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戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(4)島津忠国と島津用久の対立

島津久豊(しまづひさとよ、島津宗家8代当主)は領内経営の手腕に長けた人物であった。強引に当主の座につきつつも反抗勢力を従え、領内の平定をおし進めた。しかし、領内はまだまだ不安定。地固めはこれから、というところで逝去する。強い当主がいなくなったことで、屈服していた者たちも再び刃向かう。戦乱がぶり返すのである。

 

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島津忠国が家督をつぐ

応永32年(1425年)に島津久豊が没する。嫡男の島津忠国(ただくに)が家督をつぎ、薩摩国・大隅国・日向国の守護職を継承。9代当主となった。

島津忠国は家督継承時は「島津貴久」と名乗っていた。島津氏15代当主にも「島津貴久」がいて、こちらのほうが有名だったりする。この記事では「島津忠国」で統一する。

 

島津忠国は日向国との関わりが深い。島津久豊は当主になる前に日向国の穆佐城(むかさじょう、現在の宮崎市高岡町)を本拠地としていた。島津忠国もここで生まれた。母は伊東祐安(いとうすけやす)の娘。伊東氏は日向国に大きな勢力を持ち、島津氏と争い続けている。島津久豊は和睦のために、伊東氏から正室に迎えていたのだ。

島津久豊には6人の男子があった。『島津国史』には嫡男の島津忠国のほか、次男の島津用久(もちひさ)・三男の島津季久(すえひさ)・四男の島津有久(ありひさ)・五男の島津豊久(とよひさ)の名が記されている。名が書かれていなひとりは僧になったという。それぞれがのちに分家を立て、次男家から順に薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・羽州家(うしゅうけ)・伯州家(はくしゅうけ)という。これら分家の存在も南九州の情勢を大きく左右することになる。

 

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総州家の島津久林が討たれる

島津宗家は奥州家と総州家に分裂して争っていた、奥州家の島津久豊は応永29年(1422年)に総州家の拠点を落とし、国外へ敗走させた。その後、総州家当主の島津久林(しまづひさもり)は日向国真幸院の徳満城(とくみつじょう、宮崎県えびの市)に潜伏していた。

永享2年(1430年)11月、島津忠国は徳満城の島津久林を攻めて自害させた。総州家の嫡流は断絶する。

 

 

薩摩の国人たちが反抗

島津久豊が制圧した薩摩の国人たちが、再び反乱を起こす。永享4年(1432年)、反抗勢力が国一揆を結成。薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)を本拠地とする伊集院煕久(いじゅういんひさひろ、島津氏庶流)が盟主だったとされる。また、山北(薩摩北部)に勢力を持つ渋谷(しぶや)氏や牛屎(うしくそ)氏なども参加したと見られる。

島津久林の死も、薩摩の国人たちを動揺させたと考えられる。島津久豊に降った者たちは「いつかは攻め滅ぼされるかも」と危機感を募らせたのだろう。

 

かつて伊集院氏は島津久豊と激しく戦った。伊集院頼久(よりひさ、煕久の父)が薩摩国の国人を束ね、総州家とも協力しながら島津宗家(奥州家)との抗争を展開。一時は島津久豊を追い詰めたりもしている。

伊集院煕久は、島津家の当主になりかけた人物でもある。伊集院煕久は7代当主の島津元久(もとひさ、久豊の兄、宗家7代当主)の甥にあたり、後継者に擁立された。これを島津久豊が阻止し、前述の伊集院頼久の乱へとつながっていくのだ。

島津久林が滅ぼされたことを知った伊集院煕久は、「つぎはこっちに攻めてくるぞ」と感じたのではなかろうか。また、老獪な島津久豊が死に、若い島津忠国が当主になったこのときを好機とみて、覇権を奪おうと野心を抱いたのかもしれない。

 

 

島津忠国の失脚、島津用久が実権を握る

公不能討。乃使弟薩摩守好久攝守護職。撃國中反逆者。而公自鹿児島徒末吉。(『島津国史』より)

『島津国史』(江戸時代に薩摩藩が編纂させた正史)では、このように記される。永享4年(1432年)のことである。「公(島津忠国)は国一揆を鎮圧できなかった。そこで、弟である薩摩守好久(よしひさ、島津用久)に守護職を代行させて反乱鎮圧にあたらせた。そして、公(島津忠国)は鹿児島から大隅国の末吉に移った」としている。

なお、島津用久は初名を「好久」といった。のちに「持久」「用久」と改名。記事では「島津用久」で統一する。

稲荷川に架かる石橋と山城跡

鹿児島の清水城跡、橋の向こう側が山城跡

 

