鹿児島の浄光明寺(じょうこうみょうじ)は大きな寺院だった。山号は「松峰山」。現在の鹿児島市上竜尾町にあった。
その跡地は南洲公園として整備。浄光明寺跡というよりは、「南洲墓地(なんしゅうぼち)」として認識している人が多いかも。ちなみに「南洲」とは西郷隆盛の号である。
南洲墓地には、明治10年(1877年)の西南戦争における薩摩軍の戦没者の墓が並ぶ。その中には西郷隆盛や軍幹部の墓もある。また、南洲公園(浄光明寺跡)には南洲神社(なんしゅうじんじゃ)や西郷南洲顕彰館もある。
時宗の大寺院
浄光明寺は時宗(じしゅう)の寺院である。相模国の清浄光寺(しょうじょうこうじ、神奈川県藤沢市)の末寺。
薩摩国・大隅国・日向国(現代の鹿児島県と宮崎県)に59の時宗の寺院があったとされ、南九州における時宗の本山が浄光明寺であった。
『三国名勝図会』によると、開山は文治2年(1186年)とある。
島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)が薩摩・大隅・日向に所領を得て、鎌倉から宣阿上人を連れてきて創建させたという。宣阿上人は比企能員(ひきよしかず)の子とされ、丹後局(島津忠久の母で、比企尼の娘とされる)の縁故のものであったという。
なお、こちらの真偽については、『三国名勝図会』でも懐疑的だ。実際には、時宗の開祖である一遍(いっぺん)が遊行で鹿児島を訪れたことが契機となったと考えられるのだという。
建治3年(1277年)、一遍上人は大隅正八幡宮(鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人町)に参籠した。そして、こう詠んだという。
十詞(とことは)に南無阿弥陀仏と唱ふれば
なむあみだふに生まれこそすれ
その後、一遍上人が鹿児島にいたる。覚阿上人了性(浄光明寺の3代住持とされる)が帰依して、時宗の寺院になったのだという。
弘安7年(1284年)に、島津忠時(ただとき、島津氏2代)の十三回忌にあたって、島津久経(ひさつね、島津氏3代)が再興したとも。
浄光明寺には島津忠久・島津忠時・島津久経・島津忠宗(ただむね)・島津貞久(さだひさ)の島津氏5代までの位牌も安置されていた。島津忠久の尊像もあったという。
享保2年(1717年)に浄光明寺は火災で焼失。これを島津吉貴(しまづよしたか、島津氏21代)が再建する。のちに島津吉貴の墓所も浄光明寺に置かれた。
薩英戦争で焼失
文久3年(1863年)、鹿児島湾にイギリス艦隊が襲来する。薩英戦争である。
イギリス艦隊は浄光明寺を狙って、砲弾を激しく打ち込んだ。城と間違えて攻撃されたとも。それだけ、寺院は立派な造りだったのだろう。
浄光明寺は焼失した。再建されないまま明治時代を迎え、廃寺となった。
明治元年(1868年)には、浄光明寺跡に藩の医学院が設置された、その後、鹿児島医学校と改称し、しばらくのちに移転している。
南洲墓地となる
明治10年(1877年)9月24日、政府軍が西郷隆盛らがこもる城山に総攻撃をかける。西郷隆盛ら薩摩軍は壊滅し、西南戦争は終結した。
9月25日、鹿児島城下の5ヶ所に戦没者を仮埋葬する。西郷隆盛ら40名の遺骸は浄光明寺跡に埋葬された。
明治12年(1879年)に鹿児島城下の遺骨が浄光明寺跡に集められた。その後、他地域からも改葬があった。そうして「南洲墓地」が整備された。薩摩軍戦没者2000余名の墓がこの地に並んでいる。
浄光明寺跡をあるく
南洲公園(浄光明寺跡)は高台にある。上まで車でのぼることができ、大きな駐車場もある。
『三国名勝図会』には浄光明寺の絵図があり、かつての様子を知ることができる。
前述のとおり建物は焼失しているが、土台の部分はけっこう残っている感じだ。
参道の石段も、絵図と同じ場所にある。
鳥居があるあたりが、絵図の中央のあたり。
伽藍の土台には段差があった。南洲墓地もほぼそのままの地形である。かつて伽藍のあった場所には薩摩軍戦没者の墓石が整然と並ぶ。
南洲墓地の中央に西郷隆盛の墓がある。寄り添うように桐野利秋(きりのとしあき)・村田新八(むらたしんぱち)・篠原国幹(しのはらくにもと)・辺見十郎太(へんみじゅうろうた)・別府晋介(べっぷしんすけ)・桂久武(かつらひさたけ)など幹部の墓もある。
南洲墓地の正面入口近く(鳥居をくぐったところ)には、「岩村縣令紀念碑」も。西南戦争終結時の鹿児島県令は岩村通俊(いわむらみちとし)であった。県令の指示で戦没者は丁重に埋葬された。
紀念碑(記念碑)の横に「庄内柿」がある。
山形庄内の菅実秀(すがさねひで、菅臥牛、がぎゅう)が西郷隆盛と深く親交したことから、昭和44年(1968年)に鹿児島市と山形県鶴岡市が姉妹都市盟約を結んだ。これを記念して植えられたものだ。
勝海舟の歌碑もあった。西郷隆盛の死を悼んで詠んだもの。
ぬれぎぬを
干そうともせず
子供らが
なすがまにまに
果てし君かな
『三国名勝図会』では、浄光明寺の眺望の良さも讃えている。それは現在も変わらず。
再興された浄光明寺
浄光明寺はいったん廃寺となったが、明治16年(1883年)に再興された。南洲公園の一角に本堂がある。境内には古い石仏も置かれている。
御佛の浄光明がとこしえに
護るならまし南洲の夢
門には与謝野晶子の歌碑もある。
南洲神社
南洲墓地の脇には南洲神社が鎮座する。御祭神は西郷隆盛命と西南戦争薩軍戦没者である。
明治13年に南洲墓地の参拝所が設けられたことに始まる。大正2年(1913年)に社殿が建てられ「南洲祠堂」と称した。大正11年(1922年)に「南洲神社」の社号を得た。
昭和20年(1945年)に空襲で焼失。現在の社殿は昭和45年(1970年)に建てられたものである。
島津吉貴と孟宗竹
南洲墓地の裏手のほうに「竹公園」がある。絵図の伽藍裏手の山のあたりに位置する。ここにはかつて、島津吉貴の墓塔があった。
遊歩道はいい雰囲気。古そうな石垣もあった。浄光明寺跡のものだろうか。
奥のほうへいくとのぼっていける。竹公園の入口へ。園内には14品種の竹が植栽されているとのこと。
「浄國院殿鑑阿天清道煕大居士」の文字がある立派な石碑もある。これは島津吉貴の戒名である。
竹の品種としてよく知られている「孟宗竹(モウソウチク)」は、島津吉貴が持ち込んだことから全国に広まったとされる。
元文元年(1736年)、島津吉貴は江南竹(孟宗竹)の移入を行わせた。その後、琉球王国を通じて清国から鹿児島へ江南竹(孟宗竹)を持ち込み、仙厳園(せんがんえん、島津家別邸、鹿児島市吉野町)に植えた。
なお、島津吉貴の墓は移設され、現在は福昌寺(ふくしょうじ、鹿児島市池之上町)にある。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『鹿児島市史 第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 発行/鹿児島市長 末吉利雄 1969年
『鹿児島市史 第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 発行/鹿児島市長 末吉利雄 1971年
鹿児島県史料『忠義公史料 第二巻』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1975年
ほか