ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(2) 後醍醐天皇は諦めない

大混乱の南九州の南北朝争乱の2回目! 「南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(1)」では、足利(あしかが)氏の政権樹立まで頃の南九州の状況を取り上げた。鎌倉幕府滅亡、建武政権樹立と崩壊、足利尊氏(あしかがたかうじ)の挙兵と挫折と復活劇と政権樹立……というように数年の間に急展開で歴史が動いた時代であった。

 

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足利尊氏が京を制圧し、後醍醐天皇皇位を退く。……だがしかし、これで決着しないのである。南九州もドロドロの乱世にずぶすぶとハマりこんでいくことになる。

前回に引き続き、『島津国史』(19世紀初め頃に鹿児島藩薩摩藩)が編纂した正史)に沿って南九州の動き見ていく。元号については北朝南朝のものを併記。日付は旧暦で記す。


南朝方へまわるもの多数あり

建武3年12月21日(1337年1月)
後醍醐天皇は京の幽閉先を脱出し、吉野に入った。そして独自に朝廷を開く。これより吉野にある大覚寺統の朝廷を「南朝」、京にある持明院統の朝廷を「北朝」という。

建武4年・延元2年(1337年)1月18日
一方、足利尊氏との戦いに敗れた新田義貞(にったよしさだ)は、越前国金ヶ崎城(かながさきじょう、現在の福井県敦賀市)に落ちていた。恒良親王(つねよししんのう、後醍醐天皇の皇子で皇太子)と尊良親王(たかよししんのう、後醍醐天皇の皇子)をともなっての都落ちだった。足利方は足利高経(斯波高経、しばたかつね、足利家の一門)や高師泰(こうのもろやす)らを派遣し、金ヶ崎城を攻める。

この戦には、島津貞久の名代として島津頼久(川上頼久、かわかみよりひさ、島津貞久の庶長子)が出陣した。また、足利直義(あしかがただよし、尊氏の弟)から本田久兼(ほんだひさかね、島津家の重臣)にも出陣要請があったが、病のために代わりに弟の資兼(すけかね)がつかわされた。ほかに、莫禰重貞・莫禰成長・執印友雄・牛屎高元なども従軍した。

同じ頃、九州では肝付兼重がたてこもる日向国三俣院の高城(場所は宮崎県都城市高城町)攻めも続いていた。畠山直顕(はたけやまただあき)の指揮のもとに、禰寝清成・禰寝清種・禰寝清道。柿木原兼政・結城行郷・土持重綱(日向国北部の国人)・大隅守護代の森行重・長谷場久純らが戦った。肝付兼重軍はよく守り、城はなかなか陥落しない。

建武4年・延元2年(1337年)3月6日
越前国金ヶ崎城が陥落する。尊良親王は自害し、恒良親王は捕らわれた。新田義貞は逃亡する。

建武4年・延元2年(1337年)3月17日
南朝方の侍従である三条泰季(さんじょうやすすえ)が薩摩国の揖宿(指宿、いぶすき)に入る。後醍醐天皇懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、後醍醐天皇の皇子)を征西大将軍とし、九州方面に派遣しようとしていた。三条泰季はその先遣として薩摩入りしたのだ。これを機に、南朝方についた国人も少なくなかった。そのおもな顔ぶれはつぎのとおり。

伊集院忠国(いじゅういんただくに、島津忠国
薩摩国伊集院(いじゅういん、現在の鹿児島県日置市伊集院)を本拠地とする。島津氏の一族。なお、『島津国史』では「大隅助三郎」の通称で登場するが、建武4年4月27日の条ではこの人物を伊集院忠親(忠国の父)と説明している。同年7月21日以降に「忠国」の名が出てくる。当初は父の忠親が中心となって動いていた、とも考えられる。

指宿忠篤(いぶすきただあつ)
薩摩国揖宿郡(いぶすき、現在の指宿市)の郡司。薩摩平氏の一族。

谷山隆信(たにやまたかのぶ)
薩摩国溪山郡(たにやま、現在の鹿児島市谷山)の郡司。薩摩平氏の一族。

知覧忠世(ちらんただよ?)
薩摩国知覧院(ちらんいん、現在の南九州市知覧)の郡司。薩摩平氏の一族。

鮫島家藤(さめしまいえふじ?)
薩摩国阿多郡南方(現在の南さつま市金峰)の地頭。工藤氏の一族で、もともとは鎌倉御家人の家柄。

市来時家(いちきときいえ)
薩摩国市来院(いちきいん、現在のいちき串木野市市来・日置市東市来)の郡司。島津氏と同じ惟宗姓。市来氏は宝亀年間(770年~781年)に土着したという。

矢上高純(やがみたかすみ)
薩摩国鹿児島郡(現在の鹿児島市)の郡司。名は「高澄」とも。藤原純友(ふじわらのすみとも)の後裔を称する。同族の長谷場(はせば)氏や中村氏とともに南朝方に呼応。

渋谷(しぶや)一族
薩摩国北部に大きな勢力を持つ一族。それぞれの所領から、高城(たき)氏・鶴田(つるだ)氏・祁答院(けどういん)氏・入来院(いりきいん)氏・東郷(とうごう)氏を名乗った。一族の中で南朝側についた者には渋谷吉岡孫三郎(祁答院氏の一族か)や渋谷経重(鶴田経重)の名が見える。

肝付兼重(きもつきかねしげ)
大隅国肝属郡高山(こうやま、現在の肝属郡肝付町高山)を本拠地とする。大隅国日向国に大きな勢力を持つ。当時は、日向国三俣院で交戦中。

 

対する北朝方のおもな武将はつぎのとおり。

島津貞久(しまづさだひさ)
守護。引き続き足利政権に味方し、南九州方面の南朝勢力との戦いを任される。ただし、自身は京に滞在していた。

島津頼久(川上頼久、かわかみよりひさ)
貞久の庶長子。貞久にかわって薩摩で南朝勢力との戦いの指揮をとった。

島津宗久(しまづむねひさ)
島津貞久の嫡男。

島津宗久(伊作宗久、いざくむねひさ)
島津氏庶流の伊作氏の当主。貞久の従兄弟にあたる。本家にも島津宗久がいるのでややこしい。『島津国史』では法号の「島津道恵」で記載。薩摩国伊作荘(いざくのしょう、現在の日置市吹上)の地頭職。

島津久長(伊作久長、いざくひさなが)
宗家3代当主・島津久経の次男。貞久の叔父にあたる。息子の島津宗久(伊作宗久)にかわって伊作荘の留守を守っていた。ちなみに、島津久長弘安の役(1281年)でも元軍を相手に活躍し、その後は沿岸警固にも従事している。戦の経験はかなり豊富だ。

島津忠能(山田忠能、やまだただよし)
島津氏一門。薩摩国溪山郡山田郷(現在の鹿児島市山田)の地頭。貞久に従って転戦する。

島津大隅式部亀三郎丸(山田友久、やまだともひさ)
島津忠能(山田忠能)の弟で、のちに友久と名乗る。兄にかわって留守を守っていたと思われる。

島津実忠(和泉実忠、いずみさねただ)
薩摩国和泉郡(現在の鹿児島県出水市)を本拠地とし、給黎院(現在の鹿児島市喜入)にも所領を持つ。貞久の弟。名は「忠氏(ただうじ)」とも。

町田助久(まちだすけひさ)
島津氏庶流の伊集院氏の一族。伊集院忠国の叔父にあたる。伊集院一族は南朝北朝にわかれる。

石原忠光(いしはらただみつ)
島津氏庶流の伊集院氏の一族。伊集院忠国の弟。

本田久兼(ほんだひさかね)
島津氏の重臣鎌倉時代の初め、島津忠久の代官として本田親恒(ちかつね)が薩摩に下向したのが始まり。一族は守護代を務める。本田氏は桓武平氏の流れをくむ関東武士で、親恒は畠山重忠の家臣だったという。

酒匂久景(さこうひさかげ)
島津氏の重臣薩摩国守護代鎌倉時代の初めに酒匂景貞(さこうかげさだ)が島津忠久の代官として薩摩に下向したことにはじまる。酒匂氏は相模国(現在の神奈川県)にあった桓武平氏・梶原氏の庶流で、梶原景時(かじわらかげとき)とは同族。

執印(しゅういん)氏
新田宮(薩摩川内市の新田神社)の執印職を世襲する。島津氏と同じ惟宗姓。国分氏も同族で、市来氏とも縁がある。

宮里(みやざと)氏
薩摩国薩摩郡宮里(現在の薩摩川内市宮里町)に所領を持っていた。権執印(ごんしゅういん)氏とも呼ばれる。新田宮の権執印職を世襲する一族でもある。本性は紀(き)氏

莫禰(あくね)氏
薩摩国北部の莫禰院(あくねいん、現在の阿久根市)の国人。平安時代から土着する古い一族。島津荘を開拓した平季基(たいらのすえもと)の後裔とも伝わる。

比志島(ひしじま)氏
薩摩国満家院比志島(みつえいんひしじま、現在の鹿児島市皆与志)を本拠地とする。志田義広(しだよしひろ、源義広)の後裔を称する。

禰寝(ねじめ)氏
大隅国禰寝院南俣(ねじめいんみなみまた、現在の南大隅町根占)に古くから土着している一族。平重盛の後裔を称するが、もともとは建部姓。おもに畠山直顕の指揮下で大隅・日向方面で戦う。