島津氏の正史『島津国史』では、「島津用久を守護代とした」ということになっている。しかし、この状況は不自然な感じがする。実際には、なんらかの政変があって島津忠国が実権を奪われ、島津用久が擁立されたのではなかろうか。島津用久は守護職についた可能性もある。

 

このあたりの事情については、『室町期島津氏領国の政治構造』(著:新名一仁)内の検証を参考にした。

島津忠国は薩摩の国一揆に対応せず、日向国の伊東氏を攻めた。前当主の島津久豊は日向の失地回復に動き出したところで没した。島津忠国は父の悲願を成し遂げることを優先させたのだ。

異を唱える群臣は少なくなかったはず。「まずは薩摩の反乱を鎮圧するべし」と諫めたことだろう。そんな反対を押し切っての日向出征だったと推測される。そして、島津忠国は大敗した。その結果、島津忠国は群臣たちの支持を失ってしまったのだろう。

 

鹿児島では群臣たちがクーデターに踏み切る。島津用久を新たな当主に擁立し、島津忠国を鹿児島から追放した。島津忠国は隠居させられて、末吉に移った。

だいたいこんな感じだったのではないだろうか。

 

 

記録が少ないのは、なんでだろう?

島津用久が実権を握ったあとどうなったのか? ……記録がほとんどない。そのため、この薩摩の国一揆の実態はつかめない。戦いの経緯はよくわからないが、永享8年に島津本宗家は伊集院煕久と和睦し、ひとまず反乱は治まったようである。

 

このあたりの記録は意図的に消された……と、そんな感じもする。あくまでも想像ではあるが。とくに『島津国史』は島津氏の正史である。だから、島津本宗家にとって都合の悪いことは書かれない。

島津用久が守護となった(あるいは守護と同等の立場になった)こと、反乱を鎮める活躍をしたこと、といった歴史は都合が悪かったのだろう。

 

後世の島津本宗家は、分家がとってかわったものである。15代の島津貴久(たかひさ)は相州家(そうしゅうけ)の出身で、島津貴久の系統が戦国大名となり、江戸時代も続く。

相州家の島津貴久は、薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(さねひさ)と当主の座を争った。一時は島津実久が鹿児島をおさえて覇権を握る。本宗家の当主の座についたという説もある。

島津貴久は島津実久を倒し、島津家の覇権を掌握する。島津家の歴史では、敗者である島津実久は「悪人」として書かれている。仮に、薩州家の祖である島津用久の当主擁立があったとしても、なかったことにされたのではないだろうか。

 

 

島津忠国と島津用久の対立

『島津国史』には、国人衆に所領を与えたり、恩賞を約束したりといった文書発給の記事がづづられる。島津用久も島津忠国も出している。双方から同人物に出されている場合もあり、各々が勝手にやっている感じである。支持者を増やそう、あるいは、つなぎとめようとそれぞれが動いたのだろう。

 

そして、薩摩の国一揆が治まった頃から、島津忠国が守護復帰を目指していることもうかがえる。

永享7年(1435年)10月に出された島津忠国を支持する盟書が残っている。そこに名を連ねるのは樺山孝久(かばやまのりひさ、島津氏庶流)・本田重経(ほんだしげつね)・末弘忠勝(すえひろ)・財部因盛(たからべ)・伊地知久安(いじち)・永野助家(ながの)・高木殖家(たかぎたねいえ)・柏原好資(かしわばら)・廻元政(めぐり)・北郷知久(ほんごうともひさ、島津氏庶流)・加治木親平(かじきちかひら)・新納忠臣(にいろただおみ)・町田一久(まちだ、島津氏庶流)、税所彌何(さいしょ)・和田正直(わだ)の15名。大隅国北部や日向国南部の領主が多い。

 

一方、島津用久の支持者は山田忠尚(やまだただひさ、島津氏庶流、『山田聖栄自記』の著者でもある)・平田重宗(ひらたしげむね)・野辺盛豊(のべ)・石井忠義(いしい)・肝付兼元(きもつきかねもと)・鹿屋兼政(かのやかねまさ、肝付氏庶流)・頴娃貴重(えいたかしげ、肝付氏庶流)・興長武清(吉田氏の一族か)など。また、島津用久は所領を失っていた伊作安鶴丸(伊作教久、いざくのりひさ、島津氏庶流)を旧領に戻し、味方に引き入れている。こちらは、薩摩国と大隅国南部の領主が多い。

