ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

『鹿児島県史料集』が便利! 鹿児島県立図書館のホームページで読める!

『鹿児島県史料集』なる鹿児島県立図書館のシリーズ刊行物がある。こちらで出ている本が、島津氏や南九州の歴史を調べるときにすごく重宝するのだ!

 

鹿児島県立図書館には貴重な史料・資料が大量に所蔵されている。『鹿児島県史料集』は、その所蔵本をおもな底本として翻刻されたものだ。昭和34年(1959年)よりはじまり、ほぼ年1冊のペースで発行。これまでに第61集までが出ている。

そして、『鹿児島県史料集』各刊は鹿児島県立図書館のホームページ内ですべて閲覧可能なのだ。pdfが公開されている。

 

鹿児島県史料集はこちらで読める。

www.library.pref.kagoshima.jp

 


とにかくイイ本が揃っている! 当ブログでは南九州の歴史をテーマにしているが、この中には参考資料としているものもかなりある。そんなわけで、全61集のうちで個人的なオススメをちょっと挙げてみる。

 

 

 

 

『島津世禄記』/第36集

15代当主の島津貴久(たかひさ)から島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津家久・島津光久(みつひさ)と続く、5代の歴史をつづる。大永6年(1526年)に島津貴久が守護家の後継者となったところから、およそ120年ほどについて書かれている。戦国時代の島津氏の動きがわかる。

なお、『島津世禄紀』を含む多くの歴史書では、島津義弘も当主として数えている。

 

編纂者は島津久通(ひさみち)。慶安元年(1648年)に完成させた。島津久通は宮之城島津家の当主。島津尚久(なおひさ、島津貴久の弟)の曾孫にあたる。

底本となった鹿児島県立所蔵本は玉里島津家所蔵本(島津久光が所蔵したもの)の写本。

 

 

『島津世家』/第37集

明和6年(1744年)に島津重豪(しまづしげひで、島津氏25代当主)の命で編纂された。編纂者は郡山遜志。当時の記録奉行である。初代の島津忠久(ただひさ)から18代の島津家久(いえひさ、島津忠恒、ただつね)までの歴史を紀伝体で著す。島津家の正史ともいえる歴史書である。

ちなみに、『島津国史』(編/山本正誼)は、この『島津世家』をもとに編年体にしたものである。

底本とした鹿児島県立図書館所蔵本は、明治13年(1880年)の写本。

 

 

『明赫記』/第27集

大永6年(1526年)から天正17年(1589年)までをつづる。島津貴久が守護家の家督を継承することになったところからはじまり、島津氏が豊臣秀吉に降ったあとくらいまでの出来事を記す。肥後攻めや岩屋城の戦いについては,他の史料と比べて詳しく書かれている。

天明元年(1781年)に平田正表がまとめたもの。この人物の詳細についてはわからない。ちなみに、近い時代に平田正輔がいる。通称の平田靱負(ゆきえ)のほうでよく知られ、木曽三川の治水工事の総奉行を務めた人物である。平田正輔(平田靱負)との関係性はわからないが、名前の感じからも同族なのかも。

底本の鹿児島県立図書館所蔵本のほか、鹿児島県歴史資料センター黎明館の所蔵本(東京大学史料編纂所にある写本のコピー)も参照しながら校訂されている。

 

 

 

『西藩烈士干城録』/第49集・第50集・第51集

戦国時代の島津氏家臣団の列伝集。「西藩(せいはん)」とは薩摩藩(鹿児島藩)のこと、「干城(かんじょう)」とは国を守ること。つまり、国を守った烈士の事績を記したものだ。

列伝の1番目は島津歳久(しまづとしひさ)、2番目は島津家久(いえひさ)、3番目は島津忠将(ただまさ)、4番目は島津尚久(なおひさ)……と続いていく。典拠となる史料・資料は131。人物ひとりひとりの情報がしっかりと詰まっている。

 

著者は上原尚賢。御抱守兼持読(傅役と教育係)として、島津久光に幼少時より仕えた人物である。

『西藩烈士干城録』は草稿の状態であったものを、嘉永年間(1848年~1854年)に島津久光が浄写したという。これが玉里文庫にある。鹿児島県史料集のものは、こちらを底本としている。

 

 

『本藩人物誌』/第13集

人物事典である。戦国時代の島津氏に関連した人物を網羅。15世紀半ばから17世紀半ばにかけての人物の略伝が「いろは」順に掲載されている。収録人数はすごく多い。島津家の一門衆や家臣団、領内の諸氏など。人物にもよるが、出自や事績など詳しく書かれていたりする。典拠となる史料・資料は132あり、現存しないものも含まれる。

