ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

伊作城跡にのぼってみた(2)、海蔵院跡と多宝寺跡にも立ち寄る

伊作城(いざくじょう)跡へもう一度いってきた。場所は鹿児島県日置市吹上町中原。島津氏支族の伊作氏が拠点とした城だ。

ここは戦国大名としての島津氏のはじまりの場所でもある。伊作城で生まれた島津忠良(しまづただよし)は、分家の生まれでありながら本宗家の実権を握る。そして、子や孫が南九州に勢力を広げていくことになるのだ。島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)が生まれた城でもある。

伊作城の詳細についてはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

まえの訪問では亀丸城(かめまるじょう、本丸にあたる)・蔵之城(くらのじょう)・山之城(やまのじょう)などを散策。だが、規模が大きいこともあって、まわりきれず。見ていないところがなんだか気になるのだ。てなわけで再登城! 花見城と御仮屋城の遊歩道に踏み入った。

また、伊作城近くの海蔵院(かいぞういん)跡と多宝寺(たほうじ)跡もあわせて紹介する。

 

まずは大手と花見城のほうへ

駐車場から下のほうへ。本丸である亀丸城の前に大きな土塁と空堀がある。ここを下っていくと花見城方面への遊歩道がある。また、林道に沿って下りていっても行ける。林道をさらに下れば、山之城を下からうかがう遊歩道の入口もある。

高い土塁と深い空堀

亀丸城入口前の土塁と空堀

曲輪跡を突っ切る林道

こっちは林道、左側は山之城

 

看板に従って遊歩道に入っていく。崖に沿って行く感じだが、整備は行き届いて歩きやすい。

遊歩道と案内看板

写真上の遊歩道を左へ進む

森の中を歩く

花見城方面への遊歩道

 

しばらく進むと大空堀に到着する。大空堀の途中には狭くなった場所がある。ここが大手(城の玄関口)だ。大手を抜けて登っていくと、花見城・西之城を経て御仮屋城のほうへつながっているそうだ。ただ、現在は道がない。治山工事をしているところを見ると崩れているのだろうか。

大空堀と大手口

伊作城の大手

山中に大空堀の痕跡

大手から城外のほうを見下ろす

 

大手前から大空堀を越えて遊歩道はさらに進む。だが、しばらく行くと薮になっていた。このあたりが花見城跡か。

曲輪の痕跡か

花見城の下のあたりだと思われる


御仮屋城のその先へ

来た道を引き返す。遊歩道の入口のところまで戻り、亀丸城方向を見ると上に向かう遊歩道が見える。ここを登っていくと御仮屋城や亀丸城のふもとの林道に出る。

森の中の遊歩道

上へ向かう

木々に覆われた曲輪跡

御仮屋城の曲輪跡

 

前回は入口付近で引き返した御仮屋城の奥へ向かってみる。ちょっと薮になっていたが、その先に急傾斜を下る遊歩道があった。行ってみる。御仮屋城の外郭部をぐるりと回っていくような感じ。木や竹が茂っていて視界はよくないが、崖地形も近いのか木々の隙間から民家の屋根なんかも見える。険しい地形を体感できた。伊作城に攻め入った兵士の気持ちがわかったような気もする。ずっと奥へと進んでいくと水道関連の施設があった。ここで行き止まり。

険しい遊歩道

ロープをつたって下りる

竹林に続く遊歩道

御仮屋城の縁を回り込む

 

海蔵院跡、島津忠良の学問所

伊作城の南側に願成就寺海蔵院(がんじょうじゅじかいぞういん)跡はある。応永5年(1398年)に伊作久義(いざくさよし、伊作氏4代当主)が創建。かなり規模の大きな寺院だったと伝わり、全盛期には12の坊舎があったという。

石造りの記念碑

海蔵院跡碑、大正時代に建てられたもの

森の中に石塔が並ぶ

海蔵院跡の石塔群

 