牛屎氏
読みは「うしくそ」「うぐつ」「ねばり」など諸説あり。薩摩国北部の牛屎院(現在の伊佐市大口)に土着した一族。大秦(太秦、おおはた、うずまさ)姓を称する。

柿木原氏
読みは「かきはら」、あるいは「かきのきはら」か。大隅国菱刈郡・薩摩国牛屎院(現在の伊佐市)のあたりにゆかりのある国人か。

重久(しげひさ)氏
大隅国曽於郡重久(そおぐんしげひさ、現在の霧島市国分重久)の国人。税所(さいしょ)氏の一族。

渋谷(しぶや)一族
一族のうち、渋谷重棟(高城重棟)・渋谷重幸(東郷重幸、名は「氏重」とも「氏親」とも)・渋谷平次郎は北朝方に名が出てくる。

畠山直顕(はたけやまただあき)
足利氏一門。日向国方面の大将として南朝方掃討の任を追う。

ほかに、大寺彌六・大田六郎次郎・延時忠能・河田慶喜・吉田清秋・東条尚元といった名も出てくる。

なお、ここに挙げたのは建武4年頃のもの。敵方に寝返る者もあり、様相は変わっていく。

 

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薩摩南部から戦火広がる

建武4年・延元2年(1337年)4月27日
足利直義は薩摩の南朝方国人の討伐を、島津頼久(川上頼久)と島津宗久(伊作宗久)に命じる。薩摩の渋谷平次郎・莫禰成長・大寺彌六・大田六郎次郎にも協力するよう要請があった。

薩摩では、京から帰国した島津頼久(川上頼久)が南朝方との戦いの指揮をとることになる。

建武4年・延元2年(1337年)6月11日
南朝方の益山四郎・古木彦五郎(ともに薩摩平氏の一族)らが薩摩国伊作荘中原(現在の日置市吹上)に攻め入る。島津久長(伊作久長)・島津大隅式部亀三郎丸らが迎え撃った。

建武4年・延元2年(1337年)7月21日
南朝方の伊集院忠国・鮫島家藤・谷山隆信・市来時家・知覧忠世・矢上高純らが伊作荘を攻撃。島津久長(伊作久長)・島津大隅式部亀三郎丸が阿多郡高橋口(現在の南さつま市金峰町高橋)で迎え撃った。

建武4年・延元2年(1337年)7月27日
島津頼久(川上頼久)が町田助久を軍奉行として、南朝方の市来時家がたてこもる市来城’(現在の日置市東市来)を攻撃。島津大隅式部亀三郎丸や莫禰成長らも攻め手に加わった。

29日には宮里正永(権執印正永)・宮里種正(権執印種正)・延時忠能・河田慶喜らも合流し、市来城を囲んだ。

建武4年・延元2年(1337年)7月28日
京にて、島津貞久が吉野攻撃への出陣を命じられる。

建武4年・延元2年(1337年)8月10日
延時忠能らが市来院内の石走で市来時家軍と戦う。

建武4年・延元2年(1337年)8月14日
延時忠能・石原忠充らが市来院内の赤崎に夜襲をかける。

建武4年・延元2年(1337年)9月14日
伊集院忠国が市来城に救援の兵を差し向けた。島津頼久(川上頼久)・莫禰成長らが伊集院郡本(現在の日置市伊集院)でこれを迎撃し、市来城に戻って再び城を囲む。

建武4年・延元2年(1337年)9月17日~27日
市来院において数十戦におよぶ。

市来城の援軍として、三条泰季が指宿氏の兵とともに来襲する。島津大隅式部亀三郎丸・莫禰成長・比志島範経・延時忠能・町田助久・河田慶喜らがこれを防いだ。この戦いで、伊作家家臣の東条尚元に戦功があったという。比志島範経、莫禰貞友・莫禰乙房丸(ともに莫禰成長の息子)は戦死。

 

鹿児島の城跡

市来城(鶴丸城)跡の本丸

鹿児島の城跡

鶴丸城にある市来氏の顕彰碑

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建武4年・延元2年(1337年)10月11日
島津貞久・本田久兼が大和国(現在の奈良県二上城攻めに出兵し、味噌路越の戦いで功あり。この戦いの詳細はよくわからない。

建武4年・延元2年(1337年)10月18日
南朝方の矢上高純が、北朝方の比志島城(現在の鹿児島市皆与志にあった)を攻撃。比志島氏は寡兵で防ぎ、吉田清秋(大隅国吉田院の国人、吉田院は比志島と近隣)の援軍もあって撃退した。

建武4年・延元2年(1337年)11月29日
南朝方の肝付兼重・野辺盛忠(のべもりただ、日向国櫛間院の御家人)・伊集院忠国・谷山隆信・矢上高純・知覧忠世らが、大隅国橘木城(たちばなきじょう、現在の霧島市国分重久)の重久篤兼を攻撃。

鹿児島の城跡

橘木城跡の尾根の一部、日当山方面から見る

 

建武5年・延元3年(1338年)3月14日~18日
14日夜、南朝方の渋谷吉岡孫次郎入道(祁答院氏の一族)が大隅国の日当山城を奪い、ここに入る。大隅国守護代の森行重がこれを攻めた。18日、南朝方の肝付兼重・野辺盛忠らが呼応して攻めてくるが、重久篤兼が橘木城・姫木城・荒瀬城から兵を出して対応。敵を撤退させた。20日南朝方は橘木城を攻撃。北朝方は姫木崎で応戦し、敵を撃破する。

建武5年・延元3年(1338年)3月16日
本田久兼が天王寺・安部野の戦いに従軍。戦場は現在の大阪市天王寺阿倍野のあたり。北畠顕家軍との合戦だと思われる。

建武5年・延元3年(1338年)4月17日
島津宗久(貞久の嫡男)・本田久兼が兵庫(現在の兵庫県神戸市か?)の戦いに出兵。

建武5年・延元3年(1338年)6月2日
島津宗久(貞久の嫡男)・本田久兼が湊河城(現在の兵庫県神戸市か?)の戦いに従軍。

建武5年・延元3年(1338年)6月27日
島津宗久(貞久の嫡男)・本田久兼が八幡(京都府石清水八幡宮か?)の戦いに従軍。

建武5年・延元3年(1338年)7月11日
畠山直顕が日向国の肝付兼重の勢力を攻める。禰寝清成・禰寝清種・禰寝清道らを遣わして、南郷大和田城を攻める。

建武5年・延元3年(1338年)8月11日
足利尊氏征夷大将軍に任じられる。8月28日に「暦応」に改元

暦応2年・延元4年(1339年)4月13日
北朝方の禰寝清成・禰寝清種・禰寝清道らが、日向国の大和田城を陥落させる。また、上財部城も攻撃する。

暦応2年・延元4年(1339年)4月21日
南朝方の伊集院忠国が、配下の村田如巌らを遣わして薩摩国給黎院(現在の鹿児島市喜入)の上籠城と網屋城を攻める。給黎院領主の島津実忠(和泉実忠)の代官が守っていたが、城は落とされる。

暦応2年・延元4年(1339年)6月1日
南朝方の渋谷経重(鶴田経重)・村田如巌らが、薩摩国祁答院の温田城(「湯田城」のことか、湯田城は現在の薩摩郡さつま町湯田)を攻撃。温田城は渋谷重棟(高城重棟)が守っていた。南朝方は城を落として奪う。2日、渋谷重幸(東郷重幸)が牛屎・和泉・山門・莫禰(いずれも薩摩北部)の衆を率いて温田城の奪還をはかるが、南朝方の抵抗の前に敗走した。

暦応2年・延元4年(1339年)6月20日
渋谷経重(鶴田経重)らに南薩摩から北上してきた谷山隆信・鮫島家藤らが合流し、さらに肥後国の相良氏の援軍も得る。南朝方連合軍が薩摩国薩摩郡平佐の碇山城(いかりやまじょう)に攻めかかった。

碇山城は島津貞久の本拠地である。詳細な時期はわからないが、この頃に山門院の木牟礼城(きのむれじょう、現在の出水市高尾野)から拠点を移している。

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碇山城跡の保食神社と日枝神社

鹿児島の城跡

社殿の横に「碇山城址」標柱

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碇山城遠景、山城の痕跡が一部残る

 

碇山城には守護代の酒匂景貞があり、延時法彿・河田慶喜らと防戦する。石原忠充や市来小太郎らが救援に駆け付け、新田宮(新田神社)からの援兵もあり、城を守り抜く。南朝方の軍は薩摩国入来院の淵上城(現在の薩摩川内市楠元町)に撤退した。

 

戦いはまだまだ続く。

 

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<参考資料>
『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

『鹿児島県の歴史』
著・発行/鹿児島県社会科教育研究会 高等学校歴史部会 1958年

鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
※『島津家文書』などからの抜粋を収録

『松元町郷土誌』
編/松元町郷土誌編さん委員会 発行/松元町長 九万田萬喜良 1986年

『郡山郷土史
編/郡山郷土誌編纂委員会 発行/鹿児島市教育委員会 2006年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

『新薩摩学 中世薩摩の雄 渋谷氏』
編/小島摩文 発行/南方新社 2011年

ほか