に記されている。同族であるはずなのに、島津氏が強権を振りかざすことに市来氏が不満を訴えたものである。丹後局と市来のつながりは、この件とつながっているのかもしれない。

大蔵姓である永金は、市来氏と関連付けられ、そして丹後局につながったのかな? と、そんな印象も受ける。

 

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花尾神社には丹後局の墓もある。こちらについては【後編】にて。

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花尾神社はほかにもある。こちらは大隅国吉田院の本城(鹿児島市本城)の花尾神社の記事。

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また、花尾神社の南のほうの東俣には、一之宮神社というのがある。こちらは島津忠久・丹後局・惟宗広言を御祭神とする。花尾権現社(花尾神社)とあわせて整備されたものだ。一之宮神社についてはこちらの記事にて。

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

『郡山郷土史』
編/郡山郷土誌編纂委員会 発行/鹿児島市教育委員会 2006年

ほか