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田布施城(亀ヶ城)跡にいってみた、相州家の本拠地、島津貴久はここで誕生

田布施城(たぶせじょう)は薩摩国田布施(鹿児島県南さつま市金峰町)にあった山城だ。別名に亀ヶ城(かめがじょう)ともいう。現在は城跡に亀ヶ城神社が鎮座している。

この城は、島津氏の分家のひとつである相州家(そうしゅうけ)の居城だった。相州家3代当主の島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい)は、本宗家に代わって覇権を握る。そして、嫡男の島津貴久(しまづたかひさ)は島津本宗家の当主となった。

 

島津貴久は、永正11年5月5日(1514年5月28日)に田布施城で生まれたとされる。亀ヶ城神社の御祭神は島津忠良公と島津貴久公。境内(城跡)には、島津貴久の誕生にかかわるものもあるのだ。

 

 

 

 

 

城跡散策と参拝と

金峰町尾下のあたりに丘陵があり、そこが田布施城(亀ヶ城)の城域だ。亀ヶ城神社の境内にちょっとだけ山城の痕跡が見られる。

場所は国道270号から脇道に入ったところ。南薩養護学校前の道路を500mほど西に進むと道路沿いに神社がある。

 

道路から見ると段差が確認でき、曲輪や土塁の痕跡と思われるところも見られる。

神社の入口

道路沿いに曲輪っぽい形状

山城跡の土塁

土塁

 

神社の西側に参道口があり。古そうな石橋と石段がある。いつ頃作られたものかはわからない。

古さを感じる神社の参道

手前に石橋、奥に石段

石段を登って鳥居をくぐる

石段はそれほど長くない

 

石段を登り、鳥居をくぐって境内に。「大中公誕生之地」の石碑がある。大中公とは島津貴久のことである。

山の中の神社

鳥居の向こう側に石碑も見える

木立と石碑と

「大中公誕生之地」碑

 

神社が鎮座する一帯は本丸跡にあたる。拝殿の背後には土塁らしき地形も確認できた。

森の中に朱色の拝殿

参拝する

森の中の境内

拝殿側から曲輪を見る


拝殿近くには、玉垣に囲われた大きな石も。これは「両石亀」と呼ばれるもの。儒者から夢にこの石が現れたことを島津忠良が聞く。吉夢だと感じて庭に両石亀を置くと、嫡男(のちの島津貴久)を授かった。……と、そんな伝説が残っている。

玉垣の中に大きな石がある

両石亀

 

また、本丸跡(境内)の西隅に置かれている荒神祠は、島津貴久が産湯につかった場所とされる。寛政6年(1794年)に祠が修復され、そのときの記念碑も残っている。

石の祠と記念碑

荒神祠

古びた石碑

記念碑に荒神祠のいわれが記されている

 

 


阿多隼人がいた

田布施は薩摩国阿多郡(あたのこおり、あたぐん)に属している。薩麻国(薩摩国)が設置されるのは8世紀初め頃だが、そのまえは薩摩半島の一帯を「阿多」「吾多」「吾田」(読みはすべて「あた」)と呼んでいた。そして、このあたりに住んでいた者が「阿多隼人」であり、阿多君(あたのきみ)一族が支配していたようだ。

この阿多郡のあたりは、海上交易の港もあったと考えられる。阿多君一族はその利をもって、大きな勢力を有していたようだ。

 

薩麻国(薩摩国)設置後は、阿多隼人を「薩麻隼人」と称するようになった。また、阿多君も「薩麻君(さつまのきみ)」と名乗りを変えたともされる(諸説あり)。ちなみに、天平8年(736年)の『薩麻國天平八年正税目録帳』には、薩麻君一族の名が多く確認できる。

 

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阿多忠景が南九州の覇者に

12世紀前半、薩摩半島中南部で薩摩平氏(さつまへいし)と呼ばれる一族が繁栄した。または河邊一族(かわなべいちぞく)ともいう。伊作良道(いさよしみち、いざくよしみち)が薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)に下向したのがはじまりだという。阿多もその勢力範囲内であった。

 

その出自は諸説ある。よく言われているのが、11世紀初め頃の刀伊(とい)の入寇の際に、九州に下向した関東の平氏一族の流れをくむというもの。九州に入った彼らは鎮西平氏(ちんぜいへいし)とも呼ばれ、大宰府の官職などについた。また、九州で土地を得て土着したという。

ちなみに、南九州にあった巨大荘園「島津荘(しまづのしょう)」を開拓した平季基(たいらのすえもと)も鎮西平氏と伝わる(こちらも諸説あり)。薩摩平氏と同族ともされている。

 

伊作良道は広大な土地を息子たちに分割して相続させた。長男は河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)を、次男は給黎(きいれ、鹿児島市喜入)を、三男は頴娃(えい、鹿児島県南九州市頴娃)を、四男は阿多を、五男は加世田別府(かせだべっぷ、鹿児島県南さつま市加世田)をそれぞれ引き継ぐ。そして、地名を苗字として名乗った。

