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岩波文庫の『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(編訳/石原道博)

日本の古代史を考察するとき、中国の史書が重要な史料とされる。例えば、このあたりの本。

 

魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝

 

これらに書かれている情報は、興味をそそるものばかりである。

 

で、中国発の古代の倭国(日本)の情報をコンパクトにまとめた本が、「岩波文庫」にある。重要なところをしっかり押さえ、読みやすく、そして価格が安い。歴史に興味のある人は、持っていても損はない一冊だと思う。

 

『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』
編訳/石原道博 発行/岩波書店

 

 

初版は1951年発行。新訂版は1985年に発行。古い本だ。編訳は石原道博氏。茨城大学の教授を務めた人物で、日本と中国の交流史の研究者として知られる。

 

収録されているのは本のタイトルのとおり。四つの書の「倭」に関する記事の抜き出しである。

『魏志』倭人伝

『後漢書』倭伝

『宋書』倭国伝

『隋書』倭国伝

 

これらの「解説」「書き下し文+訳注」「現代語訳」「原文」を収録している。史料集としてとても使いやすい。

原文は百衲本(ひゃくのうぼん)を影印(撮影してそのまま本に載せる)。百衲本というのは、中国の史書の古い版木を集めて出版されたもの。

 

 

参考原文として、以下より関連情報の抜粋も収録。四つの書の倭伝が情報源としたものも含まれる。

『前漢書』地理志

『魏略』逸文

『広志』逸文

『晋書』四夷伝 倭人

『南斉書』東南夷伝 倭国

『梁書』諸夷伝 倭

「高句麗広開土王碑」の碑銘

『日本書紀』推古天皇

これらを確認できるのも便利なところだ。

 


収録の史書の倭伝の概要なども、ちょっと紹介。

 

『魏志』倭人伝

晋に仕えた陳寿が編纂。3世紀に成立したもの。『三国志』のうちの『魏志』があり、魏(220年~265年)の歴史を記す。その中の「東夷伝」に「倭人」の条がある。

 

◆倭国にはたくさんの国があり、「邪馬壹國」の女王を宗主としてまとまってる。

◆「對馬國」「一大國(一支國か)」「末盧國」「伊都國」「奴國」「不彌國」「投馬國」「斯馬國」「己百支國」「伊邪國」「都支國」「彌奴國」「好古都國」「不呼國」「姐奴國」「對蘇國」「蘇奴國」「呼邑國」「華奴蘇奴國」「鬼國」「爲吾國」「鬼奴國」「邪馬國」「躬臣國」「巴利國」「支惟國」「烏奴國」がある。

◆女王に属さない「狗奴國」というのもある。男王がいる。官を「狗古智卑狗」という。

◆長いこと大乱が続き、女王を立てることでおさまったらしい。擁立された女王は「卑弥呼」という。

◆景初2年(239年)に倭の女王が「大夫難升米」を使者として魏に朝貢。その年に卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印が授けられる。なお、年号は景初3年の誤記とも。

◆倭の女王の卑弥呼は、狗奴国の「卑弥弓呼」と争っていた。

◆卑弥呼の死後は「壹與(台与)」が女王に立てられる。

 

こういった情報がある。倭の様子や習俗についてもいろいろ。多数の人名や官名も出てくる。

 

 

『後漢書』倭伝

後漢(25年~220年)の史書で、宋に仕えた范曄が編纂。5世紀半ば頃にまとめられたもの。『三国志』よりも前の時代の王朝の歴史書だが、『後漢書』のほうが成立年は遅い。『魏志』倭人伝をもとにしながらも、『魏志』には見えない情報もある。

 

◆建武中元2年(57年)に倭の「奴國王」が朝貢。漢の光武帝が印綬を授ける。

◆安帝の永初元年(107年)に「倭國王帥升等」が朝貢。

◆桓帝・霊帝の頃(2世紀)は倭国に大乱あり。のちに女王「卑弥呼」が立てられる。

◆女王国の東に「狗奴國」あり。また南に「侏儒國」「裸國」「黒歯國」あり。

◆秦の始皇帝が方士徐福を遣わした。そして徐福は帰らずにこの地にとどまった。……という話もある。

 

「倭國王帥升等」という人物が気になる。倭人の人名としては、もっとも古い時代になるのかな? あと、徐福伝説にも触れられている。

 

 

『宋書』倭国伝

沈約が編纂。斉の武帝の命によるもので、5世紀末頃の成立か。宋(420年~479年)の歴史を記す。この史料に「倭の五王」が登場する。

 

◆高祖の永初2年(421年)に倭の「讃」が朝貢。

◆太祖の元嘉2年(425年)に「讃」が「司馬曹達」を遣わす。

◆「讃」が亡くなり弟の「珍」が立てられる。宋に遣使して「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と自称。上表文で除正を求め、「安東将軍倭国王」に叙せられる。

◆太祖の元嘉20年(443年)に倭国王「済」が遣使。「安東将軍倭国王」とされる。

◆太祖の元嘉28年(451年)に倭国王の遣使あり。「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の称号が加えられる。

◆倭国王「済」が没して世子「興」が立てられる。世祖の大明6年(462年)に朝貢。「安東将軍倭国王」に叙せられる。

◆倭国王「興」が亡くなり、弟の「武」が立つ。「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称する。

◆順帝の昇明2年(478年)に「武」が遣使。「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に叙せられる。自称にあった「百済」が外されている。

 

「倭の五王」については諸説あり。古代の天皇に比定する説もよく知られている。

 

 

『隋書』倭国伝

『隋書』は隋(581年~618年)の正史である。唐の太宗(李世民)の命で編纂が始められ、魏徴・長孫無忌らがこれにあたった。636年に魏徴により「本紀」「列伝」が完成。列伝の「東夷伝」のなかに「倭国伝」がある。

『魏志』『後漢書』『宋書』など、それまでに編纂された史書の情報を参考にしていると見られる。また、7世紀初め頃の隋と倭の交流の記録や、当時の倭の様子が記されている。編纂時期と近い時代のことなので、情報の精度はそれなりに高そう。

 

◆原文では「俀国」となっている。「倭(わ)」じゃなくて「俀(たい)」。誤記か?

◆文帝の開皇20年(600年/推古天皇8年)に倭から遣使あり。倭国王の姓は「阿毎」、名は「多利思比孤」。「アメノタリシヒコ」と読むのが通説。

◆倭王は「阿輩雞彌」と号した。「オホキミ」と読むのが通説。

◆倭国の太子は「利歌彌多弗利」という。頭の「利」を「和」の誤記として、「ワカミタフリ」「ワカミタヒラ」と読むのが通説。そのまま読んで「リカミタフリ」の可能性もなくはない。

◆十二等の官位がある。「大徳」「小徳」「大仁」「小仁」「大義」「小義」「大礼」「小礼」「大智」「小智」「大信」「小信」。いわゆる「冠位十二階」と呼ばれるもの。

◆「阿蘇山」があり、噴火している。

◆煬帝の大業3年(607年/推古天皇15年)、倭王の多利思比孤が遣使。使者の国書に「日出処天子致書日没処天子無恙云云(ひいずるとことのてんし、ひぼっするとこのてんしにしょをいたす、つつがなきやうんぬん)」とあり。煬帝はこれを見て機嫌を悪くした。

◆大業4年(608年/推古天皇16年)に、隋は裴清(『北史』では裴世清)を倭に遣わす。

◆裴清(裴世清)は百済から海を渡り、「都斯麻國(対馬か)」「一支國(壱岐か)」を経て「竹斯國(筑紫か)」に至る。

◆竹斯國の東には「秦王国」があった。そこに住む人は「華夏(中華)」に同じ。

◆倭王は「小徳阿輩臺」を隋に遣わす。また、「大礼哥多毗」も遣わす。

 

『隋書』の「倭国伝」にある情報は興味深い。聖徳太子の業績とされる「遣隋使の派遣」や「官位十二階」についても書かれている。

ただ、女帝である推古天皇(豊御食炊屋比売/トヨミケノカシキヤヒメ)の時代なのに、男王の「多利思比孤」がいるとしてあったりもする。「多利思比孤」って誰? と。「日出処の天子が~」の国書も「多利思比孤」が出したものである。また、『日本書紀』には推古天皇15年(607年)に小野妹子を遣隋使として派遣したことは書かれているが、開皇20年(600年/推古天皇8年)の遣使については書かれていない。

噴火する「阿蘇山」について書かれている。その一方で、飛鳥のある畿内のほうを思わせる記述はなし。隋の裴世清も「竹斯國(筑紫か)」まで来たとある。そんなところから、この「俀国(倭国)」は九州にあったんじゃないのか? って説もあったりする(九州王朝説)。

「竹斯國(筑紫か)」の東にあったとされる「秦王国」がとても気になる。中国人みたいな人たちが住んでいる、と。位置的には豊国(トヨノクニ、大分県のあたり)か。

 

 

中国の史書と、日本の古代史と

『古事記』は和銅5年(712年)に完成したとされる。『日本書紀』は養老4年(720年)に完成したとされる。

『古事記』『日本書紀』は中国の史書を参考にしている。『魏志』『後漢書』『宋書』『隋書』などにある要素がかなり盛り込まれている。例えば、神功皇后の業績には邪馬壹国(邪馬台国)の卑弥呼・臺與(台与)の影響が見える。聖徳太子の業績も『隋書』から。


中国の史書を読むと、「倭」は九州にあったようにも感じられる。一方、『日本書紀』などが伝えるところでは、日向三代の神話とか、神武天皇の東征とか、景行天皇や日本武尊の熊襲征伐とか、神功皇后と応神天皇が九州から東へ攻めたとか、筑紫君磐井の乱とか、……九州が深く関わっている。

 

日本の古代史はよくわからない。中国の史書からも、いろいろな想像をさせられるのだ。