鹿児島市の北部は吉野(よしの)と呼ばれる。かつての薩摩国鹿児島郡の吉野村にあたる。吉野の南のほうにある「実方(さねかた)」に立ち寄ってみた。
吉野はシラス台地の上にある。「吉野台地」「吉野原(よしのばる)」とも呼ばれる。鹿児島の平野部から、急坂を登っていくような感じである。鹿児島市街地から坂元へ登り、そこからさらに登って吉野台地の上に出る。その台地の入口のあたりが「実方」である。
実方は桐野利秋や別府晋介の生まれたところでもある。
なお、明治5年以前の日付は旧暦によるもの。
実方神社
由緒不明。創建時期不明。御祭神は天照皇大神(アマテラススメオオカミ)と菅原道真公。
明治12年(1879年)に、天神山(実方の北側にある)にあった天満宮と、実方神社を合祀して現在地に建てられたとされる。御祭神の一柱の菅原道真公は天神山の天満宮から遷されているのだ。
もう一柱の天照皇大神は、近年になって御祭神とされたようだ。伊勢神社と関連があるのだろうか。実方神社は村の産土神(鎮守)とされる。もともとあった古い信仰に天照皇大神が重ねられているような感じがする。
現地の由緒書によると、実方神社の御祭神は「わからない」としている。大山祇神(オオヤマツミノカミ)とも言われているとか。また、藤原実方(ふじわらのさねかた)を祭ったとも伝わるが、こちらは「実方」つながりのコジツケのような印象もある。
天神山の天満宮は、宮之城島津家(みやのじょうしまづけ)と関係がある。宮之城島津家は吉野の天神山に別荘を持っていた。貞享3年(1686年)に宮之城家当主の島津久竹(ひさたけ)が菅原道真公の像をつくらせて祭った。この木像は実方神社に安置されていて、胎内に奉斎のいきさつについて書かれているとのこと(由緒書による)。
島津久竹は学問を好む人物であったという。菅原道真公を祭ったのもそんなところからだろう。もしかしたら、前述の藤原実方のことも、島津久竹と関わりがある可能性もあるのかも。
実方神社は地域の守り神として、また学問の神様として崇敬されている。
実方神社は周囲よりもちょっと高いところにある。鳥居をくぐって、やや急な石段を上がる。
また、車で境内に上がることもできる。境内には公民館も併設し、車を停められるスペースもある。
社殿まわりはよく手入れされている。地域で大事にされていることがうかがえる。本殿には御神体の石像と木像が安置されているとのこと。石像は実方神社のものか。木像は島津久竹が祭っていた菅原道真公である。
境内には古い石造物もある。石祠が三つ。何の神様かはわからない。たぶん、山神や水神や地神などであろう。
石仏と思われるものも。頭も腕も欠損している。明治の廃仏毀釈で破壊されたのだろうか。
こちらは馬頭観音(ばとかんさぁ)かな。背面には文化14年(1817年)の奉立の紀年銘がある。
桐野利秋誕生地
実方神社からちょっ歩いたところに実方公園がある。ここが桐野利秋(きりのとしあき)の誕生地である。
桐野利秋は幕末から明治にかけて活躍した人物。中村半次郎(なかむらはんじろう)の名でも知られる。倒幕戦争に功があり、のちに西南戦争で散る。
案内の看板もあり。実方公園の前は深い谷がある。実方の地形は急峻だ。足腰が鍛えられたんだろうな、という想像もさせられる。
実方公園はちょっと高いところに。ここに家があったそうだ。
公園には立派な記念碑がある。大正5年(1916年)の建碑。賊の汚名が晴れ、正五位が追贈されたことによる。
碑に「贈正五位 桐野利秋君誕生之地」の文字が刻まれる。揮毫は「貴族院議員従四位勲四等男爵島津長丸」。島津長丸(ながまる)は宮之城島津家の当主である。
裏面に碑文あり。
君天保九年十二月二日生勤皇征幕官陞陸軍少將丁丑之役戦死干城山時年四十今茲四月朝廷追贈正五位擧村欽慕英風建碑其邸址庶幾後人有所觀感興起歟 大正五年九月
桐野利秋の略伝
当初は「中村半次郎(なかむらはんじろう)」と名乗る。のちに「桐野」を名乗りとし、「桐野晋作(しんさく)」「桐野新作」とも称した。
薩摩国鹿児島城下近在の吉野村実方(鹿児島市吉野町の実方)の出身。天保9年12月2日(1839年1月16日)生まれ。鹿児島城下からはちょっと離れているが、城下士である。家格は御小姓与(おこしょうぐみ)で、これは西郷隆盛や大久保利通と同じである。
父は中村与左衛門(中村兼秋)。母はスガ(須賀)といい、別府四郎兵衛の長女である。ちなみにスガの妹の子が別府晋介(べっぷしんすけ)。桐野利秋と別府晋介は従兄弟の間柄で、ともに実方で生まれ育っている。
本姓は坂上(さかのうえ)氏を称する。渡来系の東漢氏(やまとのあやうじ)の系統で、一族には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)などがいる。
