ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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谷山の補陀山慈眼寺跡(慈眼寺公園)、島津忠恒のお気に入りの場所

補陀山慈眼寺(ほださんじげんじ)は薩摩国谿山郡谷山郷下福元村(鹿児島市下福元町)にあった。その跡地は慈眼寺公園として整備されている。

 

廃寺の秋の風景

慈眼寺跡の紅葉

 

鹿児島藩(薩摩藩)の初代藩主の島津家久(しまづいえひさ、島津忠恒、ただつね)は法号を「慈眼院殿花心琴月大居士」という。「慈眼寺」はこの法号からとられたものとも。慈眼寺は島津家に大事にされ、江戸時代はかなり興隆していたという。

 

 

 

 

 

 

日羅作の聖観音像を安置していたと伝わる

慈眼寺に関する情報は、『三国名勝図会』(19世紀に編纂された地誌)にちょっと掲載されていた。その成り立ちは、つぎのとおり。

由来紀云、初め百済國日羅の開基にて、自作の聖観音を安置し、天台宗なりしが、其後廢に及ひしや、臨済宗の寺となりしとぞ、應永年中に至りて、義天公再興し給ひ、又大中公の時、天文十一年、壬寅の春、改宗し、福昌寺十八世代賢和尚をして、当時の開山となし、福昌寺の末となす。(『三国名勝図会』巻之十九より)

 

開基は日羅(にちら)とされる。日羅は6世紀の人物で、葦北(熊本県葦北郡のあたり)の国造の火葦北阿利斯登(ひのあしきたのありしと)の子と伝わる。百済に渡って百済王に仕え、のちに帰国する。聖徳太子が師事した百済の高僧としても名が伝わる。

寺院には日羅が自作した聖観音像を安置していたが、寺院はすたれてしまった、と。その後、応永年間(1394年~1428年)に島津久豊(ひさとよ、義天公)が再興。さらに天文12年(1543年)に島津貴久(たかひさ、大中公)が福昌寺十八世の代賢和尚を開山として福昌寺の末とした。この際に天台宗から曹洞宗に改宗したという。本尊は釈迦如来。……聖観音ではない?

 

日羅が開基したという伝承は、ちょっとあやしい感じもする。実際には島津久豊の再興が開山であった可能性もありそう。


『三国名勝図会』には絵図も掲載されている。

慈眼寺の絵図

『三国名勝図会』巻之十九より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

境内は渓流沿いにある。観音堂には日羅作の聖観音像が納められていたという。観音堂前の橋からは滝も見える。また、境内には正八幡や弁財天の廟もあったようだ。建物は残っていないが、地形はほぼそのまま。当時の雰囲気を伝えている。

 

初代藩主の島津家久(島津忠恒)、2代藩主の島津光久が観音堂を参拝した際に詠んだ歌も伝わっている。


はし姫の瀧のしら糸くりかけて
もみぢのにしきなみやおりけん
慈眼公(島津家久)

 

山水にちりてながれぬもぢはは
しがらみかくるはしの上かな
虎寿丸(島津光久)

 

慈眼寺跡(慈眼寺公園)は、昔から紅葉の名所であったようだ。

島津家久(島津忠恒)はこの寺院の景色をたいへんに気に入り、自身の法号から「慈眼寺」と寺号を改めたとも(情報は、現地の説明版より)。ちなみに、改称前のもともとの寺号については不明。

 

 

 

 

廃寺跡を公園に

慈眼寺は明治2年(1869年)に廃された。いわゆる廃仏毀釈によるものである。

寺院跡の土地は個人に売却され、別荘地の建設が予定されていたという。景勝地が他郷の人の手に渡るのを憂えた吉井友輔(谷山の戸長を務めた人物)は、この土地を高額で買い取った。そして、慈眼寺跡の景観を維持し、公園化することに。明治19年(1886年)に有志220余名が株主となって「共楽園」を創設して実行された。公園は株主だけでなく、一般観光客にも開放された。この計画には谷山戸長の伊地知季治も深く関わる。ちなみに伊地知季治は、町村制施行により発足した谷山村の初代村長でもある。

 

また、昭和3年(1928年)には谷山町が慈眼寺跡を公園指定。園内の一部にあたる共楽園の町有化を要望する。株主たちは議論を重ね、昭和35年(1960年)に谷山市に譲渡した。

谷山市は昭和42年(1967年)に鹿児島市と合併。現在は鹿児島市の公園となっている。

 

この地は寺院としてだけでなく、景勝地として親しまれていた。廃寺後も大事にされ、公園化により景観が維持されてきた。そんな経緯をたどった慈眼寺跡は、他の廃寺跡とはどこか違った独特な雰囲気があるように思う。

 

 

 

慈眼寺跡を散策

慈眼寺公園はかなり広い。公園の敷地内には自然遊歩道あり、鹿児島市立ふるさと考古歴史館あり。稲荷山の上には谷山神社も鎮座する。その中で、寺院の遺構は公園の東側で見られる。JR慈眼寺駅からも徒歩10分ほど。

寺院跡の標柱

入ってすぐ「慈眼寺跡」の標柱

 

東側の入口から入ると、左手のほうがちょっと高くなっている。こちらのほうが仁王門。石段を登っていくと破損した仁王像が立っている。

寺院跡の風景

石段がある

 

石段と仁王像

石段をのぼっていくと

 

壊れた石像

仁王像

 

仁王像の背後には何やら遺構がある。『三国名勝図会』の絵図から判断すると、正八幡宮や弁財天があったあたりだろう。

 

石段がある

何かの遺構

 

こちらの空間を抜けておりていくと鳥居がある。稲荷神社が鎮座する。もともとは観音堂があった場所だ。日羅作と伝わる聖観音像が安置されていたという。

 

石の鳥居

稲荷神社へ

 

石橋と社殿

稲荷神社(観音堂跡)

 

もともと稲荷神社は近隣の稲荷山に鎮座していたが、観音堂の跡地に遷された。御祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)・猿田彦命(サルタヒコノミコト)・宮比命(ミヤビノミコト)。

この神社は島津貴久(しまづたかひさ)が勧請したとも伝わる。天文8年(1539年)に島津貴久は谷山の玉林城(神前城、鹿児島市和田、現在は伊佐智佐神社境内)を攻めた。このときに陣に白狐があわられ、島津貴久は吉兆だと喜んだ。城を落とすことができれば稲荷大明神を勧請しよう、と願をかけた。そして、戦いに勝利。稲荷山に稲荷大明神を祭った。……という。

 

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鳥居の前に「石橋新造碑」なるものも。廃寺の際に民家の土中に埋められていたもので、のちの掘り起こして昭和34年(1959)にここに再建された。碑文によれば享和3年(1803年)に洪水で石橋が破損したので新造したとある。現在の石橋がそれであるかどうかは不明。

 

渓流の滝

石橋からは滝も見える

 

鳥居の近くには青面金剛像もある。庚申信仰の神様だ。『谷山市誌』によると台座に「疱瘡大神」とあり、明治18年(1885年)に奉納されたものとのこと(現地で、銘は確認できなかった)。

 

庚申石像

疱瘡大神(青面金剛)

 

鳥居に向かって左側を見上げると、岩壁の中ほどに虚空蔵菩薩像がある。花が供えてあるが、あそこまで持っていくのがタイヘンそうである。『谷山市誌』によると背面に銘があるとのこと。文政4年(1821年)に慈眼寺20世住職の鉄心竜眼が造立させたもので、石工は岩永正助。

岩壁の石仏

上のほうに石仏がある

 

岩壁の石仏

虚空蔵菩薩

 

観音堂跡(稲荷神社)から川を挟んで崖のほうには、慈眼寺12世住職の大雲白峯の墓がある。墓の横には石仏も。

 

岩壁近くの墓

石段の向こうに

古い墓石

大雲白峰和尚の墓

 

歩き回ると、いろいろなものが見つかる。仁王像のあるところの登り口に大きな石祠。こちらは家畜大明神だ。石祠の中をのぞき込むと「馬頭神」の文字と馬のレリーフ。

 

大きな石祠

家畜大明神

 

石碑に「馬頭神」

神様が納められている

 

家畜大明神の向かって左側にも階段がある。こちらをちょっと登ると墓がある。写真のいちばん左が慈眼寺20世住職の鉄心竜眼の墓。廟の中には竜眼の石像も納められている。

 

古い墓

鉄心竜眼の墓(左)

 

竜眼の墓の近くには、状態の良い石仏も。こちらの詳細は不明。

 

古い石仏

なんだか味のある表情

 

公園入口近くには「酒水の井戸」なるものも。ここの湧水は酒造に使われていたとのこと。井戸近くの石畳は明和4年(1767年)に造られたもの。

 

湧水がある

酒水の井戸

 

 

慈眼寺公園の自然遊歩道

慈眼寺跡から上流のほうへは自然遊歩道が続いている。渓流沿いを散策できる。とくに紅葉の季節は景色が素晴らしい。「紅葉谷」とも呼ばれている。

 

紅葉の季節に

慈眼寺公園自然遊歩道

 

渓流沿いには「そうめん流し」もある。谷山観光協会が運営し、3月中旬~10月に楽しむことができる。

 

慈眼寺公園遊歩道

川の向こうが「そうめん流し」

 

天保年間に書かれた『鹿児島風流(かごしまぶり)』には、「そうめん流し」の記録もある。そうめんを渓流に流して、下流ですくって食べていたそうだ。

 

遊歩道には石仏もならんでいる。こちらは昭和3年(1928年)に整備されたもの。「慈眼寺紅葉谷西国八十八所札所」と呼ばれている。当時、鹿児島市内のいくつかの場所に、四国霊場八十八所巡りにならって札所を置いた。慈眼寺公園には66番~88番の札所の石仏がある。

 

渓流の道と石仏

霊堂巡りの石仏も

 

紅葉谷から北のほうにのぼっていくと稲荷山。その山上には谷山神社が鎮座する。こちらは懐良親王(かねながしんのう、かねよししんのう)を御祭神とする。昭和3年(1928年)の創建。慈眼寺公園の創設と同じ頃である。

 

遊歩道

谷山神社への石段

 

谷山神社についてはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年

『谷山市誌』
編/谷山市史編纂委員会 発行/谷山市役所 1967年

『鹿児島風流』(写本)
著/伊藤草臣

ほか