ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

端陵は亀の頭に、中陵は亀の首に、新田神社(可愛山陵)のある神亀山に

端陵(はしのみささぎ)と中陵(なかのみささぎ)は、鹿児島県薩摩川内市宮内町の神亀山にある。すごく気になる存在である。

神亀山の山頂は、可愛山陵(えのみささぎ)に治定されている。可愛山陵はニニギノミコト(瓊瓊杵尊/邇邇芸尊)の御陵とされ、神亀山はその宮居である「高城千臺宮」があったとも伝わる。ここには新田神社(にったじんじゃ)が鎮座し、可愛山陵と一体となって奉斎されている。

 

新田神社についてはこちらの記事にて。

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可愛山陵についてはこちらの記事にて。

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神亀山はその名のとおり、亀のような形をしている。山の北西部に出っ張った地形があり、亀の頭のような感じになっている。そちらのほうに、端陵と中陵は位置する。

 

 

端陵、コノハナサクヤヒメの御陵とされる

端陵は亀の頭にあたるところにあり。別名に御前様陵(ごぜんさまのみささぎ)とも。コノハナサクヤヒメノミコト(木花開耶姫命)の御陵とされる。別名にカムアタツヒメノミコト(神阿多都比売命/神吾田津姫命)ともいい、ニニギノミコトの妻である。御陵の上に端陵神社が鎮座し、こちらは新田神社の末社でもある。

 

新田神社の二の鳥居から向かうとわかりやすい。端陵・中陵の近くには専用駐車場はないので、車の場合は二の鳥居横の駐車場に停めて歩いていくといい。

二の鳥居から山に沿って歩いていく。10分くらいで、端陵への入口に着く。説明看板もある。Googleマップで調べたところ、ここまでの距離は600mだった。

 

 

入口の扉には鍵がかかっていないので、開けて金網の内側へ入る。そして、山に沿って奥へ。

 

金網の内側に入れる

端陵への入口

 

端陵へ

山沿いに奥へ

 

すぐに鳥居が目に入る。端陵の参道口だ。くぐって中へ。

 

鳥居がある

端陵の参道口

 

端陵へ

参道

 

しばらく参道を登っていくと。御陵とわかる地形が見える。

 

端陵

土を盛ったような地形

 

 

国立文化財機構奈良文化財研究所のホームページで閲覧できる「全国文化財総覧」の中に、端陵古墳の情報があった。こちらによると前方後円墳とのこと。墳長は54mほど。後円部は直径35mほど。建造時期については情報がない。

 

www.nabunken.go.jp

 

 

後円部を螺旋状に参道が続く。上のほうに玉垣が見えてきた。

 

端陵

ぐるりと回り込んで

 

頂上は平坦に整地されている。玉垣の内側に石祠がある。端陵神社である。御祭神はもちろんコノハナサクヤヒメ。

 

玉垣と石祠

端陵神社

 

石灯籠の一部。こちらには文化13年(1816年)の銘が確認できる。この年に一帯が整備されたのだろうか。

 

石灯籠

「文化十三年」の文字

 

玉垣の内側にはこんなものも。板状の石が置いてある。石棺の蓋か? あるいは石室の一部か?

 

石室の破片か

石がある

 

お詣りしたあと、参道を戻る。

 

 

中陵、ホノスソリノミコトの御陵とされる

端陵の参道口から、右手奥のほうに道が続いている。また鳥居が見える。中陵への参道口だ。

 

中陵へ

こっちに中陵

 

中陵のあるところは、亀の首の部分にあたる。ホノスソリノミコト(火闌降命)の御陵とされる。別名にホデリノミコト(火照命)とも、あるいは海幸彦とも。ニニギノミコトの長男である。弟のヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊/山幸彦)と争って屈服した神話がある。ホノスソリノミコトは隼人の祖ともされる。


じつは中陵のほうにも入口がある。亀の首根っこの左右から入れるようになっているのだ。

 

金網の扉

中陵側の入口

 

端陵は比高20mほどの山になっているが、谷を挟んでもう一つ山があるような感じだ。そのもう一つの山の上に中陵がある。

 

中陵の参道口

鳥居をくぐって奥へ

 

中陵へ

参道を振り返る

 

参道を登りきったところに小丘がある。こちらも古墳のような形状だ。なお古墳としての情報を探すも見つからなかった。

 

盛り土の上に

中陵

 

小丘の上に玉垣があり、その内側に石祠が中陵神社だ。御祭神はホノスソリノミコト。こちらも新田神社の末社。

 

玉垣と石祠

中陵神社

 

 

『三国名勝図会』では……

19世紀半ばに薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』に、神亀山の頭の部分の絵図が載っている。

 

神亀山の絵図

『三国名勝図会』巻之十三より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

おやっ? と思うのである。中陵のあるところを「可愛山陵」としているのだ。

 

可愛山陵の比定は、薩摩の国学者の白尾国柱(しらおくにはしら)の研究による。寛政4年(1792年)に出した『神代三陵考』の中で「可愛山陵は中陵だ」としている。

しかし、白尾国柱はその後の調査で説を改める。文化11年(1814年)の『神代三陵取調書』では、可愛山陵を神亀山の山頂に比定。後世では、こちらが定説となる。

 

『三国名勝図会』では、白尾国柱の最初の説がとられているのだ。

 

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石棺から煙が出てきたらしい

中陵の石室について、『神代三陵取調書』に書かれている。つぎのとおり。

小社の四隅には古松四本有之一本は去文化三年の比、枯木成候故伐除有之故、根を堀取候、節石の槨に堀當り、其節、権執印淳靑太抵見分仕候處、石之體平長く眞四角には無之、其槨中に一つの石棺有、之様子見受申候。且最初石槨を堀取候者、蓋石を引被候得ば、中より煙の様に白氣吹出し、其蓋石の裏は青赤き色に相見得候由、左候て中端の両御陵共に元来自然の山上に奉葬、其上より土を築き立爲申様子にて、山の頂は急に高く、其下は一段の平なる所有之。 (『神代三陵取調書』より、読みやすいように読点を追加しています)

 

中陵の上には小社があり、四隅に古い松が4本。そのうちの1本が文化3年(1806年)に枯れてしまったので取り除くことになった。枯れ木を伐採し、根を掘り起こすと何かに当たる。石の槨(かく)が出てきた。権執印淳靑の見分によると、石は平らで長く真四角ではない。その石槨の中に石棺があった。石槨を掘り取って蓋石を引きはがすと、中から白い煙がぶわっと噴き出した。また、蓋石の裏面は青赤い色だった。この様子から、中陵・端陵の両御陵は自然の山を利用したもので、葬られたところに上から土を盛ったのだろう。山の上のほうは急に高くなっていて、一段さがったところが平らになっている。

……と、状況が詳細に記されている。石棺から出てきた白い煙、って何だったんだろう?

なお、見分した権執印淳靑というのは八幡新田宮(新田神社)の社家の人物である。権執印(ごんしゅういん)氏は紀姓で、権執印職(宮司の次席にあたる役職)を世襲している。

 

端陵についても『神代三陵取調書』に情報あり。こんなことが書かれている。

◆山上に石数片を安置。石の横に小社あり。
◆まわりには木の囲いが設けられている。
◆石槨は木の囲いの外側にまで広がる。
◆陵の上には木や竹が茂り、その根が石槨の内部にまで入り込んでいる。

 

前述したとおり、「石数片」というのは現在も玉垣内に置かれている。

 

 

<参考資料>
『神代三山陵』
編・発行/鹿児島史談会 1935年
『神代山陵考』(著/白尾國柱)、『神代三陵取調書』(著/白尾國柱)、『神代三陵志』(著/後醍院眞柱)、『神代三陵異考』(著/樺山資雄)、『高屋山陵考』(著/田中頼庸)などを収録

『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年

『川内市史 上巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1976年

『川内市史 下巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1980年

ほか