鹿児島県の地形は、桜島をふたつの半島が抱きかかえるような感じになっている。そのため、いろいろな方向から桜島を見ることができる。そして、角度によって表情も変わるのである。
19世紀に薩摩藩が編纂した地誌『三国名勝図会』にも、桜島が描かれた絵図が数多くある。今回は大隅半島の垂水市から見る桜島を絵図ともに紹介する。
『三国名勝図会』については、こちらの記事にて。
江之島と桜島
垂水市の海潟(かいがた)というところにある。海潟漁港の沖合に浮かんでいるのが江之島(えのしま)だ。漁港に入って奥のほうにいくと「海潟さくら公園」につく。ここが展望スポットとなる。『三国名勝図会』の絵図と現在の風景を比べると、ほぼほぼそのままである。
絵図では北岳から煙が出いている。噴火するのは南岳だから、これはちょっと不思議な感じがするのだ。安永8年(1779年)に桜島は大噴火を起こしており(安永噴火)、このときには北岳近くからも溶岩が流出した。『三国名勝図会』が編纂されたのは安永噴火から半世紀ほどあとのことである。安永噴火の影響で北岳のあたりから煙が出ていたのだろうか? それとも、描き間違ったのか?
『三国名勝図会』によるともともとは「弁天島」と呼ばれていたそうだ。江之島には「弁天社」があったとのことで、絵図にも鳥居が描かれている。ただ、現在は鳥居が見当たらない。
この地には、薩摩に配流された近衛信伊(このえのぶただ、のちの関白)が訪れ、景色をたいそう褒めたそうだ。近衛信伊が「鎌倉の江之島に似ている」と言って、この地を「江之島」と名付けたとされる。また、江戸時代には江之島で羊を放牧していたとも、『三国名勝図会』に記されている。
江之島は日没時も素敵だ! 夕日に浮かび上がる桜島のシルエットは、大隅半島ならではの光景だ。
余談だが、海潟さくら公園の近くには、手頃な価格で美味いカンパチ丼を提供している店がある。垂水市は養殖カンパチの日本一の産地だったりする。前述のカンパチ丼を出しているのは養殖カンパチの会社の直営店なのだ。海潟を訪れた際には、こちらも寄ってみるべし。
瀬戸、大正噴火で埋まった海峡
桜島はかつて、文字通り島だった。瀬戸(狭い海峡)で隔てられていた。ところが大正3年(1917年)の大噴火(大正噴火)で流出した溶岩が瀬戸を埋め、桜島は大隅半島とつながったのである。
こちらは『三国名勝図会』より「瀬戸」のあたり。大正噴火では「早嵜」のあたりで陸続きとなった。
「道の駅たるみず」から瀬戸方面を見る。ここには帆船のモニュメントがある。これは幕末期に建造された昇平丸(しょうへいまる)を模したものだ。
瀬戸には薩摩藩の造船所があり、ここで昇平丸が建造された。洋式軍艦の国産第1号である。島津斉彬(しまづなりあきら)は嘉永4年(1851年)に藩主に就任すると積極的な近代化政策をとる。西洋の技術を取り入れてあらゆる分野で研究・開発を行う。その中で、洋式軍艦の建造も手掛けたのである。
島津斉彬は軍艦建造の許可を幕府に願い出る。大型船の建造は幕府により禁止されていたが、嘉永6年(1853年)に許可を得る。この年にペリーが浦賀に来航しており、海防の強化を幕府も重視したのだ。許可が下りるとすぐに瀬戸村造船所で起工。翌年に軍艦が完成し、「昇平丸」と名付けられた。
薩摩藩は瀬戸村(せとむら)のほかに、近隣の有村(ありむら)・牛根(うしね)にも造船所を設けた。有村造船所では天元丸・承天丸、牛根造船所では鳳瑞丸・万年丸が建造されている。
昇平丸は薩摩藩より幕府に献上。安政2年(1855年)に薩摩から江戸に向けて航行した。この際に日本の船舶であること示す旗印として「日の丸」が掲げられた。
ペリー来航のあたりの事情は、こちらの漫画も参考になる。
有村の溶岩原
垂水から桜島へ渡って少し行くと、有村溶岩展望所(鹿児島市有村町)がある。ここには溶岩原が広がっている。大正噴火で大量の溶岩が流出し、このあたり一帯を飲み込んだ。溶岩の上にはクロマツが群生し、特異な光景を作り出している。
こちらは大正噴火の様子がよくわかる一冊だ。あちこちで水が吹き出す、地鳴りや地震など、前兆もいろいろあったという。
関連記事。こちらもどうぞ。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『桜島町郷土誌』
編/桜島町郷土誌編さん委員会 1988年
ほか
『三国名勝図会』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。