惣領は長男の河邊道房(かわなべみちふさ)であったが、四男の阿多忠景(あたただかげ、平忠景)が兄を討って一族を束ねた。さらに、周辺にも侵攻して土地を奪った。薩摩国だけでなく大隅国にも進出して、一時は南九州一帯を席捲したようだ。この頃に九州にあった源為朝(みなもとためとも)と結んでいたとも。

朝廷は追討軍を送り込んで「阿多忠景の乱」を鎮圧した。敗れた阿多忠景は貴海島(きかいがしま、薩摩硫黄島か)に逃亡したのだという。

阿多忠景の乱については記録に乏しく、全貌はよくわからない。『保元物語』や『吾妻鏡』に、それらしき情報がちょっと記されている。

 

その後、阿多の地は阿多宣澄が継承したと見られる。この人物は阿多忠景の娘婿であったとも伝わる。阿多宣澄は平清盛・平宗盛に従った。平家が没落して源頼朝が武家政権を樹立すると、所領を没収された。

 

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鮫島氏と二階堂氏

阿多郡は平家没官領となる。鎌倉の幕府は阿多の地頭職に、鮫島宗家(さめじまむねいえ)を補任する。鮫島宗家は源頼朝に仕え、治承4年(1180年)の石橋山の戦いなどで活躍した人物である。

鮫島氏は駿河国富士郡鮫島(現在の静岡県富士市鮫島)を本貫とし、工藤(くどう)氏の一族とされる。日向国に根を張った伊東(いとう)氏や肥後国に土着する相良氏とは同族である。


この時代は遙任(代官を送って、みずからは鎌倉にある)の形をとることが多かったが、鮫島宗家は阿多に入っている。鮫島宗家の所領は、ふたりの息子に分割して相続。田布施のある阿多郡北方を鮫島家高、阿多郡南方を鮫島家景が引き継いだ。しかし、鮫島家高は所領を没収される。

 

阿多郡北方の地頭職は二階堂行久(にかいどうゆきひさ)に与えられた。ちなみに、二階堂氏も工藤一族である。

二階堂行久は幕府の評定衆で、「十三人の合議制」の一員であった二階堂行政(ゆきまさ)の孫にあたる。のちに一族の二階堂泰行が阿多に下向して土着したとされる。

二階堂氏は田布施の池辺村(南さつま市金峰町池辺)に牟礼ヶ城(むれがじょう)を築いて、ここを拠点とした。ちなみに、牟礼ヶ城は「道の駅きんぽう」のすぐ近くにある。

 

二階堂氏も鮫島氏も南北朝争乱期を生き残る。しかし、応永13年(1406年)に二階堂氏は伊作久義(いざくひさよし、島津氏庶流、伊作領主)に攻められて滅ぶ。応永27年(1420年)に鮫島氏も島津久豊に降り、所領を失った。

 

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相州家の拠点になる

島津氏9代当主の島津忠国(しまづただくに)の長男を島津友久(ともひさ)という。この人物に田布施・阿多・高橋が与えられた。田布施城(亀ヶ城)を築いて、ここを本拠地とする。時期ははっきりしないが、長禄3年(1459年)頃と思われる。

島津友久は「相模守」を受領名としていたことから、この分家を「相州家」と呼ぶようになった。

 

10代当主の島津立久は島津忠国の次男である。長男の島津友久は本家をつぐことができなかった。これには政治的な背景があると考えられる。

島津忠国は国老衆の支持を失って当主の座を追われ、弟の島津用久(もちひさ、薩州家の祖)が守護代を務めた(守護職についたとする説もある)。その後、島津忠国派と島津用久派に分かれて争うことになる。最終的には両者は和解し、島津忠国に覇権が戻った。

島津友久の母は伊作勝久(いざくかつひさ、伊作久義の子)の娘である。伊作教久(のりひさ、勝久の子)は島津用久につき、島津忠国と争った。そして、嘉吉2年(1442年)に若くして亡くなっている。一方で、島津立久は新納忠臣(にいろただおみ)の娘を母としていた。新納氏も島津氏の庶流である。新納忠臣は島津忠国につき、のちに島津用久との和解を成立させている。新納氏の影響力が大きく、伊作氏の立場は弱くなっていた。

 

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さらに、伊作家では幼主の犬安丸が亡くなり、後継者が不在となる。そこで、島津忠国の三男の亀房丸が伊作家をつぐ。のちの伊作久逸(いざくひさやす)である。

島津友久と伊作久逸は、当主の島津立久をよく支えた。しかし、島津立久が亡くなり、まだ若い島津忠昌(ただまさ、立久の子)が跡を継ぐと領内は乱れる。島津氏の分家も叛き、島津友久も伊作久逸も反乱を起こした。

 