写本は4部ある。玉里文庫(玉里島津家所蔵本のうち鹿児島大学附属図書館が所蔵するもの)に3部、鹿児島県立図書館所蔵に1部である。玉里文庫の写本のひとつ島津久光の自筆だという。県立図書館所蔵の写本は、その島津久光自筆本を写したものだという。

鹿児島県史料集の『本藩人物誌』は鹿児島県立図書館所蔵本を底本とし、島津久光自筆本とも照合して翻刻されている。

 

巻末の「引用書目」の最後のほうに、つぎのように記されている。

右本藩人物誌十三巻福崎某所著也 天保十年巳亥冬十一月二十九日援筆而至十一年庚子六月十三日写終   源忠教蔵本  (『本藩人物誌』より)

「『本藩人物誌』十三巻は福崎某が著したもので、天保10年(1839年)から翌年にかけて写し終えた」とある。「源忠教」というのは島津久光のことである。

 

著者の「福崎某」は、福崎正澄であるとされている。この人物は上原尚賢の弟子。『本藩人物誌』は前述の『西藩烈士干城録』を基にしているとも。『西藩烈士干城録』が漢文表記であるのに対し、『本藩人物誌』は漢字仮名まじりで読みやすい。

個人的には、記事作りでこの『本藩人物誌』を参考にすることはけっこう多かったりする。

 

 

『樺山玄佐自記並雑』『樺山紹剣自記』/第35集

樺山玄佐は樺山善久(かばやまよしひさ)のこと、樺山紹剣は樺山忠助(ただすけ)のこと。ふたりは親子。それぞれが記したものを、鹿児島県史料集では1冊にまとめて収録。底本はいずれも鹿児島県立図書館所蔵本。なお、『樺山玄佐自記並雑』というのは写本を作った人物が『樺山玄佐自記』と別の史料を合本したことによる。

樺山善久は永正10年(1513年)の生まれ。16世紀前半、奥州家(守護家)の島津勝久、薩州家の島津実久、相州家の島津忠良・島津貴久が南九州では覇権を争う。その中で樺山氏は一貫して相州家に協力する。ちなみに、樺山善久は島津忠良次女(御隅、貴久の姉にあたる)を正室に迎えている。相州家が覇権を握ると、島津家中で樺山家は重きをなした。没年は文禄4年(1595年)

樺山忠助は天文9年(1540年)の生まれ。父とともに島津貴久・島津義久に従って転戦する。島津家久(貴久の四男)の正室は樺山忠助の妹。義兄弟の関係であったからなのか、樺山忠助は島津家久と行動をともにすることが多かった。没年は慶長14年(1609年)。

いずれも島津貴久・島津義久にかなり近い人物である。『樺山玄佐自記』『樺山紹剣自記』では、戦国時代の島津氏の動きを知ることができるのだ。

 

 

 

『加治木古老物語』/第48集

「加治木古老」とは島津義弘のこと。その逸話集である。とくに加治木(かじき。鹿児島県姶良市加治木)で晩年を過ごした頃のものが多い。

第48集には『雑事奇談集』『薩藩雑事録』『旧薩藩奇談(譚)旧記集』もあわせて収録。

 

 

『山田聖栄自記』/第7集

山田聖栄(やまだしょうえい)は15世紀に活躍した人物。「聖栄」は号で、名は「忠尚(ただひさ)」という。応永5年(1398年)の生まれで、島津久豊(ひさとよ)・島津忠国(ただくに)・島津立久(たつひさ)・島津忠昌(ただまさ)に仕えた。

『山田聖栄自記』は文明2年(1470年)から書きはじめ、文明14年(1482年)まで書きためたものである。初代の島津忠久からの歴史について書き、とくに島津久豊については詳しく書かれている。

山田忠尚は青年期に島津久豊に仕え、各地を転戦している。この時代の記述については、信頼性が高いと思われる。

第7集には『薩摩国阿多郡史料』もあわせて収録。

 

 

 

 

これらのほかにも貴重な史料はまだまだある。『薩摩国 新田神社文書』(第3集)、『薩摩国 山田文書』(第5集)、『薩摩藩天保改革関係史料 一』(第39集)、『小松帯刀日記』(第22集)、『桂久武日記』(第26集)、『桂久武書翰』(第30集)、などなど。

 

www.library.pref.kagoshima.jp

 

 

島津氏や南九州の歴史を調べるときは、こちらもあわせて見たいところ。鹿児島県史料『旧記雑録』『旧記雑録拾遺』も。

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