国道267号沿い川内川のやや南のあたりに鳥居が見えた。そこは荒瀬神社(あらせじんじゃ)という。鎮座地は鹿児島県伊佐市大口曽木。御祭神は豊玉比賣命(トヨタマヒメノミコト)・豊玉比古命(トヨタマヒコノミコト)。
静かな森の中に
国道沿いに鳥居がある。駐車場はないけど、鳥居前に車1台分くらいのスペースがある。ちょっと停めさせてもらって参詣する。


鳥居は昭和37年(1962年)に改修されたもので、さらに昭和57年(1982年)に国道の工事にともなって現在地へ移設。鳥居に刻まれた文字を見ると、そんなことが書かれていた。
鳥居をくぐると森の中に参道がまっすぐ伸びる。それなりに交通量のある国道沿いだけど、境内は静かな雰囲気だ。

社殿は昭和12年(1937年)に改修されたものとのこと。昭和36年(1961年)にも修理が行われているそうだ。情報は由緒書きより。

社殿の向かって右側には天神社がある。菅原道真を祭る。

社殿の向かって左側には若宮社がある。仁徳天皇を祭る。

境内社の天神社と若宮社は、天保3年(1832年)に再興されたとの棟札もあり。
大きな神社ではないが、なんとなく強い気を感じるような。そんな雰囲気の場所だった。そして、由緒もなかなか気になるのだ。
川内川を流れてきて
『三国名勝図会』によると、かつては「悪瀬大明神社(あらせだいみょうじんじゃ)」と称した。勧請時期は不明。もともとは大隅国菱刈郡湯之尾の川南の荒瀬に鎮座していたそうで、それが洪水により流されて菱刈郡曽木のこの地で止まった、と。この出来事をきっかけに曽木に勧請して、この地の総鎮守にしたのだという。
「湯之尾の川南の荒瀬」というのは、現在の伊佐市菱刈川南荒瀬のあたり。川内川がぐるりと曲がっている場所があり、「湯之尾滝ガラッパ公園」というものもあり。

『三国名勝図会』では、御祭神は「詳らかならず」、本地は弥陀と薬師観音。
現在の御祭神はトヨタマヒメノミコト・トヨタマヒコノミコトとしているが、この二柱は明治時代に定めた後付けの神様だと思われる。もともとは、そのまま「悪瀬大明神」なる神様を祭っていたのだろう。土地の神様、あるいは川内川の神様といった感じか。川内川は暴れ川で、たびたび洪水を起こす。恵みも災禍ももたらし、畏敬されてきた。往古の人々は、そこに神の存在を感じていたのではないだろうか。
『三国名勝図会』は19世紀に薩摩藩が編纂した地理誌。詳しくはこちらの記事にて。
以下のような棟札もあるという。
◆永享10年(1438年)再興
◆天文11年(1542年)再興
◆天明2年(1782年)に舞殿・拝殿を再建
◆天保3年(1832年)に天神・若宮・善神堂の再興
洪水で流されてきたのは、永享10年(1438年)以前のことになりそう。
悪瀬山無量寿院観音寺
悪瀬大明神社の西隣りには、悪瀬山無量寿院観音寺があった。真言宗の寺院で、鹿児島の経圍山宝成就寺大乗院の末。本尊は阿弥陀と不動。
鹿児島の大乗院は、島津氏の祈願所であった。その場所(鹿児島市稲荷町)は、島津氏が中世に拠点とした清水城の跡地でもある。
曽木の観音寺は、もともとは天台宗の寺院だった。島津貴久(しまづたかひさ)が菱刈氏を下してこの地を取ったあと、大乗院末の真言宗の寺院になったという。
なお、元禄年間(1688年~1704年)の火災で記録が焼失していて、寺伝の詳細はわからず。
島津義弘の奉納面
『三国名勝図会』にはこんなことも書かれている。
島津義弘(島津忠平)が11面の木面を悪瀬大明神社に奉納したという。この面は神事で使われていたが、享保16年(1731年)の火災で10面が焼失してしまった。1面のみが残り、神社に保管されているという。
永禄11年(1568年)頃に島津義弘はこのあたりで菱刈氏・相良氏の軍勢と戦っている。その頃に戦勝祈願で奉納されたものだろうか。
島津氏の菱刈・大口攻めについてはこちらの記事にて。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
『大口市郷土誌 下巻』
編/大口市郷土誌編さん委員会 発行/大口市 1978年
ほか