ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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薩摩国大口の西原八幡宮、島津氏羽州家の悲劇を弔う

西原八幡宮(にしばるはちまんぐう)は、鹿児島県伊佐市大口目丸に鎮座する。かつての薩摩国牛屎院(うしくそいん)の大口(おおくち)のうち。現在は西原八幡神社とも称する。御祭神は島津出羽守忠明(シマヅデワノカミタダアキ)である。

16世紀初めにこの地を治めていたのは島津忠明だった。この人物は島津氏の分家にあたる。出羽守を称したことから、「羽州家(うしゅうけ)」と呼ばれる。大口は激戦地であった。羽州家は菱刈氏・相良氏との抗争のすえに滅亡する。

なお、日付は旧暦にて記す。

 

 

 

島津氏羽州家

羽州家は島津有久より始まる。名の読みは「ありひさ」か。島津有久は島津久豊(ひさとよ、島津氏8代当主)の四男。兄に島津忠国(ただくに、9代当主)・島津用久(もちひさ、薩州家の祖)・島津季久(すえひさ、豊州家の祖)、弟に島津豊久(とよひさ、伯州家の祖)がいる。

母は伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)の娘。島津久豊は伊集院頼久と抗争を繰り広げた(伊集院頼久の乱)。応永24年(1424年)に両者は和睦し、島津久豊は伊集院頼久の娘を妻に迎えている。

 

島津有久は血統も申し分なく、羽州家は一族の中でも地位が高かったと思われる。
日向国の梅北(うめきた、宮崎県都城市梅北)、大隅国の姫城(ひめき、鹿児島県霧島市国分姫城・隼人町姫城)や帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)に所領を持っていた。

長禄3年(1459年)7月、島津有久は梅北城から出兵し、伊東氏と戦う。三俣院小山で戦死した。

 

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2代目は島津忠福という。名の読みは「ただとみ」か。島津有久の嫡男である。島津忠国の娘を妻とし、一門でも重く扱われていたことがうかがえる。

文明16年(1484年)、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)で合戦がある。伊作久逸(いざくひさやす、島津忠国の三男)と新納是久(にいろこれひさ)が挙兵し、飫肥を攻めたのである。島津忠福は飫肥に出陣。12月に逆谷鎌蔵(日南市酒谷)で重傷を負い、直後に亡くなった。

 

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そして3代目が島津忠明である。明応8年(1499年)に島津忠昌(ただまさ、11代当主)は、島津忠明に牛屎院大口を与える。この地は北に肥後国求麻の相良氏があり、南に大隅国菱刈の菱刈氏がある。敵勢力に挟まれた国境の要地であった。島津忠明は大口城に入り、この地をよく守った。また、菱刈重時の娘を妻に迎え、菱刈氏との融和もはかった。善政を敷いたとも伝わる。

 

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一方、島津氏の本宗家のほうは権威が失墜。領内を治める力は弱く、南九州は群雄割拠の様相となる。大永6年(1526年)からは分家の相州家と薩州家が惣領の座をめぐって争う。相州家の島津忠良(ただよし)が嫡男の島津貴久を当主に擁立して実権を握るも、翌年には薩州家がこれをまた引っくり返した。そんな状況下で、薩摩・大隅・日向ではあちこちで勢力争いが勃発。戦国乱世の様相となっていく。

享禄2年(1529年)7月3日、事件が起こる。島津忠明の嫡男は島津明久(あきさひさ)という。このとき16歳(たぶん数え年)であった。島津明久は羽月大島(伊佐市大口大島)に巡見に出たところ(鷹狩りとも)を、菱刈氏の軍勢に急襲されて討ち死にする。

享禄3年(1530年)、菱刈重州(ひしかりしげくに)と相良義滋(さがらよししげ)が大口城を囲む。島津忠明はよく守る。弟の島津忠経を鹿児島に派遣して援けを求めるが、援軍は来なかった。同年7月27日、大口城に総攻撃がかけられ、島津忠明は自害した。

これ以降、大口城は菱刈氏の領有となった。

 

