ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

大口城跡にのぼってみた、新納忠元が豊臣秀吉を相手に籠城未遂

大口(おおくち)は薩摩国の北辺である。肥後国・大隅国・日向国と国境を接し、幾度も激戦の地となった。

大口城(おおくちじょう)は現在の鹿児島県伊佐市大口里にある。別名に「牛山城(うしやまじょう)」「牟田口城(むたぐちじょう)」とも。中世においては薩摩国伊佐(いさ)郡のうちにあり、このあたり一帯を牛屎院(うしくそいん)とも呼んでいた。

築城者は牛屎氏の祖とされる平元衡(たいらのもとひら、か)。保元3年(1158年)に牛屎院に下向して居城としたと伝わる。

「大口」という地名が使われるようになったのは、16世紀終わり頃から。地頭に新納忠元(にいろただもと)が入ってから改められたようだ。「大口」の由来については不明。また、「牛屎」の由来もわからず……なんで、こんな地名になっちゃったんだろう? のちに、「屎」の字が嫌だったのか「牛山」と改められている。

城が築かれた山も「牛山」という。牛が寝そべっている姿に似ていることから、そう呼ばれるようになったとも伝わる。

 

 

小学校が御仮屋跡、その背後に山城跡

ネットで調べると「地元の有志の方たちの手で整備が進められている」らしい。そして、登山道は大口小学校のほうからと、反対側の水之手口からの2つのルートがあるとのこと。

行く前に伊佐市役所に聞いてみる。すると、「小学校の事務室に声をかけてから、学校の敷地を抜けて登山道に向かってください」と。小学校の駐車場も使っていいとのこと。ちなみに、水之手口のほうは道が「わかりにくい」と、こっちから登るのはオススメされなかった。

というわけで、小学校へ。校門近くには「大口城址」と「御仮屋跡」の標柱もあった。玉石垣は御仮屋の名残だ。

校庭の片隅に大口城址と御仮屋跡の白い標柱

校門近くの塀から標柱がひょっこり

階段を登って学校に入る

小学校(御仮屋跡)入口、背後に山城

 

小学校の事務室で「大口城に登りたいんですけど」と敷地に入る許可をいただく。行きかたも丁寧に案内してくださった。小学校の敷地を抜けて、体育館の裏手のあたりに登山口があった。地元の方が草を払って、遊歩道をつくってくれている。

森の中を抜けて山の上へ

登山道に入る

山の中を歩く

遊歩道もいい雰囲気

 

しばらく登ると、広い空間に出た。ここが新城にあたる。曲輪の上の草を刈り取り、桜の苗木がたくさん植えてあった。それぞれに名前が書いてある。これらはオーナーを募って植樹されたもの。調査のために薮を払っても放置されればまた薮に覆われてしまう。そうならないように、「桜の木を植えて市民が楽しめる場にしよう」という活動が展開されているそうだ。素晴らしい取り組み! 頭が下がる思いである。

曲輪跡、桜の苗木も植樹

新城跡

 

定期的に草刈りをしている感じだが、整備途上で手が入り切っていないところもあった。ただ、堀の様子や曲輪の形状など、けっこう山城の痕跡が確認できる。

こんもりと土が盛られている

新城付近の土塁

曲輪跡の段差

曲輪の形状を確認

 

新城を横切って奥へ進むと、空堀に沿って通路が続いていた。そこを進むと、大手口に到着した。

堀に沿って通路がある

大手口

 

「大手口」の看板と並んで「秋葉神社」と「展望所」への案内もある。そちらへ向かう。しばらく行くと「本丸へ」の看板。本丸跡に登る。入り口部分には虎口の形状がしっかり残る。曲輪の上には秋葉神社が鎮座していた。本丸跡は草が伸び伸びで、ちょっと歩きづらかった。

上に向かって階段がある

登ると本丸跡

山の中に小さな石の祠

秋葉神社の祠

 

本丸跡を下りて、展望所方向に進む。パッと視界が開けた。ここから大口盆地を一望できるのだ。

竹林の中に続く遊歩道

竹林を抜けて展望所へ

大口盆地を一望

展望所からは菱刈方面を望む

 

展望所からちょっと戻ると、下りていける道がある。看板があってそこには「水之手自治会に至る」とある。

遊歩道と案内看板

水之手口方面へ下りる


下りていく。堀切にそって遊歩道が続く。途中には石垣もあったが、こちらはいつの時代のものかはわからなかった。

山城の遊歩道

堀に沿って下りる

遊歩道の左側に石積みが見える

石垣っぽいが、どうだろう?

