ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

大口里の諏訪神社(長峯諏訪社)、大口城の南の丘の上に鎮座

鹿児島県伊佐市は、諏訪神社がやたらとある。Googleマップで調べたところ、伊佐市内の諏訪神社は10社確認できる。また、南方神社(明治時代に諏訪神社から改称)も5社が見つかる。

大口里の諏訪神社は、大口の諏訪神社の中でもっとも規模が大きいと思われる。場所は大口城の南のあたり。桜並木で有名な忠元公園から続く丘の上に境内はある

 

 

御由緒

創建年代はよくわからない。「永正八年」(1511年)と書かれた獅子面があったとも(焼失)。勧請はそれ以前のことであろう。

御祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)・事代主命(コトシロヌシノミコト)。

「長峯諏訪社」とも呼ばれる。郡山八幡神社・西原八幡神社とともに「大口三社」の一つにも数えられている。

嘉永3年12月(1851年1月)に境内は焼失。現在の社殿は嘉永4年に再建されたものである。

 

 

参道に紫陽花

忠元公園の近くで、道もわかりやすい。広い駐車場があり、参詣しやすい。

 

大口里の諏訪神社

参道口

 

参道口には仁王像がある。こちらは享保14年(1729年)に造られたものであるという。

 

仁王像

鳥居をくぐって参道を奥へ。訪問したのは梅雨の頃。紫陽花が咲いていた。

 

諏訪神社の参道

参道に紫陽花

 

拝殿前には、こんな狛犬が待ち構えていた。

 

大口里の諏訪神社

狛犬

 

社殿は嘉永4年(1851年)に造立されたもの。けっこう大きな建物だ。

 

諏訪神社の社殿

拝殿

 

諏訪神社の社殿

拝殿はオープンな感じ

 

諏訪神社の社殿

拝殿・本殿を横から

 

奥のほうには森がある。こちらも素敵な雰囲気。森の中には伊勢大神宮を祭る石祠もあり。

 

諏訪神社の杜

社叢

 

石祠

伊勢大神宮

 

森を抜けると展望所がある。大口の街を一望。写真正面に見える山は「鳥神岡(とがめおか)」という。

 

大口の街

展望所から

 

展望所には神様が並んでいる。祠に祭られているのは愛宕神社。天正2年(1574年)に新納忠元が島津義久の武運長久を祈願して勧請したものと伝わる。

 

諏訪神社の境内に

愛宕神社

 

愛宕神社の横には石の何かが祭られている。写真の左から秋葉神社・馬頭観音・薬師如来とのこと。

 

諏訪神社の境内に

神様いろいろ

 

境内には招魂社もあった。

 

諏訪神社の境内に

招魂社

 

大口は諏訪神社(南方神社)の密集するところである。そもそも、鹿児島県には諏訪神社が多い。これには島津氏による信仰も多いにからんでいる。また、菱刈氏が守護神として勧請した諏訪神社もけっこうある。

 

島津氏の諏訪神社の関係については、こちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

 

享禄3年の大口城落城にも関わる?

例祭(内祭)は旧暦7月27日である。

 

享禄3年(1530年)7月27日に大口城が攻められる。大口城主は島津出羽守忠明(ただあき)。島津家の分家の人で、代々「出羽守」を称することから「羽州家(うしゅうけ)」と呼ばれる。薩摩国大口は国境の地である。その場所は、肥後国人吉の相良氏と大隅国菱刈の菱刈氏に挟まれるような感じ。この難しい要地を島津明久はよく守っていた。

 

菱刈重州(ひしかりしげくに)と相良義滋(さがらよししげ)が大口城を囲む。そして7月27日に総攻撃をかけ、島津忠明は自害した。相良方・菱刈方の軍勢は諏訪神社の例祭の参詣者に兵を紛れて急襲した、という話も伝わっている。

 

大口城の落城についてはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年

『大口市郷土史 上巻』
編/大口市郷土誌編さん委員会 発行/大口市 1981年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

ほか