 

島津忠国を支持する勢力と、島津用久を支持する勢力がそれぞれ結成された。実権を取り返そうとする島津忠国と、渡すまいとする島津用久の対立が続いていく。それぞれを支持する国人ものちに敵方に転じることもあり、混沌とした展開へ。

 

 

大覚寺義昭事件

永享12年(1440年)、幕府が探していた大覚寺(だいかくじ)門跡の義昭(ぎしょう)が日向国櫛間院(くしまいん、現在の宮崎県串間市)に潜伏していたことが発覚する。幕府は島津忠国に義昭討伐を命じる。

義昭とは室町幕府3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)の子。4代将軍の足利義持(よしもち)や6代将軍の足利義教(よしのり)の弟にあたる。出家して京の大覚寺に入っていた。足利義教は猜疑心が強く、義昭に対しても疑いを抱いていた。身の危険を感じた義昭は永享9年(1437年)に京を出奔。幕府のお尋ね者となった。

 

永享12年に義昭は四国から九州へ入り、櫛間院の野辺氏のもとに身を寄せる。還俗して足利尊有(たかもち)と名乗った。足利尊有(義昭)は九州の国人を誘って挙兵しようとしていた。

討伐命令を受けたものの、島津忠国はなかなか動かなかった。命令書は3通残っており、幕府からしきりに催促されている。嘉吉元年(1441年)3月13日に島津忠国は追討の兵を出し、足利尊有(義昭)は自害した。追討軍には樺山孝久・新納忠続(ただつぐ、新納忠臣の孫)・肝付兼忠(かねただ、肝付兼元の子)・本田重経(しげつね、本田忠親の弟)・北郷持久(もちひさ、北郷知久の子)・山田忠尚・鹿屋氏・牧氏などが参加。山田氏など島津用久派の国人も加わっている。

義昭の首が京に届けられると、足利義教はたいそう喜んだ。島津忠国らには太刀や馬などの褒美が与えられた。

 

 

島津忠国の復権

大覚寺義昭を討った島津忠国は、幕府の信頼を得ることになる。幕府の権威を後ろ盾として勢力を盛り返していく。嘉吉元年(1441年)9 月、島津忠国は鹿児島に戻って島津用久を追い出した。

一方、島津用久は谷山城(場所は鹿児島市谷山)に移って抵抗を続ける。日向国庄内志和池(宮崎県都城市志和池)の高木殖家、薩摩国市来院(鹿児島県日置市東市来・いちき串木野市市来)の市来久家(いちきひさいえ)は島津用久に応じた。なお、高木殖家は島津忠国方から転じている。日向国の和田正存は高木殖家と懇意であり、こちらも島津用久側についた。さらに、樺山孝久は高木氏より妻を迎えており両家の関係は深い。高木殖家から支援を要請され、こちらも用久派に転じたようだ。この3人が敵方に寝返ったのは、島津忠国にとっては大きな痛手だったと思われる。

祠の近くに「本城(千々輪城)跡」城址碑

谷山本城(千々輪城)跡

 

抗争は長引く。幕府も島津氏の内紛に介入してくる。嘉吉元年12月には、幕府から樺山孝久(この頃はすでに用久派か)・禰寝重清・吉田是兼・野辺盛仁に島津用久派の討伐が命じられた。また、嘉吉2年12月にも入来院重長・禰寝重清・吉田是兼に用久派討伐の命があった。

 

日向国南部でも樺山孝久を盟主とする国一揆が形成された。文安元年(1444年)に樺山孝久は周辺の国人たちと契状を交わしている。相手は櫛間院の野辺盛吉、志和池の高木殖家、三俣院の和田正存、そして都於郡(とのこおり、宮崎県西都市)の伊東祐堯(いとうすけたか)であった。島津氏と長年にわたって日向支配をめぐって争う伊東氏も介入してきた。日向の国一揆は島津用久と通じ、島津忠国方を圧迫した。

 

 

薩摩国山北の反乱

文安2年頃に、山北(薩摩国北部、現在の鹿児島県薩摩川内市・薩摩郡さつま町)でも国一揆が蜂起。島津氏の内訌に乗じて、再蜂起したのである。

山北は渋谷一族(入来院氏・祁答院氏・東郷氏・高城氏)の勢力下で、反乱の主体も彼らであったと考えられる。さらには薩摩国牛屎院(うしくそいん、鹿児島県伊佐市大口)の牛屎氏、肥後国球磨郡(熊本県人吉市のあたり)の相良氏も支援したようである。

 

また、「島津上総入道祐貞」という人物も関わっている。この人物が何者なのかははっきりしないが、島津氏総州家の生き残りが大将として担ぎ上げられたようだ。

『室町期島津氏領国の政治構造』(著:新名一仁)によると、島津忠長の発給文書が一通残っているとのこと。島津忠長は島津忠朝(ただとも、総州家2代の島津伊久の次男)の三男で、出家していた。「島津上総入道祐貞」が島津忠長である可能性は高いのだという。

 

 

島津忠国と島津用久が和睦

島津忠国は日向国一揆の切り崩しにかかる。所領を与えることを条件に帰参するよう誘った。そして、文安3年(1446年)頃に盟主である樺山孝久が忠国方に帰参する。また、文安5年(1448年)には和田正存も誘って、こちらも応じる。島津氏は寝返った樺山氏・和田氏と共謀し、高木氏を攻め滅ぼした。

都城市を一望

庄内(都城盆地)、高之峯より見る

 

また、文安4年に島津忠国は大隅国守護代の本田重経を攻撃する。本田重恒は島津用久に通じていて、囎唹郡清水(そおぐんきよみず、現在の鹿児島県霧島市国分清水)を拠点としていた。

島津忠国は兵を率いて姫木城(ひめきじょう、霧島市国分姫城)に出陣。本田重経は囎唹国人の税所氏とともに姫木城を攻撃する。島津忠国は突出して敵軍を撃ち破った。この戦いで島津有久・島津豊久(いずれも忠国の弟)は負傷しがらも奮戦したという。なお、この戦いの様子は『西藩野史』に記載のもの。『島津国史』では本田氏攻めを文安5年の出来事とし、税所氏が島津忠国方だったとしている。

鹿児島の城跡

姫木城跡、麓には稲荷神社

 

日向国一揆が崩壊したことで、伊東祐堯(いとうすけたか)が勢力を広げる。日向南部における影響力を強めた。島津忠国は伊東氏とことを構えず、文安5年9月に和睦する。領内の安定を優先させたのだ。

 

日向・大隅方面で島津用久に味方する者はいなくなった。島津忠国は谷山城の島津用久を攻めようとした。新納忠臣がこれを諫めて、和睦をすすめることとした。10月、新納忠臣の仲介により島津用久との和睦が成立。市来久家をはじめ、薩摩の用久方もことごとく降った。

その後、島津忠国は島津用久と協力して、山北の反抗勢力にあたった。宝徳年間(1449年~1452年)の頃にこの地も制圧されたようである。このときに、島津氏は相良氏が抑えていた薩摩国山門院(やまといん、鹿児島県出水市の西部)を奪った。また、牛屎院(鹿児島県伊佐市大口)や莫禰院(あくねいん、鹿児島県阿久根市)も島津氏の支配下となり、牛屎氏や莫禰(あくね)氏は所領を失っている。

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伊集院氏の没落

伊集院煕久は国一揆の盟主として島津忠国に反抗。和睦したのちには島津用久方についていたようである。その後は島津忠国に従った。伊集院煕久は島津忠国の娘を妻としており、島津氏も懐柔をはかっていた。

宝徳元年(1449年)に事件が起こる。伊集院煕久の姉は島津久豊の継室で、伊集院氏領から石谷30町を化粧領として与えられていた。姉の死後に、この石谷が島津氏に接収され、町田高久(まちだたかひさ、島津氏庶流)に与えられた。伊集院煕久はこれを不満とし、町田高久を騙して一宇治城に呼び出し、兵で取り囲んで討ち取った。

城山公園入口の階段と「一宇治城跡」碑

一宇治城跡

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この事件を知った島津忠国は激怒。宝徳2年(1450年)2月、兵をすすめて一宇治城を取り囲んだ。伊集院煕久は城を棄てて肥後国に逃亡した。

薩摩国で大きな力を持っていた伊集院氏は、領主としての地位を失った。伊集院氏の所領は島津宗家のものとなった。

 

島津忠国が覇権を握り、南九州全土を支配下におさめつつあった。

つづく……。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『室町期島津氏領国の政治構造』
著/新名一仁 出版/戎光祥出版 2015年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『出水郷土誌』
編/出水市郷土誌編纂委員会 発行/出水市 2004年

『伊集院町誌』
編/伊集院町誌編さん委員会 発行/伊集院町 2002年

『松元町郷土誌』
編/松元町郷土誌編さん委員会 発行/松元町長 九万田萬喜良 1986年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

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