ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

阿多の和多利神社(上宮寺跡)、島津運久と島津忠良を祀る

和多利神社(わたりじんじゃ)は鹿児島県南さつま市金峰町宮崎に鎮座する。このあたりはかつての薩摩国阿多(あた)である。

御祭神は国饒大年彦命(クニニギオオトシヒコノミコト)と 日新偉霊彦命(ヒワカクシタマヒコノミコト)。島津氏相州家の島津運久(しまづゆきひさ)と島津忠良(ただよし)である。

もともとは水晶山花蔵院上宮寺(すいしょうざんかぞういんじょうぐうじ)と上宮熊野権現社があった。明治3年(1870年)に廃寺となったあと、島津忠義(ただよし)によって跡地に和多利神社が創建された。

 

田布施(たぶせ、こちらも金峰町)領主の島津運久は永正9年(1512年)に阿多を攻め取り、この地を隠居所として移り住んだ。そして田布施には、家督を譲られた島津忠良が入った。

上宮寺・上宮熊野権現社は古いもののようで、島津運久がこの地を領するようになってから再興したという。

 

 

 

 

 

「丸に十」の鳥居をくぐって

国道270号から脇道にちょっと入ると、島津氏の家紋「丸に十」の入った鳥居が見つかる。場所は万之瀬川の北側だ。

神社の入口

鳥居と社叢

 

石造りの鳥居

鳥居の存在感はなかなかのもの

 

上宮寺は12の坊がある大きな寺院だったという。その一部が現在の和多利神社の境内にあたる。規模は大きくはないものの、境内はいい雰囲気だ。

大きな木がある神社

境内へ

 

拝殿にも「丸に十」が目立つ。

社殿に「丸に十」も

拝殿、奥に本殿も見える

 

境内の一角には石祠もあった。ひとつ(写真右)は宝暦10年(1760)の紀年銘がある。

境内の祠

石祠

 

こちらは仁王像だったもの。足の部分の上に頭だったと思われる丸い石が乗っている。その横の石が胴体部分。

石造物

仁王像の跡

 

 

神社の由緒書きによると、社宝として島津運久・島津忠良の画軸、神鏡8面が伝わっているという。

 

 

分家から島津の本流へ

戦国大名としての島津家は下剋上により確立された。島津貴久(しまづたかひさ)は分家の相州家の出身なのだ。

和多利神社に祀られた島津運久と島津忠良は、相州家の2代目と3代目だ。このふたりが島津家の覇権を獲りにいったのである。

 

島津氏は奥州家(おうしゅうけ)が守護職を代々継承した。この奥州家がいわゆる本家筋にあたる。一方で、15世紀半ば頃から薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・相州家などの分家も力を持つようになっていた。

大永6年(1526年)に島津忠良がクーデターを起こし、嫡男の島津貴久を奥州家の後嗣に立てた。いったんは政権を奪う。しかし、翌年には頓挫する。薩州家の反撃によって。

しばらくは奥州家・薩州家・相州家が争う。一族の抗争は天文8年(1539年)頃に相州家が制する。島津貴久は天文19年(1551年)に正式に守護職にも就いた。

 

 

 

 

 

相州家とは?

相州家は島津友久(ともひさ)に始まる。島津忠国(ただくに、島津氏9代)の長男で、「相模守」を称した。

島津友久は長男だが、本宗家(奥州家)を継がなかった。後継者とされたのは次男の島津立久(たつひさ)だった。その理由は母の出自によるものと考えられる。島津友久の母は伊作勝久(いざくかつひさ)の娘、島津立久の母は新納忠臣(にいろただおみ)の娘だった。

なお、伊作氏は薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上町)を領する。新納氏は日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)を領する。いずれも島津氏の支族である。

 

15世紀半ば頃は新納氏の力が強かった。島津忠国としては新納氏の支持が必要だったと考えられる。一方で伊作氏は、島津忠国と敵対した弟の島津用久(もちひさ、薩州家初代)側についていた。こういった事情も、後継者の決定に影響しているのだろう。

さらに伊作氏では、長禄2年(1459年)に後継者が途絶える。そこで、島津忠国の三男を婿入りさせて家督を継がせた。これが伊作久逸(いざくひさやす)である。

 

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島津運久と島津忠良

島津忠良は伊作氏の生まれである。幼名は菊三郎。父は伊作善久(よしひさ)。母は新納是久(これひさ)の娘で、名は常盤(ときわ)とも伝わっている。

伊作氏では不幸が続く。明応3年(1494年)に伊作善久が馬丁に殺され(暗殺か)、明応9年(1500年)には伊作久逸が戦死する。菊三郎は幼く、常盤(新納是久の娘)が当主を代行した。

その後、常盤(新納是久の娘)は相州家の島津運久と再婚する。この頃、島津運久には後継者がいなかった。「連れ子」の菊三郎を養子とし、相州家を継がせることとした。

 

「島津運久が常盤の美貌に惚れ込んで求婚した」という話も伝わっているが、実際には政治的な思惑があってのことだと考えられる。

相州家としては、伊作氏の所領を吸収できるとともに後継者も得られる。伊作氏としては自領を守ることができ、さらには幼主が高い家格の家督を継げるのである。

 

相州家の血統はもともと伊作氏と縁が深い。そして、島津運久にとって菊三郎(島津忠良)は従兄弟の子でもある。

両家は統合した。とりもったのが、新納氏出身の未亡人というのも不思議な縁である。

 

下は相州家の略系図。

相州家の略系図


永正9年(1512年)、島津運久は菊三郎に家督を譲る。菊三郎は「島津相模守忠良」と名乗って田布施城を譲り受けた。島津運久は隠居の身となり、阿多城に移る。このとき、島津忠良は20歳くらい。そして、島津運久はまだ40代で、しばらくは実権を握っていたことだろう。

島津運久の活躍については、あまり記録が出てこない。島津忠良の手柄とされていることも、多いのかもしれない。

 

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上宮寺は推古天皇の時代の開山!?

『三国名勝図会』(19世紀に編纂された地誌)に、上宮寺について説明がある。こちらに沿って、寺の由来を記す。

 

『三国名勝図会』についてはこちら。

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寺伝によると、開山は推古天皇2年(594年)。百済からやってきた日羅(にちら)によるという。

日羅というのは、百済王に仕えた倭人と伝わる。肥後国葦北(現在の熊本県葦北郡・水俣市のあたり)の火葦北阿利斯登(ヒノアシキタノアリシト)の子とも。

この地で日羅が修業をしていたところ水晶玉が飛んできた。都に報告したところ、水晶玉を祭るよう言われる。そして、上宮熊野権現社と上宮寺が創建された。

……と、そんな伝説があるのだ。

なお、上宮寺の本尊は阿弥陀如来像、上宮熊野権現社の御祭神は伊弉册尊(イザナギノミコト)であったとのこと。

 

建久年間(1190年~1199年)に阿多郡司の二階堂土佐守が鎌倉大将軍の命令で、上宮熊野大権現と上宮寺を再興したという。これは地頭として関東から入った二階堂(にかいどう)氏のことだろうか。

ちなみに、二階堂氏が阿多郡北方の地頭職に任じられたのは13世紀半ばのこと。時期があわない。

上宮熊野権現社には、文安元年(1444年)再興の棟札もあったとのこと。


さらに時代は下って、永正15年(1518年)。「水晶玉を箱に収めて地中に埋め、新たに神鏡をこしらえてご神体とすること」という御神託があった。これを島津運久が実行し、寺社を再興したという。

伝わっている神鏡には「大願主島津藤原忠幸 永正十五年戊寅五月廿一日」と記されているそうだ。「島津藤原忠幸」は島津運久のこと。

天文の年、島津忠良が加世田城(かせだじょう、南さつま市加世田武田)を攻める際に上宮寺住職の政誉法印に命じて戦勝の祈祷を行わせたという。


相伝されている島津運久と島津忠良の画軸は、天文7年12月29日(1539年1月)に加世田城を陥落させたあと元旦に凱旋したときの様子を描いたものだという。

 

 

 

 

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『金峰郷土史 第1集』
発行/金峰町教育委員会 1963年

『旧記雑録拾遺 諸氏系譜 三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

ほか