17世紀の人物に桐野九郎左衛門尉という人物がいる。桐野利秋はその後裔を称している。桐野九郎左衛門尉は慶長15年(1610年)に家老の平田増宗(ひらたますむね)の暗殺に関与。これは島津氏の家督相続問題にからむもので、当主の島津家久(島津忠恒)が上意討ちを命じ、押川強兵衛(おしかわごうべえ)と桐野九郎左衛門尉が実行した。
桐野九郎左衛門尉はこの事件のあとに肥後国へ出奔し、のちに鹿児島城下で召し抱えられる。子は中村与兵衛と名乗った。「中村」は母方の名字である。暗殺事件を起こした父の「桐野」の名字を避けた。
明治時代になって中村半次郎は「桐野」に復姓した。明治4年(1871年)まで「中村半次郎」の名前が出てくるが、同年8月10日の書簡で「桐野信作」の名が見える。この年の7月に陸軍少将に任官し、従五位に叙せられている。このときに復姓したと桐野作人氏は推測している。
中村半次郎は文久2年(1862年)に島津久光に従って上京。藩家老の小松清廉(こまつきよかど、小松帯刀)に重用された。その役割は密偵であった。小松清廉の推挙で「御庭方」に任じられたとも。
慶応4年(1868年)1月からの戊辰戦争に従軍。戦争での実績がなかったこともあり、鳥羽・伏見の戦いでは「小頭見習」として小隊を率いた。しかし、その後は活躍を続け、軍事の才能が認められてどんどん出世する。2月の江戸進軍では小銃一番隊の監軍に任じられる。西郷隆盛と勝海舟の会見にも同席した。
8月になって官軍は会津(福島県の西部)を攻める。日光口を攻める部隊の軍監に中村半次郎が任じられた。9月に鶴ヶ城(つるがじょう、若松城、福島県会津若松市追手町)が開城すると、中村半次郎が城受け取りの任にあたった。倒幕戦争のあと賞典録200石を賜る。
鹿児島に戻った中村半次郎は、鹿児島藩の第一大隊長に任じられる。明治4年(1871年)7月に兵部省に出仕。陸軍少将に任官する。前述のとおりこの頃から「桐野利秋」と名乗る。
明治6年(1873年)、征韓論をめぐる政変がある。西郷隆盛が辞官して鹿児島へ帰る。桐野利秋も追従した。
鹿児島の戻った西郷隆盛は仕官養成のための学校を創設。「私学校(しがっこう)」という。桐野利秋もこの事業に参画した。
ただ、桐野利秋は私学校や西郷隆盛とはやや距離を置いていたようである。吉田の宇都谷(うどんたい、鹿児島市本城町)の土地を開墾し、隠棲をしているような感じだった。
明治10年(1877年)、私学校生徒の弾薬庫襲撃事件をきっかけに、西郷隆盛を大将として挙兵する。「西南戦争」である。私学校の幹部でもある桐野利秋も参加。四番大隊の大隊長として出陣する。
西郷軍は九州各地で転戦するも敗色が濃くなっていく。そして、明治10年9月24日に戦争は終結。鹿児島の城山総攻撃で桐野利秋も戦死する。享年40。
別府晋介誕生地
桐野利秋誕生地から谷を挟んだところに別府晋介(べっぷしんすけ)の誕生地がある。別府晋介は桐野利秋の従弟にあたる。西南戦争で西郷隆盛の介錯をした人物として知られている。
道路沿いに案内板がある。ここから細い道を下っていく。車では入れない。
小径を入っていくと標柱がある。ここには「私有地につき、午後6時以降の立ち入りはご遠慮ください。」という注意書きもある。
「別府晋介君誕生地碑」。揮毫は西郷菊次郎(さいごうきくじろう)。西郷菊次郎は西郷隆盛の長男で、西南戦争にも従軍している。
別府晋介の略伝
諱は「景長(かげなが)」。「章繁(あきしげ)」と名乗った時期もある。弘化4年(1847年)の生まれ。従兄にあたる中村半次郎(桐野利秋)とは幼少時より仲が良かったという。
慶応4年(1868年)から戊辰戦争に従軍して奥羽戦争などで活躍する。戦後に賞典録8石を賜る。その後、鹿児島藩の鹿児島常備隊小隊長に任じられた。
明治4年(1871年)に西郷隆盛に従って上京。陸軍少佐に任じられた。明治5年(1872年)には朝鮮国に派遣される。外務大丞の花房義質(はなぶさよしもと)に同行し、朝鮮情勢の調査報告に関わった。
明治6年(1873年)、征韓論をめぐって政変があり、西郷隆盛が下野。別府晋介も官を辞して鹿児島に帰る。鹿児島では西郷隆盛の私学校設立に関わる。私学校の幹部の中で好戦派であったという。
明治10年(1877年)の西南戦争では六番大隊の大隊長として出撃する。最終戦の城山総攻撃まで戦う。同年9月24日、被弾した西郷隆盛が自決。その介錯役を別府晋介が務めた。その後、別府晋介も戦死。享年31。
吉野の実方は、見どころの多い場所だった。
<参考資料>
『薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実』
著/桐野作人 発行/NHK出版 2018年
『少年読本第十一編 桐野利秋』
著/春山育次郎 発行/博文館 1899年
『西南記傳 下巻二』
編/黒龍會 発行:黒龍會本部 1911年
ほか