水之手側登山口

もうひとつの入口に出る


そして、水之手側の登山口へ出た。たしかに、道がわかりにくい。出ていくには問題ないけど、外側からここを目指すのは困難だと思われる。

水之手口から山を見ながら麓をぐるりと回って、小学校のほうへ戻る。所要時間は50分ほどだった。

 

牛屎院は島津荘の寄郡

現在の伊佐市は、2008年に大口市と伊佐郡菱刈町が合併して発足したものである。大口市の一帯はかつての薩摩国牛屎院、菱刈町はかつての大隅国太良院(たらいん)の位置とだいだい重なる。

なお、「牛屎」をどう読むかについては「うしくそ」のほか、「ねばり」や「うぐつ」など諸説あり。

10世紀初めに編纂された『和名類聚抄』によると、古くは大隅国菱刈郡の内にあったようである。菱刈郡には「羽野」「亡野」「大水」「菱刈(ひしかり)」の4つの郷があったと記される。「菱刈」以外の3つは、どこなのかわからず。どう読むのかもわからない。とりあえず、「羽野」「亡野」「大水」のどこかがのちの牛屎院や大口に当たる。

国境や群域は時代によって変化する。菱刈郡の一部は、のちに薩摩国伊佐郡となった。そして、伊佐郡北部はやがて牛屎院と呼ばれるようになるのである。

牛屎院と太良院をひっくるめて、菱刈両院とも呼んでいた。これらは隣接しており、いずれも大口盆地の中にある。地域的なつながりや関りは、昔から強かったと思われる。

11世紀以前のこのあたりの歴史については記録がとぼしく、ほとんどわからない。ただ、南九州においては島津荘(しまづのしょう)や大隅正八幡宮領(おおすみしょうはちまんぐうりょう)の巨大荘園が出現。郡司たちは土地を寄進して、いずれかに属していることが多かった。公領でありながら荘園にも属する「寄郡(よせこおり、よりこおり)」というものもあった。

建久8年(1197年)の『薩摩国図田帳』によると牛屎院は島津荘の寄郡である。ちなみに、地頭は島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)。そして、院司は「元光」という人物の名が記されている。この「元光」は、牛屎氏系図にある「大平基光」に比定されている。

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牛屎院の牛屎氏

牛屎氏は桓武平氏を称する。平信基(たいらののぶもと、か)が保元の乱(1156年)に軍功があって、牛屎院と祁答院(けどういん、現在の鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町のあたり)を賜ったことにはじまる。祁答院は伊佐郡の南部一帯にあたる。伊佐郡全域を任されたことになる。そして、平元衡(平信基の四男)が保元3年(1159年)8月15日に牛屎院へ下向し、土着したというのである。これが牛屎氏の始まりなんだそうな。

平信基は安芸判官平基盛(たいらのもともり、平清盛の次男)の子とされる(『三国名勝図会』より)。平基盛は保元の乱に従軍しているが、その時点で20歳に満たない若武者である。年齢から考えると、その子とされる平信基が従軍したとはともても考えられない。そして、孫にあたる平元衡がその直後に下向したというのも、まったく計算があわないのである。

伝わっている出自は……かなり怪しい。平清盛に無理やり系図をつなげて、家柄に箔をつけたのだろう。平元衡は「大平薩摩四郎元衡」と名乗った。大平というのは牛屎院内の地名で、そこを居住地としたことに由来するという。この「大平」をもとに平家の名門につながる系図をつくってみたのかもしれない。

大平基光(元光、おおひらもとみつ、元衡の孫)は、夢のお告げがあって「太秦(うずまさ、おおはた?)」姓に改める。おもむろに秦氏になった。じつはこっちのほうが真実に近いんじゃないか、という気もする。南九州の荘園は秦氏との縁がけっこう深いのである。島津氏も、もともとは秦氏後裔の惟宗(これむね)氏である。ほかにも大隅正八幡宮領の執印僧だった行賢(ぎょうけん)も惟宗氏だったりする。

