ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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『宝暦治水伝 波闘』(作/みなもと太郎)、木曽三川に挑んだ薩摩義士の物語

宝暦4年(1754年)から翌年にかけて、薩摩藩は木曽三川の治水工事に関わった。「宝暦治水」とも呼ばれている。

木曽三川とは木曽川(きそがわ)・長良川(ながらがわ)・揖斐川(いびがわ)のことである。美濃国・伊勢国・尾張国が国境を接するあたりで、3本の急流が集まる。現在の岐阜県海津市・羽島市・大垣市・養老郡養老町、三重県桑名市・桑名郡木曽岬町、愛知県愛西市・弥富市の一帯である。この地は、たびたび洪水が発生していた。


「宝暦治水」を描いた作品はけっこうある。その中から『宝暦治水伝 波闘 -歴史に見る治水事業-』というマンガ作品を紹介する。作者はみなもと太郎氏。代表作『風雲児たち』ではギャグを交えて緻密に歴史をひもとく。本作もその路線で描かれたものである。


『宝暦治水伝 波闘』は1996年に財団法人河川環境管理財団が発行。現在は電子書籍で読むことができる。

AmazonにてKindle版が販売。「Kindle Unlimited(キンドルアンリミテッド)」の読み放題作品にもなっている。ほかに「マンガ図書館Z」にもある。

 

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宝暦治水伝 波闘

宝暦治水伝 波闘

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同作品は『風雲児たち30巻 外伝 宝暦治水伝』(希望コミックス、潮出版社)としても刊行。また、ワイド版『風雲児たち』(リイド社)では、3巻と4巻にまたがって収録されている。

 

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『宝暦治水伝 波闘』を紹介するとともに、「宝暦治水」についてちょっと書いてみたい。

なお、記事中の日付は旧暦にて記す。

 

 

 

宝暦治水のあらまし(作品のあらすじ)

幕府は薩摩藩主の島津重年(しまづしげとし)に木曽三川治水の「御手伝普請」を命じる。その知らせは、宝暦4年(1754年)の正月に薩摩へもたらされた。

「御手伝普請」とは、そのまま「お手伝い」である。

工事を取り仕切るのは幕府の役人で、その下で工事にあたる人員を薩摩藩から出す。工事の内容に口出しすることはできず、言われたままに動かなければならない。そのうえで費用はすべて薩摩藩が負担する。かなり理不尽な扱いなのだ。

この頃の薩摩藩には、すでにかなりの借金があった。幕府の命令に従うとなると財政はさらに逼迫する。かといって、従わなければ藩は潰される。「どうせ滅びるなら、幕府と一戦交えようではないか!」といった意見も出たらしい。

 

幕府が治水工事を命じたのには、「島津家の力を削ごう」という狙いがあったともされる。

一方で、薩摩藩が治水技術を持っていたからとも。

島津家の領内には暴れ川が多い。江戸時代に川内川(せんだいがわ)・万之瀬川(まのせがわ)・広瀬川(天降川、あもりがわ)・甲突川などで大規模な河川工事が行われている。洪水を避けるために川筋を変えたところもあった。

 

島津家中では幕府の命令に従うことを選ぶ。薩摩藩は平田靱負(ひらたゆきえ、平田正輔、まさすけ)を工事奉行とし、約1000人の藩士を派遣。1年3ヶ月ほどかけて、苦難のすえに工事をやりとげた。

工事そのものが危険なために事故もあり、劣悪な環境もあって病死する者もあり、そして幕府役人の理不尽な仕打ちに耐えかねて自刃する者も出たりした。そして、工事費は当初の見積金額を大幅に上回った。

工事は宝暦5年(1755年)5月に完了した。

 

 

読んだ感想を

平田靱負(平田正輔)がとにかくカッコイイ! 

信念を持って行動する人物を描くのが、みなもと太郎氏はとても上手いのである。それは『宝暦治水伝 波闘』でもしっかりと発揮されていると思う。

そして、情報の扱いが丁寧である。資料を読み込んでいることがうかがえる。状況説明や物事のつながりもわかりやすい。読んでスッと飲み込める感じがする。

 

宝暦治水伝 波闘

 

 

平田氏とは?