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伊作氏の詳細はこちらの記事にて。

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島津忠良が相州家を継承

16世紀初頭の南九州は「三州大乱」と呼ばれる状態だった。分家の中では薩州家がもっとも力があった。

そんな中で、伊作で事件が起こる。明応3年(1494年)、次期当主の伊作善久(よしひさ、久逸の子)が馬丁に殺害される(暗殺か)。また、明応9年(1500年)には伊作久逸が薩州家の内紛に介入しようとして兵を出し、戦死する。

 

伊作善久の妻の名は常盤(ときわ)と伝わる。また、子は菊三郎といった。伊作家にはこの母と子が残され、親戚でもある相州家の援助を受けながら家を保った。

相州家2代当主は島津運久(ゆきひさ)といった。伊作善久とは従兄弟どうしである。島津運久は常盤を妻に迎え、連れ子の菊三郎を後継者とする。菊三郎は相州家と伊作家をあわせて相続することになった。

永正3年(1506年)、菊三郎は元服して三郎左衛門尉忠良(さぶろうさえもんのじょう ただよし)と名乗った。さらに永正9年(1512年)、島津運久から相州家の家督を譲られる。島津忠良(しまづただよし)と名乗り、受領名の相模守(さがみのかみ)も受け継ぐ。田布施城(亀ヶ城)に入城した。

永正11年(1514年)には、島津忠良に嫡男が誕生。虎寿丸と名付けられる。のちの島津貴久である。

 

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分家から本宗家へ

島津本宗家(奥州家、おうしゅうけ)は島津忠兼(ただかね)が14代当主となっていた。しかしその力は弱く、領内の統制がとれない状態が続いていた。

一方で、分家の薩州家(さっしゅうけ)が本家をしのぐほどの力を持っていた。薩州家は本領の出水郡(鹿児島県出水市・阿久根市)のほか、薩摩国中南部の市来(いちき)・串木野(くしきの)・加世田(かせだ)・河邊(かわなべ)・鹿籠(かご)などを領していた。薩州家の島津忠興(ただおき)は娘を島津忠兼にとつがせ、国政にも影響を及ぼしていたと考えられる。

大永5年(1525年)、島津忠興(薩州家)が没する。嫡男の島津実久(さねひさ)が薩州家の当主となる。

島津氏が伝える歴史では、島津実久は島津忠兼に対して当主を譲るよう迫ったとされる。島津実久はまだ14歳くらいである。年齢的に不自然な感じがする。


島津運久・島津忠良は国老衆と謀る。大永6年(1526年)に虎寿丸を島津忠兼の後継者に擁立。鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)に入り、元服して島津貴久と名乗った。翌年には島津忠兼を隠居させた。隠居所として伊作城を譲り、鹿児島を出てここへ移る。新当主の後見人として、島津忠良が本宗家の実権を握った。

これを薩州家がひっくり返す。島津忠良が出征している間に鹿児島を襲撃して制圧。島津貴久は清水城を脱出し、田布施城まで逃げる。伊作城にあった島津忠兼は、薩州家の誘いに応じて鹿児島へ戻る。本宗家当主に復帰し、名を「島津勝久」と名を改める。

 

その後は、島津忠良・島津貴久は薩州家と抗争を続ける。その拠点となったが田布施城であった。ただ、大永7年(1527年)に伊作城を奪い返すと、拠点をこちらに移している。

相州家と薩州家の争いは天文8年(1539年)頃まで続く。島津忠良・島津貴久は鹿児島を制圧し、薩摩中南部にあった島津実久(薩州家)の城もことごとく奪う。島津勝久も国外に出奔する。天文19年(1551年)に島津貴久は正式に薩摩・大隅・日向の守護に任じられた。

その後、島津貴久南九州を掌握。島津氏を戦国大名として発展させる。

 

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垂水島津家へつづく

島津貴久が奥州家(本宗家)に入ったため、相州家の家督は島津忠将(ただまさ、忠良の次男)がついだ。島津忠将は兄を助け、軍事面の主力を担った。しかし、永禄4年(1561年)の大隅国の廻城(めぐりじょう、鹿児島県霧島市福山)で戦死する。

そのあとは、島津以久(もちひさ、忠将の子)が相州家をつぐ。島津氏の一門衆として各地を転戦した。のちに、島津以久は日向国佐土原(さどわら、宮崎市佐土原町)の領主となる。

 

相州家は島津彰久(てるひさ、以久の長男)、島津久信(ひさのぶ、彰久の子)と継承される。島津久信は大隅国垂水(たるみず、鹿児島県垂水市)に所領を移し、「垂水家(たるみずけ)」「垂水島津家」と呼ばれるようになった。江戸時代の垂水家は、分家の中でもっと家格の高い「御一門」として遇された。

また、佐土原は島津忠興(ただおき、以久の三男)がついだ。こちらは島津家支藩の佐土原藩となった。

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
※『薩麻國天平八年正税目録帳』を収録

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

ほか