平元衡の下向をはじまりとしているが、実際にはもっと古くから土着していた一族である可能性もありそうだ。そのことを裏付けるようなことはなく、あくまでも個人的な想像であるが。また、太秦姓改姓には島津氏への対抗意識もあったのかも。

その後の牛屎氏の歴史をちょっと追ってみる。

寿永元年(1182年)頃、大平元永(元衡の子)は京に出征していた(治承・寿永の乱、か)。牛屎院を留守にしている間に一族の赤田氏が反乱を起こし、牛山城にたてこもったという。そして、肥後国球磨(熊本県人吉市のあたり)の相良(さがら)氏と太良院の菱刈(ひしかり)氏が牛山を攻め落とした。大平氏(牛屎氏)は、牛屎院を一時失った。

文治3年(1187年)、源頼朝より大平基光(元光)に下文があり、牛屎院が本領安堵された。ただ、しばらくは牛屎院に戻らず、祁答院の樋脇城(ひわきじょう、薩摩川内市樋脇町)を居城としていた。そして13世紀初め頃、元衡から数えて7代目にあたる大平元尚が樋脇城から牛屎院の牛山城に移り、それ以降に牛屎氏を名乗るようになった。牛屎氏には分家も多く、篠原(しのはら)氏・柿木原(かきはら、かきのきはら)氏・山野(やまの)氏・羽月(はづき)氏などがある。

ちなみに、祁答院は鎌倉御家人の渋谷氏が地頭に補任され、その一族が下向して勢力を広げた。その過程で、大平氏(牛屎氏)は祁答院の支配権を失っていったのだろう。

 

 

菱刈氏と相良氏

牛屎院(牛山、大口)へは、たびたび菱刈氏と相良氏が侵攻してくる。時代によってはこの地の支配者にもなる。この両氏についても軽く触れておく。

菱刈氏は「悪左府」とも称された太政大臣の藤原頼長(ふじわらのよりなが)の後裔とされる。藤原頼長は保元の乱で戦死し、一族は没落した。頼長の三男を藤原隆長(たかなが)といい、その三男を隆重といい、さらにその三男を三郎坊といった。三郎坊は比叡山に入れられて「進士判官相印重妙」と号し、宇治の平等院に就学したという。そして、後白河上皇の院宣により還俗し、菱刈両院(太良院・牛屎院)の700町を拝領して菱刈氏を名乗るようになった。のちに源頼朝に本領を安堵され、建久4年(1193年)に重妙が下向したとされる。

……と伝わっているが、こちらもだいぶ怪しい。保元の乱のとき藤原頼長は36歳である。で、菱刈重妙の祖父とされる藤原隆長は15歳くらい。そして、重妙父とされる藤原隆重は戦死したそうだが、このとき何歳だろうか? さらに三郎坊は幼少だという理由で比叡山に入れられたそうな。年齢を見ていくと、計算が全然あわないのである。それに、三郎坊がなんで土地を賜ったのかも謎だ。

こんな出自であると称して、菱刈氏は太良院と牛屎院が自分のものであることを主張したのだろう。牛屎院の支配権をめぐって、院司の大平氏(牛屎氏)と抗争を繰り広げるのである。

【関連記事】薩摩・大隅に古くから住まう者たち (3) 行賢・執印氏・蒲生氏・矢上氏・長谷場氏・英祢氏・菱刈氏

 

相良氏は、藤原南家後裔の工藤氏の一族。名乗りは遠江国相良荘(さがらのしょう、現在の静岡県牧之原市相良のあたり)にちなむ。相良頼景(さがらよりかげ)は肥後国多良木荘(たらきのしょう、熊本県南部の球磨地方)を与えられ、肥後国に下向した(相良荘を没収されて追放されたとも)。その後、遠江国に残っていた相良長頼(ながより、頼景の子)も源頼朝の命で建久9年(1198年)に球磨郡人吉(ひとよし、熊本県人吉市)に下向し、相良氏は肥後に根を下ろした。

 