平田氏は島津家に古くから仕える。桓武平氏とされる。中世の頃から家老として名前が出てくる。大隅国の帖佐・加治木(ちょうさ・かじき、鹿児島県姶良市)にもともとの地盤を持っていたようである。戦国時代の平田光宗・平田歳宗は、島津貴久(たかひさ)・島津義久(よしひさ)の家老を務めた。

一族は「宗」を通字とする。平田正輔(平田靱負)は「宗輔」と名乗っていた時期もある。

鎌倉時代の初めに肥後坊良西なる人物が大隅国帖佐の地頭に任じられている。この良西の後裔を、平田氏は称している。

 

 

 

薩摩では語られなかった「宝暦治水」

宝暦治水について、薩摩藩内では口をつぐんだ。

多大な犠牲を出し、莫大な借金も残ってしまったのである。「触れたくないこと」、いわゆる「黒歴史」として扱われた。

また、宝暦治水について語ることは幕政批判にもつながる恐れも。そんな事情もあったと考えられている。

時間の経過とともに、島津家領内でも「宝暦治水」について知る者はいなくなっていった。

 

語り継いだのは美濃国や伊勢国の人々だった。治水工事の恩をひそかに伝承したのだという。

明治33年(1900年)に岐阜県の油島村(現在は海津市のうち)に「宝暦治水之碑」が建てられた。三重県多度村(現在は桑名市のうち)の西田喜兵衛が発起人であった。西田喜兵衛は埋もれていた「宝暦治水」の顕彰のために奔走した。「薩摩義士」という言葉も、この頃にできたものらしい。

顕彰運動は岐阜県や三重県で盛り上がる。埋もれていた歴史が掘り起こされ、「宝暦治水」の実像も検証されていく。大正時代から昭和の初めにかけて発行された関連書籍も多い。ただし、「顕彰」が出発地点ということもあって、誇張されたり美化されたりしているところもあると思われる。

 

大正5年(1916年)には、平田靱負(平田正輔)に従五位が追贈された。このことをきっかけに鹿児島県でも顕彰活動が展開されるようになる。

大正9年(1920年)には鹿児島城の一角に「薩摩義士碑」が建立。これは平田靭負(平田正輔)をはじめ工事中に亡くなった者たちの供養墓塔である。

 

石碑

鹿児島の「薩摩義士碑」、いちばん上が平田靱負の供養塔

 

木曾三川のあたりでも、あちこちで建碑が行われる。さらには昭和13年(1937年)、油島に治水神社(ちすいじんじゃ)が創建された。ここは平田靭負(平田正輔)を御祭神とする。

 

一方、鹿児島市平之町の平田靱負邸宅跡地が「平田公園」として整備。昭和29年(1954年)に県史跡に指定されるとともに、平田靱負(平田正輔)の銅像も建てられた。

工事を指揮する姿を銅像に

鹿児島平田公園の平田靱負像



銅像の制作者は彫刻家の安藤士(あんどうたけし)。渋谷駅のハチ公像(2代目)の作者としても知られる。ちなみに父は安藤照(てる)。こちらはハチ公像(初代)、鹿児島城山麓の西郷隆盛像を手掛けた人物である。

「宝暦治水」の縁を発端として交流も続いている。鹿児島県と岐阜県は昭和46年(1971年)より姉妹県盟約を結んでいる。

 

 

宝暦治水のあとの薩摩藩

治水工事からわずか1ヶ月後に、藩主の島津重年は26歳の若さで亡くなる。嫡男の島津忠洪(ただひろ)がその跡を継ぐが、まだ9歳であった。名前に「洪」の字が入っているのも妙な縁である。その後、島津忠洪は「重豪(しげひで)」と名を改めた。

島津重豪は名君であった。また、「蘭癖大名」の代表格としても知られる。そして、父とは対照的に長命だった。家督を譲って隠居したあとも実権を握り、70年以上にわたって藩政を動かした。

 

薩摩藩の借金は大きく膨らんでいた。ところが、島津重豪はお構いなしに行動する。領内の河川・港湾・農地の整備をすすめ、商工業の振興にも力を入れた。「造士館」「演武館」といった教育施設を設立したり、天文学・暦学研究のための「明時館」をつくったり、医学校をつくったり、歴史の研究・編纂をさせたり、……と教育・文化・科学に関わる事業も盛んに行っている。

いろいろやったことで、薩摩藩の財政状況はさらに悪化した。しかし、島津重豪の投資はのちのち効いてくる。人材が育ち、技術力がつき、幕末の強い薩摩藩へとつながっていく。島津斉彬(なりあきら)も、この強烈な曽祖父の影響を受けまくっている。

一方、財政難のほうについては調所広郷(ずしょひろさと)に改革が任された。調所広郷はもともと茶坊主だったが、島津重豪により抜擢。低い身分の出身ながら家老にまで出世する。調所広郷の改革は成功し、薩摩藩は経済的にも力をつけたのである。


「宝暦治水」でボロボロになったけど、その後の薩摩藩をかえって強くしたような……そんな感じもするのである。

 

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<参考資料>
『宝暦治水伝 波闘』Kindle版
作/みなもと太郎 発行/Jコミックテラス 2021年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

『宝暦治水・薩摩義士』
著/坂口達夫 発行/春苑堂書店 2000年

『鹿児島縣史 第2巻』
著・発行/鹿児島県 1939年

ほか