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西原八幡宮を参詣

創建は島津貴久(しまづたかひさ)による。正確な時期は不明。島津貴久は菱刈氏・相良氏を攻めて、永禄12年(1569年)に大口を取る。そして、かつて大口で散った島津忠明・島津明久を祭祀したのである。

天正16年(1588年)の造立の棟札あり。島津義久(よしひさ、島津氏16代)の命で、大規模な整備が行われたという。

西原八幡宮の絵図

『三国名勝図会』巻之十七より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

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国道447号沿いに仁王像が立っている。そこが西原八幡神社(西原八幡宮)の参道口だ。

 

仁王像と標柱

国道沿いの仁王像

 

仁王像は享和3年(1803年)に造立されたもの。

 

仁王像

仁王像吽形

 

参道口から奥へいくと鳥居がある。そこから先が西原神社の境内。鳥居は大正8年(1919年)に建立。

鳥居をくぐって

 

鳥居の額

額には「西原八幡神社」

 

境内はよく手入れされている。社殿も立派だ。石灯籠は昭和10年(1935年)の銘がある。

 

社殿と石灯籠

境内の様子

 

拝殿内もけっこうな広さがある。賽銭箱には「丸に十」の紋。

 

賽銭箱に丸十

拝殿


本殿を脇のほうから見てみる。建物はけっこう古そうだ。

 

西原神社の社殿

本殿

 

 

 

島津忠明の墓

島津忠明の墓は西原山大瑞院にある。場所は大口城(伊佐市大口里)の近く。寺院跡は共同墓地になっている。

墓地の一角に立派な祠があった。この中に島津忠明の墓が納められている。

 

祠

大瑞院跡にて

 

墓塔

祠の中に島津忠明の墓(中央)

 

大口城下の水之手で島津忠明を荼毘にふした場所だと伝わる。水之手公民館の近くには、荼毘跡の碑もある。

 

 

 

若宮神社(若宮八幡)

羽月大島(伊佐市大口大島)には若宮神社(若宮八幡)が鎮座する。御祭神は島津二郎四郎(島津明久)。もともとは西原八幡宮に父とともに奉斎されていたが、天正13年(1585年)に島津義久の命でこちらに遷された。

 

若宮神社は何も書かれていないので、ぱっと見では何かわからない。祠は真新しく、地域で大事にされていることがうかがえる。

 

祠

若宮神社

 

大島は島津明久が討たれた場所である。若宮神社近くの共同墓地の一角には「島津明久公終焉地」の碑もある。

 

石碑

「島津明久公終焉地」碑

 

 

大島氏、その後の羽州家

享禄3年(1530年)に大口城が落城した際に、島津忠明の2歳の娘があった。菱刈氏に生け捕られ、長じて高城重誠なる人物に嫁ぐ。そして嫡男を産んだ。この子は出家していた。

島津義久は高城重誠の嫡男が島津忠明の外孫であることを知り、還俗させて羽州家の家督をつがせた。羽月大島300石を領地として与えた。そして大島忠泰(おおしまただやす)と名乗る。再興した羽州家は、所領にちなんで大島氏を称する。

大島忠泰は島津家に仕え、豊後出征や朝鮮出征に出陣。慶長3年(1598年)の泗川の戦いなどに従軍している。大島のほかに菱刈馬越(まごし、伊佐市菱刈前目)の地頭も任された。

大島忠泰のあとは大島忠盈が継ぐ。大島忠泰の子は早世し、竹崎忠商の長男が養子として入った。ちなみに、竹崎(たかさき)氏は島津忠経(島津忠明の弟)にはじまる家で、羽州家(大島氏)の庶流にあたる。

大島氏は、江戸時代も島津氏の家臣として続いた。

 

 

 

 

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

『大口市郷土史 上巻』
編/大口市郷土誌編さん委員会 発行/大口市 1981年

『伊佐市ふるさと散歩』
編/伊佐市郷土史誌編さん委員会 発行/伊佐市教育委員会・伊佐市立図書館 2024年

ほか