南北朝争乱期の牛屎氏

元弘元年(1331年)の後醍醐天皇の挙兵から時代が目まぐるしく動く。鎌倉の幕府が倒れ、建武の新政が始まったかと思ったらすぐに崩壊し、足利尊氏が新たに武家政権を起こす。後醍醐天皇も諦めが悪く、京から大和国吉野山(奈良県吉野郡)に逃げて、もうひとつの朝廷を立てる。京の北朝&幕府、吉野の南朝が対立。北朝方(武家方)と南朝方(宮方)に二分して日本中が内乱状態に突入した。

 

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南北朝争乱期には牛屎高元の名が確認できる。牛屎氏の8代当主にあたる。初めの頃は、北朝方についた守護の島津貞久(しまづさだひさ、島津氏5代)に従って転戦。島津氏の軍には牛屎一族の柿木原兼政や篠原国道の名も見える。

建武4年・延元2年(1337年)に足利尊氏が越前国金ヶ崎(かながさき、現在の福井県敦賀市)に新田義貞を攻めるが、この戦いにも牛屎高元は参陣している。

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(2) 後醍醐天皇は諦めない

 

康永元年・興国3年(1342年)に征西大将軍の懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、後醍醐天皇の第八皇子)が薩摩入りすると、南九州の南朝方が一気に勢いづく。この時点でも牛屎一族は島津貞久のもとで奮戦している。

ところが、牛屎氏は南朝方に転じる。時期は、観応の擾乱で状況が混沌とした頃(1349年~1352年頃)だろうか。幕府の混乱もあって南九州では南朝方がいよいよ優勢となっていた。文和4年・正平10年(1355年)に牛屎高元は市来氏など南朝方と連合して島津師久(もろひさ、貞久の三男、島津氏6代当主)の拠点である山門院(やまといん、鹿児島県出水市)を攻める。木牟礼城(きむれじょう、場所は出水市高尾野)や知識城(ちしきじょう、出水市知識)を急襲して島津氏を苦しめた。

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(5) 島津と畠山の抗争

 

その後、島津氏も南朝方に転じる。島津氏は日向国・大隅国に勢力を広げていた畠山直顕と対立しており、こちらを倒すことを優先させた。南朝方として牛屎氏は島津氏と共闘した。

島津氏は以降も北朝に戻ったり、また南朝についたりと立場をころころかえる。牛屎氏もまた、状況に応じて立ち回ったようだ。島津氏とは対立関係になることも少なくなく、康安元年・正平16年(1361年)に北朝方の島津師久が九州北部に援軍を進めようとしたところを南朝方の牛屎氏が邪魔をしたり、応安5年・文中元年(1372年)には牛屎氏が南朝方として薩摩郡の碇山城(いかりやまじょう、島津師久の本拠地、場所は薩摩川内市天辰町)を囲んだりしている。

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(6)今川了俊がやってきた

 

永和元年・天授元年(1375年)、島津氏久(うじひさ、貞久の四男、こっちも島津氏6代当主)が九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)と対立。島津氏は南朝方に寝返った。一方で、牛屎氏は幕府方である今川氏につく。島津氏と敵対し、日向国都之城(みやこのじょう、宮崎県都城市都島町)攻めにも参陣している。

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牛屎氏の没落、相良氏の領有

島津貞久は薩摩国守護職を島津師久へ、大隅国守護職を島津氏久へと分割して相続させた。これにより島津氏嫡流は総州家(そうしゅうけ)と奥州家(おうしゅうけ)に分裂する。14世紀末に南北朝の合一がなり、島津氏の宿敵であった今川貞世(今川了俊)が九州を去る。すると、総州家と奥州家が対立するようになる。この抗争は奥州家が制するが、今度は奥州家内で家督争いが発生し、南九州は混沌とした様相となっていく。

 

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島津氏の内紛に乗じて、南九州では反乱が絶えなかった。文安2年(1445年)頃には薩摩国北部で国一揆が蜂起する。これに牛屎氏も加わっている。

一方で、15世紀は島津氏から多くの分家が出てくる。薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・相州家(そうしゅうけ)・羽州家(うしゅうけ)・伯州家(はくしゅうけ)など。これらが台頭してくる中で、南九州の古参の国人衆の多くが領主として地位を失っていく。

宝徳年間(1449年~1452年)の頃に、相良長続(ながつく、相良氏11代)が牛屎院に侵攻して制圧する。長禄2年(1458年)には島津忠国(ただくに、島津氏9代)より牛屎院の領有を認められた。牛屎氏は所領を失った。その後、相良氏は肥後方面での戦いが激化したために牛山城を保つことが困難となり、牛屎院を島津氏に返還した。

なお、牛屎氏当主の牛屎歓元は、文正元年(1466年頃)に北原氏を頼って日向国飯野(いいの、宮崎県えびの氏)に身を寄せている。

【関連記事】戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(4)島津忠国と島津用久の対立

 

文明6年(1474年)に島津忠昌(ただまさ、島津氏11代)が若くして当主になると、国政を代行する国老衆と領主化した島津氏の分家が対立。薩州家・豊州家・相州家などが反乱を起こし、南九州は大乱の時代へと突入する。

相良為続(ためつぐ、相良氏12代)は反乱に同調し、文明8年(1476年)に薩州家とともに牛山を攻めた。牛山城を陥落させて、再びこの地を領有した。


島津氏羽州家の大口支配

明応8年(1499年)、相良長毎(ながつね、相良氏13代)は牛山を島津氏に返還する。この頃、相良氏は肥後国守護の菊池能運(きくちよしゆき)と戦っていた。相良氏は諸城を落とされて苦境にあり、本拠地の球磨の守備に戦力を集中することにしたのである。

島津氏は、羽州家の島津忠明(ただあき)を大口城主として守らせた。羽州家は島津久豊(8代当主)の四男の島津有久(ありひさ)より始まる分家である。長禄3年(1459年)に島津有久は日向国梅北(うめきた、宮崎県都城市梅北)を与えられるが、同年のうちに伊東氏との戦いで討ち死にする。羽州家2代の島津忠福は文明16年(1484年)に日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)の戦いで討ち死にしている。

分家を配置することで、島津氏としては不安定な牛山の領有をしっかりと確保しようとした。島津忠明は菱刈領主の菱刈氏から妻を娶り、こちらとの融和もはかった。

【関連記事】中世における島津氏の分家について、まとめてみた

 

菱刈氏が牛山を取る

11代当主の島津忠昌の時代から、島津氏本宗家は領内の統制に苦心する。そして、永正5年(1508年)には島津忠昌が思い詰めて自害してしまう。あとをついだ島津忠治(ただはる、忠昌の長男、12代当主)は若くして病死、島津忠隆(ただたか、忠昌の次男、13代当主)もほどなく病死。そして、養子に出していた忠昌の三男を本家に戻して当主に擁立した。14代当主は島津忠兼(ただかね、のちに島津勝久と改名)という。島津忠兼もまだ若く、乱れに乱れた領内を治める力はなかった。

そんな中でクーデターが起こる。大永6年(1526年)秋、国老衆の支持を集めて相州家の島津忠良(ただよし)が実権を握る。家督は島津忠良の嫡男に譲られ、元服して島津貴久(たかひさ)と名乗る。島津忠兼は隠居した(させられた)。だが、その翌年に薩州家が動く。相州家から実権を奪い、島津忠兼(島津勝久)を守護に復帰させた。それから薩州家と相州家が南九州の覇権を争うのである。

島津氏の内紛が続く中で、菱刈氏は力をつけていった。また、相良氏でも内紛が続いていたが、相良長唯(ながただ、相良義滋、よししげ、16代当主)が混乱を収拾。島津領内への勢力拡大の構えを見せる。

享禄2年(1529年)、羽州家の島津明久(あきひさ、忠明の嫡男、このとき16歳)が羽月大島村(現在の伊佐市大口大島のあたり)へ巡検に出ていたところ、菱刈氏が軍勢を差し向けた。急襲されて島津明久は戦死する。

そして、菱刈重州(ひしかりしげくに)と相良長唯(相良義滋)が手を組んでん牛山を攻める。島津忠明(羽州家)は急いで鹿児島に援軍を求めるが、薩州家と相州家の抗争の最中であった。援軍は来ない。

享禄3年(1530年)7月、菱刈・相良連合軍は牛山城(大口城)を囲む。島津忠明は防ぎきれず、城中で自害した。羽州家は当主全員が戦死したことになる。4代で断絶する。なお、のちに羽州家は再興され、大島氏を名乗った。

牛山城(大口城)には菱刈重州が入り、菱刈郡と牛山をあわせて支配する。菱刈氏は全盛期を迎えた。

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大口城の激闘! 島津義久vs.菱刈氏・相良氏

16世紀半ば頃に、島津氏の覇権争いは相州家が制した。島津貴久は当主の座をつかみ、正式に守護職にも任命された。薩摩国の中南部を制圧すると、西大隅や北薩摩の反抗勢力との戦いへ突入する。菱刈氏は島津氏についたり反抗勢力についたりと立ち回る。

天文23年(1554年)から弘治3年(1557年)にかけて、大隅国帖佐・加治木・蒲生(ちょうさ・かじき・かもう、現在の鹿児島県姶良市の一帯)で戦いがあった。「大隅合戦」と呼ばれるもので、岩剣城(いわつるぎじょう)の戦いに始まって蒲生城の陥落で幕を閉じた。反島津連合軍は蒲生範清(かもうのりきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ、渋谷一族)を中心に、入来院重嗣(いりきいんしげつぐ、渋谷一族)や北原兼守(きたはらかねもり)、そして菱刈隆秋(たかあき)も加わった。島津貴久は総力を結集して攻め、苦労しながらも勝利をもぎ取る。

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島津貴久は西大隅を平定し、日向国真幸院にも勢力を広げた。真幸院には島津忠平(ただひさ、島津義弘、よしひろ、島津貴久の次男)が入っていた。

菱刈重猛(ひしかりしげたけ)は、島津氏に従属。また、出水の薩州家より妻を迎えていてこちらとのつながりも強かった。

永禄9年(1566年)に島津貴久は隠居し、家督を嫡男の島津義久(よしひさ)に譲った。当主となった島津義久は、伊東氏が領する日向国三山(みつやま、宮崎県小林市)を攻めるが敗れる。菱刈氏から伊東氏に島津氏の動きが伝えられ、それが敗因になったとも(『樺山玄佐自記』より)。

永禄9年には菱刈重猛が亡くなる。嫡男の鶴千代(のちに菱刈重広)はまだ幼く、菱刈隆秋(重猛の弟)が実権を握った。菱刈氏は相良氏と姻戚関係を結んでいて、菱刈隆秋は相良義陽(さがらよしひ)と手を組んで島津氏に反抗する。また、この頃は相良氏が大口城を有している。

永禄10年(1567年)、島津貴久・島津義久は菱刈氏を攻める。11月、島津忠平(島津義弘)・新納忠元(にいろただもと)らが真幸院から侵攻。馬越城(まごしじょう、伊佐市菱刈町前目)に夜襲をかけて落とす。奇襲に驚いた菱刈氏は本拠地である太良城(たらじょう、伊佐市菱刈町南浦)をはじめ湯之尾・市山・青木・曽木・山野・羽月・平和泉などの諸城を放棄して相良氏とともに大口城に籠城した。島津貴久・島津義久は馬越城に入り、大口城を攻めた。

攻城戦は長引く。永禄11年1月には大口城から相良・菱刈軍が撃って出て、島津忠平(島津義弘)が寡兵で交戦する。家老の川上久朗(かわかみひさあき)は島津忠平(島津義弘)を守るために奮戦し、重傷を負って3日後に亡くなった。

戦況が悪化する中で、島津氏は和睦を画策する。永禄12年(1569年)1月末に和睦は成ったが、すぐに破談した。

5月、大口城を包囲する島津氏が決戦を仕掛ける。島津家久(いえひさ、貴久の四男)が荷駄隊に扮して出撃。大口城から兵を出撃させるのが狙いだった。相良氏・菱刈氏は兵を出し、荷駄隊に襲いかかった。島津家久は敗走する……と見せかけて誘い込む。伏兵が敵軍を取り囲み、殲滅した。これが籠城戦の決定打となった。ちなみに、これは島津氏がたびたび用いた作戦である。「釣り野伏せ(つりのぶせ)」と呼ばれている。

大口城は9月に開城。菱刈氏は降伏した。菱刈隆秋は相良氏を頼って人吉に落ちた。菱刈鶴千代(菱刈重広)はわずかに本城(太良)と曽木のみが安堵された。天正2年(1574年)に菱刈重広が薩摩国伊集院(いじゅういん、日置市伊集院)に移された。菱刈の支配者としての歴史に幕を閉じる。

 

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新納忠元が大口城主に

大口は島津氏の直轄領となり、新納忠元が大口城主となった。

新納氏は島津氏の支族で、日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)の領主であった。15世紀の初め頃に周囲の島津氏豊州家・北郷(ほんごう)氏・肝付(きもつき)氏と対立。天文7年(1538年)に攻め込まれて、領主の地位を失った。新納忠元はその庶流である。

【関連記事】志布志城跡にのぼってみた<新納氏について>

 

忠元の父は新納祐久(すけひさ)という。志布志領主の新納忠勝に仕えていたが、前述のとおり新納氏は没落する。一族は離散した。新納祐久は叔父の新納忠澄(にいろただすみ、島津忠良に学問を教えた人物でもある)のつてで相州家に仕えることになった。新納忠元はこのとき13歳だった。

新納忠元は島津忠良や新納忠澄の薫陶を受けて成長した。戦国島津氏の主力として戦功を重ねる。

大口城主となったあとも、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いに援軍を出したり、天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)に出征したり、天正7年(1579年)からの水俣城攻防戦に出向いたりと大忙しである。

天正11年(1583年)の沖田畷の戦いの際には嫡男の新納忠堯(ただたか)が出陣し、戦死している。

天正14年(1586年)に島津氏は豊後国(現在の大分県)の大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮、よししげ)を攻める。大友氏は関白の豊臣秀吉に助けを乞い、豊臣政権から島津氏に対して停戦を命じた。しかし、島津氏は無視して大友攻めを敢行。豊臣家の大軍が九州に遠征してくるのである。

島津氏は抗戦するも次第に押し込まれ、天正15年(1587年)5月1日に島津義久は降伏する。だが、島津義弘と新納忠元は徹底抗戦を主張して降伏しなかった。

島津義弘は兄の説得を聞き入れ、5月22日に降伏した。新納忠元はそれでも大口城の守りを固め、豊臣軍との戦いに備えていた。豊臣軍は遠征のために兵は疲れ、食糧も乏しくなっていた。そこで、新納忠元は敵方に米を送った。「是を食して戦を励まし来り攻べし(これを食べて大口城に押し寄せるといい、相手をしてやるから)」(『三国名勝図会』より)と伝えたという。

豊臣秀吉はなおも降伏を勧告する。しかし、新納忠元は応じない。5月24日に豊臣秀吉は大口城南の天堂ヶ尾に陣取った。大口城に使者を出し、「御両殿トモニ御指出之上ハ弓箭不可然之由(御両殿[島津義久と島津義弘]が人質を出しているのだから、ここで戦えば主君に敵対したことになるぞ)」(『本藩人物誌』より)と告げた。新納忠元は折れる。降伏することにした。新納忠元は剃髪して天堂ヶ尾へ。豊臣秀吉のもとに出頭して許された。また、豊臣秀吉は新納忠元の忠勇を賞した。なんだか気に入られたようである。

引き続き、新納忠元は大口城主を務めた。老齢ながらも島津氏のために尽くし、慶長15年(1611年)に85歳で亡くなった。


島津義久の居城になりかける

天正15年(1587年)から翌年にかけて島津義久が上洛する。島津義弘も天正16年に上洛した。当主もその弟も不在となり、両人は国許の諸事は新納忠元に任せたという。そして、島津義久の帰国が決まり、帰国後の居城を大口城とすることが決まった。島津義弘が書状を新納忠元に送って普請を依頼している。新納忠元は家臣の丸田仲右衛門を総奉行として築城を急いだ。

島津義久は天正16年10月に帰国する。大口城は完成まであとわずかというところであったが、島津義久の大口城入りは中止となった。

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

『大口市郷土誌 上巻』
編/大口市郷土誌編さん委員会 発行/鹿児島県大口市長大樅利夫 1981年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか