ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

郡山東俣の一之宮神社、森の中に島津忠久・丹後局・惟宗広言を祀る

島津忠久(しまづただひさ)は島津氏の初代である。この人物を祀る神社が鹿児島市郡山町東俣に鎮座する。一之宮神社(いちのみやじんじゃ)がそれだ。大きな古木が立ち並ぶ森の中へと参道が伸びる。奥には立派な社殿があった。

 

 

島津氏の祖

御祭神は三座。正位に島津忠久、左位に丹後局(たんごのつぼね)、右位に惟宗広言(これむねのひろこと、ひろとき、ひろのり)を祀る。このほかに供奉随身72体もあったという(『三国名勝図会』より)。

 

島津忠久はもとの名を惟宗忠久という。「島津」の名乗りは、領有した「島津荘(しまづのしょう)」より。島津荘は日向国・大隅国・薩摩国にまたがる巨大荘園である。

惟宗忠久は、文治元年(1185年)に源頼朝より島津荘の下司職(げすしき)に任じられた。さらに翌年に島津荘の惣地頭職に補任された。また、文治3年(1187年)には薩摩国・大隅国・日向国の押領使に任じられ、のちに守護職に補任される。

 

丹後局は島津忠久(惟宗忠久)の母とされる。惟宗広言は養父とされる(実父という説も)。島津忠久には「実父は源頼朝」という伝説もある。

なお、惟宗氏は秦(はた)氏の一族である。ちなみに惟宗広言は日向介(国司の次官)に任じられたことも。南九州とは縁があったりもする。

 

 

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森の中へ

鹿児島県道211号沿いにこんもりとした叢林がある。東俣町の横断歩道と信号のあるところから脇道に入ると参道口がある。

道路沿いの森

県道からも社叢が見える

 

巨木と鳥居

参道口へ

 

叢林に入っていく。参道にはクスノキやイチイガシの大木の枝が覆いかぶさる。

巨木と鳥居

鳥居横の御神木

 

木立の中の参道

参道を奥へ

 

奥に行くと玉垣がある。その内側に社殿。島津氏の初代を祀っているだけあって立派な造りだ。

森の中に社殿

玉垣の向こうに社殿

 

社殿と広場

拝殿前へ

 

社殿は比較的新しいものだ。黒い建物に朱色が映える。

黒と朱の社殿

神紋は「丸に十」


拝殿の前には狛犬も。天明6年(1786年)に奉納されたもの。

石造りの狛犬

大きな狛犬が出迎える

 

境内は静かな雰囲気。木々の存在感もかなりのものだった。

神社の参道

参道口のほうを振り返る

 

 

18世紀に再興、花尾大権現の末社か

旧称は「一之宮大明神」。創建時期は詳らかならず。高尾神社・南方神社・鎮守神社・妙見権現・湯屋権現も合祀されている。


かつて、東俣は薩摩国日置郡のうちにあった。また、郡山のあたりは満家院(いつえいん)とも呼ばれていた。

満家院の厚地(あつち)に花尾神社(はなおじんじゃ)が鎮座する。旧称は「花尾大権現」「花尾山権現」という。ここは源頼朝や丹後局を祀る。ふたりは島津忠久の両親と伝わり、島津氏の祖廟とした。

厚地は東俣の隣村である。一之宮神社は花尾神社の南約2.5㎞の位置にある。そして、花尾神社(花尾大権現)とも関わりが深い。

 

『花尾社伝記』に、一之宮大明神は花尾大権現の「末社の第一」とある。「一之宮」の名称もここからきているのだろうか。

一之宮大明神は15世紀以前にはあったようだ。『花尾社伝記』によると、文明4年(1472年)に村田経安が再建を志し、延徳3年(1491年)に社殿を落成させたという。

村田経安は島津立久(たつひさ、島津氏10代当主)・島津忠昌(ただまさ、島津氏11代当主)の家老で、郡山の地頭に任じられていた。

 

その後、一之宮大明神は廃れていたという。時代が下って享保11年(1726年)に藩主の島津継豊(つぐとよ、22代当主)が再興し、さらに天明6年(1786年)に島津重豪(しげひで、25代当主)が社殿を修造したという。狛犬もこのときのものである。


『三国名勝図会』には一之宮神社の絵図も掲載されている。社殿の建て替えなどはあるものの、昔ながらの雰囲気を残している印象だ。絵図を見ると狛犬の場所が異なる。かつては鳥居の前にあったようだ。

一之宮神社の絵図

『三国名勝図会』巻之十より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

中世において島津氏は藤原姓を称していた。もともとは惟宗姓であったが、承久3年(1221年)に島津忠久は近衛氏(藤原摂関家)の許しを得て藤原姓に改めている。近衛氏は島津荘の本家(持ち主)でもあった。

島津光久が藩主の頃(17世紀半ば頃)に、源姓を称するようになる。源頼朝後裔説を前面に出すような感じに。島津家の祖廟としての花尾大権現の整備が進められるようになったのも、それ以降のことだと考えられる。

一之宮大明神(一之宮神社)も花尾大権現(花尾神社)とともに整備されたと考えられる。

前述のとおり享保11年(1726年)に一之宮大明神が再興されているが、この年には島津継豊が源頼朝鬢髪を花尾大権現に奉納している。

 

花尾大権現は、もともとは花尾山の山岳信仰であったようだ。島津家の祖廟となったのはいつ頃からなのかはわかならない。

一之宮神社についても同様で、もともとは違う神様を祀っていたのでは? ……とも想像させられる。

 

 

丹後局は満家院で没した?

丹後局と惟宗広言は薩摩国に移り住んだ、という伝説もある。丹後局は晩年に満家院の厚地に住み、この地で没したとも。花尾神社には丹後局の荼毘所跡や墓所と伝わるものもある。

こちらの伝説の真偽のほどはわからない。だいぶあやしい感じもするのだが、あちこちに丹後局に関する伝承が残っていたりもする。

 

 

大隅国富隈の一之宮神社

大隅国富隈(とみくま、現在の鹿児島県霧島市隼人町住吉)に稲荷神社がある。神社は島津義久(よしひさ、15代当主)が住んだ富隈城跡の一角に鎮座する。『三国名勝図会』には、つぎのようなことも書かれている。

もともとは「住吉一之宮稲荷神社」と称していた。住吉大明神・一之宮大明神・稲荷大明神の三社を合祀している。

住吉大明神は島津忠久が勧請したと伝わる。また、稲荷大明神を合祀したのは島津忠久とも島津義久とも伝わる。いずれも島津家の守護神である。

ちなみに、島津忠久は住吉社で生まれ、その際に摂社の稲荷神の加護を受けた、という伝説もある。なお、稲荷神は秦氏とも関わりがある。

富隈の一之宮大明神は、永和元年・天授元年(1375年)に合祀されという。この「一之宮」が島津忠久のことなのだ。島津氏久(うじひさ、6代当主)が大隅国で戦う際に、島津氏の祖を守護神としたとされる。

「島津忠久=一之宮」というのはけっこう古くから言われていたのかもしれない。東俣の一之宮と、富隈の一之宮とは何かしらの関連性があるのだろうか?

 

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『郡山郷土史』
編/郡山郷土誌編纂委員会 発行/鹿児島市教育委員会 2006年

『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集 八』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2009年
 ※『花尾社伝記』などを収録

『旧記雑録拾遺 地誌備考 二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2015年

ほか