薩摩住まいは3代目から? 4代目から?
島津氏初代の忠久(ただひさ)、2代目の忠時(ただとき)は鎌倉にあり、領国経営は代官に任せていた。
薩摩に島津氏が本格的に入ってくるのは、3代目の島津久経(ひさつね)からだとされる(諸説あり)。きっかけは元寇であった。建治元年(1275年)に、幕府の命令で島津久経は九州北部の防備にあたる。弘安4年(1281年)に元軍が襲来した際にも、大いに活躍したようだ。
島津久経は筑前国の箱﨑で死去した。下向といっても、北部九州での滞在がほとんどだったと思われる。4代忠宗(ただむね)や5代貞久(さだひさ)の時代に、南九州への土着化はより進んでいくことになる。
島津氏が最初に薩摩で拠点としたのは山門院(現在の鹿児島県出水市の西部)。これは島津忠久の下向伝承の地と同じである。
出水市知識に鎮座する箱﨑八幡神社の創建には2つの説が伝わる。ひとつは、島津忠久が薩摩入りする際に海が荒れ、筑前国(現在の福岡県)の筥崎宮(はこざきぐう)に願をかけて難を逃れたことから勧請した、というもの。もうひとつは、島津久経が元軍との戦いの前に筥崎宮に戦勝祈願して活躍できたことから勧請した、というもの。
ちなみに、出水市野田の感応寺に隣接して、筥崎八幡神社がある。当初は野田に勧請され、16世紀に知識のほうに移された。
島津氏の支流
鎌倉時代には島津氏の分家も数多く出てきている。鎌倉期の当主は5人いて、みんなけっこう長命である。そして子だくさんでもあった。島津氏当主は兄弟・子供・孫を各地の所領へと送り込んだ。薩摩や大隅には郡司系国人をはじめ島津氏に従わない者もまだまだ多かった。領国経営で信用のおける血縁者を頼みにしたのだろう。
この頃に成立したおもな分家について、ちょっとまとめてみた。
島津氏・越前家
島津忠久の次男の忠綱が、越前国(現在の福井県東部)の守護代に任じられたことに始まる。越前家はのちに播磨国(現在の兵庫県)にうつる。播磨国に定着するも、戦国時代には衰退してしまう。その後、元文元年(1737年)に22代当主の島津継豊(つぐとよ)が、弟の忠紀(ただのり)に越前家の名跡を継がせて復興させた。その領地は重富郷(しげとみごう、現在の姶良市脇本のあたり)と呼ぶようになるが、これは越前国の地名にちなむ。重富島津家とも呼ばれ、御一門家の筆頭格という分家の中では最上位の家格とされた。ちなみに、重富家の5代目が島津久光(ひさみつ、本家からの養子)である。
山田氏(やまだ)
島津忠時の庶長子・忠継(ただつぐ)を祖とする。鎌倉時代初めに薩摩国谿山郡山田(現在の鹿児島市皇徳寺・山田)に下向したことに始まる。忠継の子の忠真(ただざね)は谿山郡の地頭に任じられた。
阿蘇谷氏(あそたに)
島津忠時の六男・久時(ひさとき)を祖とする。阿蘇谷氏を名乗った経緯はよくわからない(資料がみつからない)。阿蘇谷久時は薩摩国の守護代を務めた。
伊作氏(いざく)
島津久経の次男・久長を祖とする。薩摩国伊作(現在の鹿児島県日置市吹上)を領したことから伊作氏を称する。16世紀に薩摩の覇権を握る島津忠良(ただよし、伊作忠良)は伊作氏の出身。息子の島津貴久(たかひさ)に宗家を継承させ、戦国期以降は島津の本流となった。
給黎氏(きいれ)
島津忠時の孫にあたる忠長(ただなが)を祖とする。薩摩国給黎(現在の鹿児島市喜入)を領した。のちに伊集院氏から今給黎(いまきいれ)氏を名乗る一族も出る。かつての給黎氏と区別するために「今」がついている。
町田氏(まちだ)
初代の忠光(ただみつ)は島津忠時の孫にあたる。町田氏の名乗りは町田という地に由来する。町田は薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)の内にあった。のちに石谷(現在の鹿児島市石谷町)を与えられ、石谷氏を名乗っていたことも。町田氏には、島津家の家老を務めた人物も多い。
伊集院氏(いじゅういん)
島津忠時の孫にあたる俊忠(としただ)が、薩摩国伊集院を任されたことに始まる。俊忠の子・久兼(ひさかね)の代から伊集院氏を名乗ったとされる。島津氏の重臣として大きな力を持っていたようだ。南北朝の争乱では本家の敵方にまわったり、本家の家督相続を画策して大乱を引き起こしたりもした(伊集院頼久の乱)。島津宗家との抗争もあって、やがて没落した。戦国時代に島津家重臣として活躍した伊集院忠朗(ただあき)・忠倉(ただあお)・忠棟(ただむね)は伊集院氏の庶流。
和泉氏(いずみ)
島津忠宗(ただむね)の次男・忠氏(ただうじ)を祖とする。薩摩国和泉(現在の鹿児島県出水市)を本拠地としたことから「和泉」と名乗る。15世紀中頃の島津氏の内紛の中で和泉氏5代当主・直久の戦死により断絶した。その後、江戸時代に和泉家を復興させて「今和泉島津家」とした。幕末に徳川将軍家御台所となった天璋院(てんしょういん、篤姫)は今和泉家の出身。
佐多氏(さた)
島津忠宗の三男・忠光(ただみつ)を祖とする。忠光が大隅国肝属郡佐多(現在の鹿児島県南大隅町佐多)を領した。ほかに薩摩国知覧(現在の鹿児島県南九州市知覧)も領有。江戸時代には「島津」に復姓。知覧島津氏と呼ばれる。
新納氏(にいろ)
島津忠宗の四男・時久(ときひさ)を祖とする。時久が日向国新納院(現在の宮崎県中部、児湯郡や日向市)に入ったことに始まる。おもに日向で大きな勢力を持っていたが、国人や分家どうしの争いの中で15世紀末頃には没落してしまう。一方で、庶流の新納忠元(ただもと)などが島津本家の重臣として活躍した。島津忠良の母が新納氏の出身であったことが縁で、忠元は仕えるようになった。
樺山氏(かばやま)
島津忠宗の五男・資久(すけひさ)を祖とする。日向国樺山(現在の宮崎県三股町樺山)を領したことによる。樺山氏からは島津宗家の重臣が多数出ている。
北郷氏(ほんごう)
島津忠宗の六男・資忠(すけただ)を祖とする。名乗りは日向国北郷(現在の宮崎県都城市)の領主となったことから。江戸時代には「島津」に復姓(都城島津氏)。
5代・島津貞久の弟たち(和泉氏・佐多氏・新納氏・樺山氏・北郷氏)は南北朝争乱期に活躍する。
下の写真は、日置市伊集院にある一宇治城(伊集院城)跡。伊集院氏によって鎌倉時代に築かれたとされる。現在は公園として整備されているが、山城らしい地形は感じられる。規模が大きく、伊集院氏の力が強かったことがうかがえる。16世紀には島津貴久がここを拠点とした。来日したフランシスコ・ザビエルが貴久に謁見したのもこの城である。
島津氏の支流はこのあともどんどん増えていく。時代が下ると分家どうしが争うようにも。混乱の火種でもあった。南九州は、南北朝の争乱から戦国時代まで内乱状態が続くことになる……。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
鹿児島県史料集第37集『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1998年
鹿児島県史料集第13集『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか