ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7)

島津義久(しまづよしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟の進撃は、島津氏の最大版図を築く。九州の大部分を制圧しようとしていた。

そして天正14年(1586年)、島津と大友が全面抗争へ。島津氏は大友氏領内への侵攻を開始する。一方の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・大友義統(よしむね)は豊臣秀吉を頼った。豊臣秀吉は九州に大軍勢を派遣する。

日付については旧暦にて記す。

 

 

 

 

 

 

島津と大友の微妙な関係

島津氏と大友氏は、天正6年(1578年)にも戦っている。日向国に侵攻してきた大友軍に対して、島津義久も出兵。高城川原で両軍はぶつかった。「高城川の戦い」または「耳川の戦い」と呼ばれるものである。この戦いで大友氏が大敗したことで、「大友一強」だった九州の情勢が大きく変わった。島津氏は勢いづき、肥前国の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)も台頭。大友・島津・龍造寺の三大勢力が鼎立する。

 

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この三強鼎立の状況も、天正12年(1584)の島原合戦(沖田畷の戦い)をきっかけにパワーバランスが崩れる。島津氏が龍造寺氏を撃破し、龍造寺隆信は戦死。その後、龍造寺氏が島津氏に従属し、九州は「島津一強」となっていた。

 

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高城川の戦い(耳川の戦い)ののちに、島津氏と大友氏は織田信長の仲介で和平を結んでいる(豊薩和平)。しかし、天正10年(1582年)に織田信長が本能寺で討たれた。織田政権の瓦解により豊薩和平も微妙なものとなる。

さらに龍造寺氏の没落後に、大友氏による失地回復への動きが目立つように。島津と大友の対立が再び表面化し、和平は破綻する。

 

 

天正14年の九州の勢力図

島津氏は薩摩国・大隅国・日向国・肥後国(現在の鹿児島県・宮崎県・熊本県)をほぼ制圧。従属している勢力も多く、肥前国や筑後国もほぼ島津氏の影響下にある。

おもな従属国衆はつぎのとおり。

【日向国】

三田井政利(みたいまさとし)/高千穂

 

【肥後国】

相良頼房(さがらよりふさ)/人吉
名和顕孝(なわあきたか)/宇土
隈部親永(くまべちかなが)・隈部親泰(ちかやす)/菊池など
城久基(じょうひさもと)/隈元(熊本)
小代親泰(しょうだいちかやす)/荒尾
志岐鎮経(しきしげつね)/天草 ※ほか、天草衆

 

【肥前国】

龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ)/佐嘉(佐賀)ほか ※龍造寺氏傘下の国衆も含む
有馬久賢(ありまひさまさ、有馬晴信、はるのぶ)/島原
筑紫広門(ちくしひろかど)/勝尾(鳥栖)

 

【筑後国】

星野吉実(ほしのよしざね)/矢部・星野(八女)

 

【筑前国】
秋月種実(あきつきたねざね)/秋月(朝倉)ほか

 

【豊前国】
城井鎮房(きいしげふさ)/城井谷

 

一方の大友氏は拠点のある豊後国のほか、豊前国や筑前国の一部を押さえている。現在の大分県および福岡県の一部にあたる。

 

 

 

 

 

島津の両殿体制、そして日向の末弟

当主は島津義久であるが、天正13年(1585年)5月頃に弟の島津忠平(ただひら、島津義弘)が「名代」に指名された。名代は「もう一人の当主」というような立場である。

こうしたのには、二つの理由がある。

まず、島津氏では勢力範囲が急激に広がったこともあり、領内の統治が当主一人では手が回り切らなくなっていた。そこで、当主の島津義久は薩摩・大隅・日向を、名代の島津義弘が肥後・肥前・筑後をそれぞれ担当しようとなったのだ。

もうひとつは、この頃に島津義久は体調を崩していた。持病の虫気(腹痛を伴う病、内臓の疾患か)の発作でときどき寝込むこともあった。また、島津義久には男子がなく、後継者も決まっていない。もし自身に何かあった場合は、弟が後継を引き受けることとしたのだ。

島津義久はおもに薩摩国鹿児島(現在の鹿児島市)を拠点に活動。また、島津忠平(島津義弘)は肥後国八代(熊本県八代市)を拠点に、九州北部の攻略を任された。

この兄弟は「両殿」とも呼ばれた。ともになかなかの長寿だったこともあり、その後もしばらく両殿体制は続いていくことになる。


また、日向方面の攻略は末弟の島津家久に任された。こちらは佐土原を拠点に活動する。島津家久は大きな戦果を挙げまくっていた。例えば、圧倒的に不利な状況から大勝した「島原合戦(沖田畷の戦い)」では総大将を務めている。たぶん当時の九州では最強の戦上手だったと思われる。

ルイス・フロイスの『日本史』では「戦において他の追随を許さぬ勇敢な武将」と評されている。

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島津と毛利

島津氏は中国地方の広範囲を領する毛利輝元(もうりてるもと)と協力関係にある。毛利氏領内の備後国鞆(とも、広島県福山市)には亡命幕府があった。将軍の足利義昭は毛利氏の支援を得て再興を目指していた。

高城川の戦い(耳川の戦い)の際にも、島津氏は将軍から大友攻めの要請を受けている。これを大義名分として決戦にのぞんだ。

 

天正13年(1585年)2月、足利義昭の使者として柳沢元政(やなぎさわもとまさ)が島津家に遣わされる。また、毛利輝元・吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の使僧も遣わされた。その目的は、大友氏攻めの協力の要請であった。島津氏はこれを受けたようだ。

 

 

 

豊臣秀吉の惣無事令

織田政権のその後は、家臣のひとりであった羽柴秀吉が天下を取る。敵対する者を倒し、あるいはまるめ込み、覇権を掌握していった。そして、関白に任官し、正親町天皇から「豊臣」の姓も賜る。

天正13年(1585年)1月に、豊臣秀吉は毛利輝元と和睦。従属させる。さらに4月には四国を制圧していた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を攻めて服属させる。また、東方では、敵対していた徳川家康と和睦した。

豊臣秀吉の目はさらに西へ。九州へと向いていた。島津氏と大友氏の対立に介入してくる。

大友義鎮(大友宗麟)は、島津氏と単独で戦うことは無理と判断。かなり早い段階から羽柴秀吉(豊臣秀吉)に近づいていた。大友氏の要請もあって、天正13年(1585年)10月13日に豊臣秀吉は惣無事令を出す。両氏に停戦を命じた。

大友氏は惣無事令の受諾の返事をし、島津氏が侵攻してきていることを伝えて軍事的支援を要請する。さらに、天正14年には大友義鎮(大友宗麟)は大坂城(大阪市中央区)へ足を運ぶ。豊臣秀吉に拝謁し、支援要請を懇願した。

 

島津氏は惣無事令に従わず。

 

 

戦を急ぎたい島津家臣団

「はやく大友を攻めよう!」という空気が島津の家臣団にはあったと思われる。

島津氏は天正2年(1574年)の大隅平定以降、事がうまく運んでいる。島原合戦(沖田畷の戦い)の奇跡的とも言えるような勝利もあったりして、戦に関しては自信を持っていたことだろう。

また、豊後との最前線で対峙する島津家久が、豊後攻めを強く主張していた。そして、勝手に動いたりもしている。敵方に調略をしかけたり、策謀をめぐらしたり。豊後攻め決定に持ってっていくために、味方に嘘情報を流したりも。島津義久は独断専行気味のこの弟に手を焼いたようだ。

 

豊後攻めを急ぐのには、「さっさと九州を制圧して豊臣秀吉との交渉を有利にしたい」という意図があった。また、豊臣秀吉は短期間のうちに勢力を拡大していることから「九州にやってくる前になんとかしなければ」とも。

 

 

豊後攻めが決まるが……

島津家では「談合(だんごう)」で意思決定がなされていた。何事も重臣たちが話し合って決める。そして、是か否かは島津義久がひく鬮(くじ)によって最終決定とする。島津義久は家臣に丸投げしているわけではなく、差し戻して再協議をさせることもあった。

 

天正13年(1585年)10月15日、談合で豊後攻めが決まる。ちょうど惣無事令が出た頃である。

侵攻を急ぎたい島津家久を島津義久は警戒し、理由をつけて蟄居させていた。しかし、島津家久は策を弄する。島津家久は豊後国の国人衆の入田義実(にゅうたよしざね、丹入田宗和)の調略に成功していた。11月になって「入田義実(入田宗和)が挙兵するので島津に出兵を要請してきている」という情報を、家臣から島津義久と上井覚兼(うわいさとかね)に伝えさせた。これは嘘情報であった。宮崎城主の上井覚兼は嘘を見抜いて島津義久に通報し、豊後への出陣は翌年3月に延期された。


豊後侵攻論が過熱していた家中にあって、当主の島津義久は慎重だった。冷静に状況を見ながら、事を急がないようにしていた感じである。

12月に島津義久は毛利輝元に使者を送って、豊後攻めでの連携について確認する。このときすでに毛利氏は豊臣秀吉に従属していた。毛利輝元からは従属を勧める返書がもたらされる。書状は2月に島津義久のもとに届いた。この事実を知り、慌てて談合のやり直しを重臣らに求めた。

談合の結果、豊後への出陣は秋に延期された。

 

島津家から大坂へ遣わされていた鎌田政広(かまたまさひろ)と南浦文之(なんぽぶんし)は、天正14年5月に豊臣秀吉が提案する「国分案」を持ち帰る。「受諾しなければ、7月に豊臣秀吉が大軍を率いて九州入りする」といったことも伝えられた。

「国分案」は薩摩・大隅・日向と肥後半国を島津氏領として認める、というものだった。島津家中ではこれを黙殺。豊後出陣の予定を変えなかった。

 

 

筑前へ出陣

天正14年(1586年)7月に豊後出陣が予定されていたが、豊臣秀吉の派兵が決定的となったことを知った島津義久は、鬮を引き直して強引に豊後出陣をとりやめる。これにかわって、筑前出兵に方針を変える。

筑前国では大友方と対峙する秋月種実が島津氏への救援を要請していた。これに応えるとともに、寝返った肥前国の筑紫広門の討伐も決まる。

 

天正14年6月、島津義久は肥後国八代まで出陣し、島津忠長(ただたけ)・伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を大将として前線に軍勢を送り出す。兵力は2万余とも。

上井覚兼・喜入季久(きいれすえひさ)・鎌田政近(かまたまさちか)・鎌田少外記・山田有信(やまだありのぶ)・上原尚近(うえはらなおちか)・伊集院久春(いじゅういんひさはる)・伊集院久治(ひさはる)・吉利山城守・本田因幡守・税所新介・稲留新助・遠矢信濃守・宮原景晴(みやはらかげはる)・梅北国兼(うめきたくにかね)・川上忠堅(かわかみただかた)・久留摂津介・新納久饒(にいろひさあつ)・新納久時(ひさとき)・新納藤四郎・長谷場孝純(はせばたかすみ)・向江純馴・中島重続・井牟田親綱・的場五郎兵衛らが従軍したという。

先陣大将には薩摩守義虎(薩州家の島津義虎、しまづよしとら)の名もある。この頃、島津義虎はすでに没している。こちらは、その嫡男の島津忠永(ただなが、島津忠辰、ただとき)であったのかも。

 

勝尾城の戦い

天正14年(1586年)7月6日、島津忠長・伊集院忠棟は肥前国の勝尾城(かつのおじょう、佐賀県鳥栖市牛原町)を攻める。筑紫広門の居城である。この年の3月に島津氏は人質を差し出すよう求めたが、筑紫広門は応じていなかった。

7月11日に城は落ち、筑紫広門は生け捕りにされる。

 

 

岩屋城の戦い

天正14年(1586年)7月14日、島津忠長・伊集院忠棟らの軍勢は筑前国の岩屋城(いわやじょう、福岡県太宰府市浦城)を包囲する。秋月氏・城井氏・長野氏・龍造寺氏などの軍勢も加わる。

城主は高橋鎮種(たかはししげたね、高橋紹運、じょううん)。

岩屋城には700余名の兵があり、籠城戦を展開する。よく守って半月ほど持ちこたえた。島津側から降伏を求めるも、高橋鎮種(高橋紹運)はこれを拒む。7月27日に島津方は総攻撃をかける。城方の兵は全員が戦死。凄まじい戦いとなり、島津方も多くの死傷者を出した。

また、岩屋城の東にある宝満山城(ほうまんやまじょう、福岡県筑紫野市大石)は、8月6日に開城する。こちらは高橋統増(むねます、立花直次、たちばななおつぐ)が守っていた。高橋鎮種(高橋紹運)の次男にあたる。また、高橋統増は筑紫広門の娘を妻としていた。

 

 

立花山城は落ちず

島津方はさらに進軍し、立花山城(たちばなやまじょう、福岡県糟屋郡新宮町)を囲む。城を守るのは立花統虎(たちばなむねとら、立花宗成、むねしげ)。こちらは高橋鎮種(高橋紹運)の長男で、戸次鑑連(べっきあきつら、戸次道雪、立花道雪、どうせつ)の養子。立花氏の名跡をついでいた。

立花統虎(立花宗成)に島津方は手こずる。また、岩屋城の戦いでの被害が大きかったこともあり、攻めきれず。さらには黒田孝高(くろだよしたか)が率いる豊臣軍先遣隊や毛利氏の軍勢が進軍してきている情報も入る。8月24日に島津方は撤退した。

 

島津方は高鳥居城(たかとりいじょう、福岡県糟屋郡篠栗町若杉)に星野鎮胤(星野吉実)・星野鎮元の兄弟を押さえとして残していた。8月25日に立花統虎(立花宗成)は高鳥居城を攻め落とす。星野兄弟は討ち死にした。

その後、岩屋城と宝満山城も立花統虎(立花宗成)によって奪い返される。また、捕縛していた筑紫広門も逃亡し、勝尾城を奪還している。

 

島津氏の筑前攻略は失敗した。

 

 

 

 

 

豊薩合戦

筑前から軍勢が八代に戻ると、すぐに談合が開催された。その結果、再び豊後侵攻の方針へ戻すことを決める。島津義久はこれをなかなか認めようとしなかった。だが、天正14年(1586年)9月8日に豊後出陣が決定する。

9月27日には島津義久は長寿院盛淳(ちょうじゅいんせいじゅん)を使者として、豊臣秀吉と豊臣秀長に書状を送る。その内容は筑前出兵についての弁明。「領内の反逆者を討つためであり、惣無事令には違反していない」とかなり苦しい言い訳であった。

 

10月、豊後に向けて出陣。軍は二つに分ける。島津義珍(よしまさ、忠平から改名、島津義弘)が率いる3万余の軍勢は肥後国八代を出て阿蘇郡野尻(熊本県阿蘇郡高森町野尻)から豊後国南郡(大野郡と直入郡、現在の大分県竹田市・豊後大野市)へ。また、島津家久が率いる1万余が日向国佐土原(さどわら、宮崎市佐土原町)から縣(あがた、宮崎県延岡市)を経て豊後国南部の梓山(あずさやま、大分県佐伯市)のほうから進入する。また、10月14日には島津義久も鹿児島を出陣。日向国の塩見城(しおみじょう、宮崎県日向市塩見)に本陣を置く。

 

島津義珍(島津義弘)の軍勢に従った顔ぶれはつぎのとおり。

副将は島津歳久。ほかに島津忠隣(ただちか)・島津征久(ゆきひさ、島津以久)・島津忠長・新納忠元(にいろただもと)・新納久時(ひさとき)・北郷忠虎(ほんごうただとら)・樺山規久(かばやまのりひさ)・伊集院忠棟・伊集院久春・伊集院久宣(ひさのぶ)・鎌田政年・鎌田政近・川上久信(かわかみひさのぶ)・川上久辰(ひさとき)・宮原景晴・町田久倍(まちだひさます)・肝付兼寛(きもつきかねひろ)・大野久高・平田新右衛門尉・大寺大炊助・白濱周防守・敷根藤左衛門尉・伊勢貞昌(いせさだまさ)など。

 

島津家久の軍勢の顔ぶれはつぎのとおり。

山田有信・吉利忠澄(よしとしただすみ)・伊集院久治(ひさはる)・本田親貞(ほんだちかさだ)・上井覚兼・樺山忠助(かばやまただすけ)・土持佐馬権頭(土持久綱か)・など。

 

 

豊後南郡の戦い、落ちない岡城

天正14年(1586年)10月21日、島津義珍(島津義弘)の軍勢は豊後南郡へ入る。内通していた入田義実(入田宗和)や志賀親度(しがちかのり、志賀道易、どうえき)らが迎え入れて先導役を務めた。

島津軍は入田義実(入田宗和)の居城の神原城(かんばらじょう、大分県竹田市神原)に入る。松尾城・鳥嶽城・加世城・柏瀬城・一萬田城・鎧嶽城・久多見城(朽網城)・瀧田城・津賀牟礼城といった周囲の諸城を降す。

そんな中で、志賀親善(志賀親次、しがちかよし)が守る岡城(おかじょう、竹田市竹田)が抵抗する。志賀親善(志賀親次)は志賀親度(志賀道易)の弟で、その養子でもあった。志賀一族の多くが島津方に寝返ったが、志賀親善(志賀親次)は徹底抗戦の構えを見せた。

岡城は険しい山の上に築かれた堅城であった。大軍に囲まれながら、攻め寄せる敵を寄せ付けない。ゲリラ戦も展開し、島津方を苦しめた。岡城は落ちない。

 

 

島津家久の進軍

島津家久は豊後国三重(大分県豊後大野市三重町)の松尾城に入った。そして、小牧城(こまきじょう、豊後大野市緒方町)や野津城(のつじょう、大分県臼杵市野津町)を落とす。

日向口では朝日嶽城(あさひだけじょう、大分県佐伯市宇目)を守る柴田紹安(しばたしょうあん)が寝返り、この手引きがあったという。

また、栂牟礼城(とがむれじょう、大分県佐伯市弥生)の佐伯惟定(さえきこれさだ)が抵抗したことが『豊薩軍記』などに見える。佐伯惟定は降伏勧告を拒絶。島津家久が派遣した土持親信の部隊を破った、と。島津家久は栂牟礼城の攻略を諦めたのだという。

 

島津家久の軍勢は、天正14年(1586年)10月末には大友義鎮(大友宗麟)のいる丹生島城(にうじまじょう、臼杵城、大分県臼杵市臼杵丹生島)に迫った。

 

 

鶴賀城の戦い

天正14年(1586年)11月15日、島津家久は鶴賀城(つるがじょう、大分市上戸次利光)を囲んだ。

鶴賀城は大野川沿いの山城。利光鑑教(としみつあきのり、利光宗魚、そうぎょ)は寡兵でよく守り、城はなかなか落ちない。利光鑑教(利光宗魚)が戦死するも、それを伏せて城方は戦い続けた。

 

 

戸次川の戦い

大友氏の本拠地の府内(ふない、大分市荷揚町)には豊臣軍の先遣隊が合流していた。仙谷秀久(せんごくひでひさ)・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・十河存保(そごうまさやす)ら四国の領主たちであった。

軍監の仙谷秀久は、豊臣秀吉の本軍が到着するまで守りに徹するよう命じられていた。だが、鶴賀城の救援を決めた。

天正14年12月12日(1587年1月)、大友・豊臣連合軍は鶴賀城の救援のために渡河する。島津家久の部隊は伏兵を配して待ち構えた。川を渡り終えたところで伏兵が取り囲む。大友・豊臣連合軍は混乱して敗走。溺れる者も多かったという。島津方が大勝した。この戦いは「戸次川の戦い」と呼ばれている。

仙谷秀久と長宗我部元親はなんとか戦場を離脱する。十河存保は戦死。また、長宗我部元親の嫡男の長宗我部信親(のぶちか)も討たれた。

鶴賀城も開城した。

 

 

府内を陥落させる

戸次川の大勝に勢いづいた島津軍は、府内城へと進撃。天正14年12月13日(1587年1月)に陥落させる。大友義統ほとんど戦うことなく、府内城を棄てて龍王城(りゅうおうじょう、大分県宇佐市安心院町龍王)へと引いた。

島津家久は丹生島城も攻めるが、こちらは落とせなかった。大友義統がこもる龍王城も攻めあぐねた。

島津家久は豊後の半国を制圧するも、その後は攻めきれない状況が続く。

12月になって、黒田孝高が率いる豊臣軍先遣隊と毛利氏の連合軍が豊前国から九州に攻め入る。島津傘下にあった者たちが制圧されていった。

 

 

将軍からの手紙

天正14年12月4日(1587年1月)、将軍の足利義昭は家臣の一色昭秀を島津義久のもとに遣わし、和平の仲介することを伝える。

天正15年(1587年)1月、島津義久は豊臣秀長と石田三成に書状を送る。戸次川の戦いについて「戦うつもりはなかったけど、攻めかかってきたので、一戦交えて思いがけず勝ってしまった」と弁明する内容だった。

 

 

島津軍の撤退

島津義珍(島津義弘)も攻略しきれいな状況が続いていた。筑前で苦戦する秋月文種の救援要請に応えて、玖珠(くす、大分県玖珠郡玖珠町のあたり)の攻略にも乗り出すが、こちらもうまくいかなかった。

 

天正15年(1587年)3月、島津義珍(島津義弘)は島津家久のいる府内に合流する。

3月1日に豊臣秀長の大軍勢が下関(山口県下関市)に着陣。兵力は10万とも。また、豊臣秀吉の本軍も九州へと向かう。

3月15日、府内に一色昭秀と木食応其(もくじおうご、高野山の僧)が遣わされた。足利義昭と豊臣秀長の使者である。島津義珍(島津義弘)と島津家久に対して降伏を勧告した。二人は退却を決める。

 

島津義珍(島津義弘)と島津家久は府内を放棄して日向へ退却する。3月16日には三重の松尾城にいたる。3月20日には新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町高城)を経て都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)に入った。ここで島津義久と面会する。島津家久は居城の佐土原城に入った。

 

豊臣秀長の軍勢は豊後から日向方面へ進軍。3月25日には豊臣秀吉の本隊が着陣。こちらは九州の西側を進み、肥後から薩摩をうかがう。島津氏に従属していた国人衆もことごとく降伏し、敵方にまわった。

豊後南郡にあった島津方も敗走。寝返った国人衆や大友方の激しい攻撃の中を撤退する。

ちなみに、島津歳久は白仁城(しらにじょう、南山城、大分県竹田市久住町白丹)に在城していたが、病のために退去したともされている。

 

 

根白坂の戦い

天正15年(1587年)4月6日、豊臣秀長の10万余の軍勢が日向国の新納院高城を包囲した。豊臣秀長軍には黒田孝高・蜂須賀家政(はちすかいえまさ)・宮部継潤(みやべけいじゅん)・尾藤知宣(びとうとものぶ)・南条元続(なんじょうもとつぐ)・毛利輝元・小早川隆景(こばやかわたかかげ)・吉川元長(きっかわもとなが)らも従う。

新納院高城は山田有信(やまだありのぶ)が守る。大軍に囲まれながらも、なんとか死守する。

 

4月12日、一色昭秀と木食応其が都於郡城を訪れ、島津義久に降伏をすすめる。しかし、島津方は決戦をしかける。

4月17日、島津義珍(島津義弘)が率いる2万余の軍勢が根白坂(ねじろさか、木城町椎木)の南条元続の陣に夜襲をかけた。黒田孝高・宮部継潤らが島津軍を迎え撃ち、豊臣秀長の配下の藤堂高虎(とうどうたかとら)の部隊も救援に駆け付けた。

 

古戦場跡

根白坂、バス停は「陣の内」

 

根白坂の戦いで、島津方は大敗する。

4月22日、伊集院忠棟を豊臣秀長の陣に遣わし、降伏と島津義久の赦免を願い出た。

 

 

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島津義久の降伏

肥後方面では豊臣秀吉の本隊が破竹の勢いで南下していた。薩州家の島津忠永(島津忠辰)も寝返り、薩摩入りの先導役を務めたという。天正15年(1587年)4月25日には川内の泰平寺(たいへいじ、鹿児島県薩摩川内市大小路町)に入る。

島津義久は日向から鹿児島に戻る。剃髪して出家し、法号を「龍伯(りゅうはく)」とした。5月8日、泰平寺まで出向いて豊臣秀吉に拝謁。降伏を認められた。

 

泰平寺公園には銅像も。島津義久が豊臣秀吉に謁見した場面を再現。

豊臣秀吉と島津義久の像

泰平寺公園

 


それぞれの降伏

島津義久が降伏したものの、島津義珍(島津義弘)と島津歳久は居城に戻って徹底抗戦の構えを見せる。島津義久に安堵されたの薩摩国のみだった。大隅国や日向国は安堵されていなかった。そのあたりの事情もあっての行動だったのだろう。

 

 

島津家久の場合

島津家久は独自に和睦交渉をする。佐土原城を明け渡したうえで、豊臣秀長に「上方のどこかに領地が欲しい」と願い出たという。

豊臣秀吉は島津家久の行動に好感を持ったようで、結局は佐土原を返還し、さらには都於郡も与えた。実質的には加増となった。5月27日に豊臣秀吉から朱印状も授けられ、独立した大名として取り立てられることになった。

 

島津義珍(島津義弘)の場合

島津義珍(島津義弘)は自領の日向国真幸院に帰ると、飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市原田)に籠城した。

豊臣秀長軍は日向国真幸院野尻(のじり、宮崎県小林市野尻町)にまで進軍。豊臣秀長の家臣が説得に訪れ、これを受け入れる。天正15年(1587年)5月19日、島津義珍(島津義弘)は野尻の豊臣秀長のもとに出向き、降伏を申し入れた。

5月22日には、薩摩国鶴田(つるだ、鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田)に陣を置いていた豊臣秀吉のもとにも出頭。豊臣秀吉に謁見して許され、日向国真幸院などが安堵された。

 

山の上の陣地跡

鶴田の鳶の巣陣跡(太閤陣跡)、ここで島津義弘が豊臣秀吉と会う



 

島津歳久の抵抗

島津歳久は自領の祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町)に戻る。

豊臣秀吉は川内からの帰路として祁答院を通過した。島津歳久は病気を理由として豊臣秀吉への目通りを拒んだ。兵を伏せて矢を射かけさせる、といったこともあったという。

天正15年(1587年)5月22日には、祁答院の鶴田に豊臣秀吉は陣を構えた。ここは島津歳久の領内である。前述のとおり島津義珍(島津義弘)は鶴田を訪れて降伏を申し入れているが、島津歳久は出頭することはなかった。

 

このときの態度が、のちの島津歳久の災難にもつながる。

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新納忠元もなかなか降らず

新納忠元は居城である薩摩国の大口城(おおくちじょう、鹿児島県伊佐市大口)で徹底抗戦の構えを見せた。豊臣秀吉は鶴田から移動し、天正15年(1587年)5月24日に大口城の南の天堂ヶ尾(伊佐市大口曽木)に陣を置いた。

豊臣秀吉は大口城に使者を出し、「御両殿トモニ御指出之上ハ弓箭不可然之由(御両殿[島津義久と島津義弘]が人質を出している、戦えば主君に敵対したことになるぞ)」(『本藩人物誌』より)と説得する。

新納忠元は剃髪して天堂ヶ尾へ。豊臣秀吉に拝謁し、降伏を許された。

 

豊臣秀吉の陣地跡

天堂ヶ尾

 

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島津家久の急死

天正15年(1587年)6月5日、島津家久が急死する。

豊臣秀長が野尻に移動した際に、島津家久は同行している。豊臣秀長と会って食事のあとに急病は発し、そして佐土原に戻って数日後に没したのだという。

『島津国史』をはじめ編纂物の多くでは「毒殺」とされている。また、ルイス・フロイスの『日本史』においても毒殺と説明されている。

真相はわからない。

 

 

 

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<参考資料>
鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』
著/ルイス フロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論社 2000年

『戦国武将列伝11 九州編』
編/新名一仁 発行/戎光祥出版株式会社 2023年

『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

『島津家久・豊久父子と日向国』
著/新名一仁 発行/宮崎県立図書館 2017年

『大分県史 中世篇3』
編/大分県総務部総務課 発行/大分県 1987年

『豊薩軍記』 ※『改訂 史籍収覧第7冊』より
著/長林樵隠 編/近藤瓶城 発行/近藤活版所 1906年

ほか