明応7年(1498年)、島津忠良(しまづただよし、幼名は菊三郎)は7歳で海蔵院に入った。8代住職の頼増(らいぞう)のもとで学問を納めた。

【関連記事】戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(8)守護支配の崩壊、乱世に島津忠良が誕生

 

願成就寺海蔵院は明治初期に廃寺となった。現在は石塔などが残る。寺院跡の入口付近には仁王像もあり。鳥居には「明治十年(1877年)」と刻字されている。

古い鳥居と仁王像

海蔵院の仁王像と南方神社の鳥居

 

鳥居から参道がまっすぐ伸びていて、その途中に「海蔵院跡」碑が立つ。さらに奥へ向かうと南方神社(みなかたじんじゃ)と稲荷神社が鎮座している。

鹿児島では「諏訪神社」を「南方神社」と称することが多い。御祭神の一柱であるタケミナカタノミコトは「建御名方」という漢字が当てられているほか、「武南方」と書かれたりもする。

島津氏は諏訪神社(南方神社)は守護神としている。12世紀末頃から島津忠久(ただひさ、島津氏初代)は南九州に地盤を築くが、鎌倉幕府から信濃国にも所領を得ている。文治2年(1186年)に塩田荘(しおだのしょう、長野県上田市のあたり)の地頭に、さらに承久3年(1221年)には太田荘(おおたのしょう、長野市のあたり)の地頭にも補任される。そんな縁もあって諏訪の二柱(コトシロヌシ・タケミナカタ)を崇敬した。文治5年(1189年)に島津忠久が奥州合戦に参加した際には、諏訪大社に戦勝祈願して活躍を得たとも伝わる。14世紀になって島津貞久(さだひさ、5代当主)が諏訪大社より勧請して薩摩国内に諏訪神社を創建。薩摩や大隅では諏訪信仰が盛んになった。

【関連記事】島津忠久って何者なの?

【関連記事】『島津国史』に見る島津忠久の経歴

 

天文7年12月(1539年1月)に島津忠良は加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)を攻めて敗れ、加世田の諏訪大明神の祠の中に隠れて追撃の兵をやりすごした。このときの縁故を由来として、かつては神前で流鏑馬が催されたそうだ。また、太鼓踊りの奉納もあり、こちらは現在も続いている。

【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(4)相州家の復権、島津忠良・島津貴久は南薩摩を平定

 

稲荷神社も島津氏の守護神である。島津忠久は稲荷神の狐火に照らされて誕生した、という伝説もあったりする。伊作の稲荷神社は、もともとは伊作城内の西之城に鎮座していたが、島津貴久(たかひさ、忠良の嫡男、島津氏15代当主)が海蔵院近くに遷座したとされる。『三国名勝図会』には「白狐の奇験ありといへり」とも記される……これは何だろう?


多宝寺跡、伊作氏の菩提寺

多宝寺跡は伊作城の西側にある。現在は石亀神社となっていて、神社の裏手に伊作氏の歴代当主の墓がある。多宝寺は明徳元年(1390年)に伊作久義が創建したと伝わる。伊作氏の菩提寺とし、寺院に累代の位牌を納め、境内に石塔も建てられた。なお、慶長13年(1608年)の洪水のために山が崩れて建物が埋まり、多宝寺に関する記録はほとんど失われているという。

墓塔は島津久長(ひさなが、伊作氏初代)・島津宗久(むねひさ、2代)・伊作久義(4代)・伊作勝久(かつひさ、5代)・伊作教久(のりひさ、6代)・伊作犬安丸(7代)・伊作久逸(ひさいつ、8代)・伊作善久(よしひさ、9代、忠良の父)と歴代当主のものがある。歴代当主のほかには常盤(ときわ、島津忠良の母)・お西様(忠良の三女)なども眠る。

寺院跡の立派な墓

階段の上に歴代当主の墓

寺院跡の墓塔群

こちらには伊作久逸・常盤・お西様の墓

 

なお、3代の島津親忠(ちかただ)の墓は天徳寺跡(こちらも伊作城の近隣)に、島津忠良の墓は加世田の常潤院跡にある。

 


<参考資料>

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか