ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

桜島の噴火史をまとめてみた、大噴火には前兆もいろいろあるみたい

桜島は火山である。日常的に噴火している。音と空振で噴火に気づいたり、「灰はどっちに降るのかな?」と風向きを気にしたり、「車を洗ったばかりなのに」と残念がったり……というのは鹿児島に住む者にとってはよくあることだ。噴火には慣れている。恐れはあまりない。ちょっと静かになると、かえって不安になるくらいだ。

海に浮かぶ桜島

鹿児島市街地側から見る

 

小さな噴火であれば、なんということはない。だが、桜島は大噴火を起こした歴史を持つ。近いところでは大正3年(1914年)のものが大きかった。大正噴火では溶岩が海峡を埋めて大隅半島とつながる。島ではなくなった。

 

噴火の歴史をちょっとまとめてみた。大噴火の前兆などの記録もあったりする。

 

 

 

 

 

桜島は姶良カルデラの一部

鹿児島湾の北側は姶良カルデラの巨大噴火によりできた地形である。約2万2000年前に噴火し、陥没したところに海が流れ込んだ。鹿児島市から姶良市脇本にかけて湾岸を国道10号が通る。ここは断崖絶壁がつづく。これがカルデラ壁である。また、霧島市福山から垂水市牛根にかけても湾岸の道路(国道220号)は断崖つづきである。

 

桜島は姶良カルデラの南縁部にあたる。約1万3000年前に火山活動にともなって形成されていったと推測されている。

複数の火山・火口から成り、最初は北岳が出現、そのあとに南岳ができた。なお、現在の噴火口のは南岳のほうである。

眼下に広がる鹿児島湾

姶良カルデラ、寺山展望所より見る



 

天平宝字の大噴火

『続日本紀』の天平宝字8年12月(765年1月か)の記録に、桜島の噴火と思われるものがある。

 

西方に聲あり。雷に似て雷にあらず。時に当たりて大隅薩摩両国の堺に、煙雲が晦冥し、奔雷が去来す。七日の後にすなわち天晴れる。麑島信爾の村の海において、沙石おのずからあつまり、化して三島と成る。 (『続日本紀』より漢文の書き下し、一部の漢字表記を改めた)

 

「煙雲が晦冥し、奔雷が去来す(噴煙が覆って真っ暗になり、稲妻が走る)」と凄まじい様子で、煙が晴れるのに7日間を要したのだという。火山活動で麑島(かごしま、鹿児島)信爾村の海に3つの島ができたとも書かれている。これは霧島市隼人町の沖合にある神造島(かみつくりしま、隼人三島)のこととされる。『三国名勝図会』でも『続日本紀』を根拠として、この説をとっている。

ただ、神造島(隼人三島)ができたのは、天平宝字の噴火の頃よりもっともっと古いそうだ。実際には50万年以上前のことらしい。

 

麑島信爾村がどこなのかはわからない。『三国名勝図会』では、真孝小浜(霧島市隼人町小浜)や住吉小村(隼人町住吉)のあたりだと推定している。また、当時の「麑島(鹿児島)」と呼ばれる場所は、現在の鹿児島市付近ではなくこちらであったとも考えられるとのこと。ちなみに、霧島市隼人町には鹿児島神宮が鎮座している。

 

絵図に島が描かれている

神造島、『三国名勝図会』巻之三十一より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』の詳細はこちら。

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文明の大噴火

文明3年から文明10年にかけて(1471年~1478年)、大きな噴火の記録がある。文明3年の噴火では、黒神(鹿児島市黒神町、桜島の東麓)や野尻(鹿児島市野尻町、桜島の西麓)のあたりで火を発した(噴火した)という。

 

炎火沙石の為に居舎埋没し、人畜死亡せしこと其数を知らず (『三国名勝図会』巻之四十三より)

 

大量の火山灰を噴出して周囲を埋めて大きな被害を出し、降灰は他国まで飛んでいったとも。

この火山活動では、沖小島(おきこじま)・烏島(からすじま)もできた。沖小島は桜島の南に浮かぶ。烏島は大正噴火で溶岩に埋もれ、現在は残っていない。

桜島の南に沖小島と烏島が浮かぶ

『三国名勝図会』巻之四十三より(国立国会図書館デジタルコレクション)


文明の大噴火は、南九州の情勢にも大きく影響した。この頃の島津家の当主は島津立久(しまづたつひさ)であった。領内の反乱を押さえ、日向国(現在の宮崎県)の伊東(いとう)氏とも和を結び、安定した時代を築いていた。しかし、文明6年(1474年)4月に島津立久は病死。まだ幼い島津忠昌(しまづただまさ)が当主となると、領内では反乱が相次ぐ。薩摩・大隅・日向は「三州大乱」と呼ばれる状況となった。

大乱の原因は、若い当主が家臣団の統制をとれなくなったからだと言われている。それだけではなく、桜島の大噴火も世を乱す要因のひとつとなったと考えられる。

島津家の本宗家は弱体化し、16世紀半ばには分家の島津忠良(しまづただよし)・島津貴久(たかひさ)が覇権を握ることになる。

 

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安永の大噴火

安永8年(1779年)10月に桜島が火を噴く。山上の2箇所から轟音とともに黒煙があがり、島の東西を焼く。火山灰が大量に降り、噴石を飛ばし、泥土も流れ出した(火砕流か? 土石流か?)。噴煙は空を覆って、昼なのに真っ暗に。そして、雷鳴も轟く。あわせて大地震も発生した。

藩主の島津重豪(しまづしげひで)はすぐに救援を命じる。鹿児島から数百隻の船を出して島民を脱出させる。城下には2000人以上が避難してきた。城では倉を開いて米数百石を出し、避難民は飢えをまぬがれる。さらに、銭も拠出して避難民に配った。

噴火翌日には大坂(おおざか、大阪府)にも降灰があったという。

 

前兆があったことも『三国名勝図会』に書かれている。大噴火の2日前から地震が頻発した。噴火の直前には、島内の井戸が沸騰し、あちこちで水が噴出し、海が紫色に変色したのだという。

その後も、安永9年・安永10年にも噴火が相次ぐ。安永噴火をきっかけに活発化したようで、天明年間・寛政年間(1781年~1801年)はたびたび噴火した。

安永の大噴火では、桜島の北に新島(しんじま)が生じた。

新島の絵図

新島、『三国名勝図会』巻之四十三より(国会図書館デジタルコレクション)


この頃の鹿児島藩(薩摩藩)の財政は、かなり厳しい状況にあった。というのも、幕府に命じられた治水工事(宝暦治水)で莫大な借金をかかえた後である。そこに、大噴火による出費も重なった。

藩では財政改革に着手する。19世紀に入って島津斉興(しまづなりおき、島津重豪の孫)の代になると、調所広郷(ずしょひろさと)の活躍もあって財政難は解消していく。財政再建においては商工業にも力を入れ、その後の近代化政策にもつながっていった。

 

 

大正大噴火

大正3年(1914年)1月12日の噴火は安永大噴火に次ぐ規模となった。『桜島噴火の概況』という論文を参考に、その状況を見てみる。ちなみに、この論文は噴火の翌年(大正4年)に発表されたものだ。ほかに、『桜島町郷土誌』も参考にした。

 

1月12日午前8時頃に東麓の鍋山近くから噴煙があがり、しばらくして御岳(北岳)近くにも白煙が見られた。さらに横山(鹿児島市桜島横山町)の上方、南岳からも噴煙が出る。午前10時5分、赤水(鹿児島市桜島赤水町)の上の谷あいで轟音とともに黒煙が噴き出して、本格的な大噴火へ。噴煙は止まずに桜島を覆う。午後3時30分に激しく爆発し、勢いを増した。噴煙や溶岩は出続け、3月になってようやく終息した(その後も断続的に噴火が発生する)。

噴火が激しくなった午後6時半頃には大地震も発生。島外でも死傷者を出す。マグニチュード7程度と推定される。

溶岩流は桜島の西麓の2つの新火口、東麓の5つの新火口から噴き出した。西麓は約200万坪(約661ha)、東麓は約207万坪(約684ha)を埋めたという。厚さは70尺~100尺(約21m~30m)ほど。西麓では横山・赤水の集落が埋没。東麓では南側へ溶岩流が下り、有村・脇村が埋没。また、1月28日には瀬戸の海峡を埋めた。

溶岩原で、桜島を間近に見る

有村展望所には大正噴火の溶岩原が広がる

道路の向こうに断崖の山

かつて海峡だった瀬戸のあたり

 

火山灰と軽石も大量に噴出した。黒神では軽石が厚さ5尺~6尺(約1.5m~1.8m)ほど、降灰が1尺(約30㎝)ほどになったという。降灰量がもっとも多かったのは垂水や牛根(ともに垂水市)のあたりで、厚さ3尺(1m弱)にもなる場所もあった。

 

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前兆と思われる異変も多々あり。噴火前日の1月11日から鹿児島市近辺で地震が頻発した。鹿児島測候所の観測によると11日は238回、12日は231回だった。加治木(鹿児島県姶良市加治木)の温泉では1月7日頃から温度が上がり、入来温泉(鹿児島県薩摩川内市入来町)付近では地割れが発生した。加治木や国分(鹿児島県霧島市国分)では井戸の水量が増す。桜島島内では井戸が涸れる、または増えるところがあった。鹿児島市のほうでも井戸が濁る、涸れるなどの現象が見られた。1月11日頃には、桜島近海でエビの大量死もあったのだという。

 

 

 

『桜島噴火の概況』はKindle版が無料で読める。

 

ほか、桜島関連の記事。 

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『桜島町郷土誌』
編/桜島町郷土誌編さん委員会 発行/桜島町長 横山金盛 1988年

『桜島噴火の概況』
著/石川成章 1915年
 ※「地学論叢 第六輯」東京地學協会
 ※底本をもとに電子書籍版を2017年に作成

『続日本紀』(国史大系.第2巻)
編・発行/経済雑誌社 1897年-1901年

ほか