桐野利秋(きりのとしあき)について知りたいと思い、資料を探す。それで、こちらの本にたどりついた。
『薩摩の密偵 桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実』
著/桐野作人 発行/NHK出版 2018年
桐野利秋の人間性や事績が丁寧に綴られる。当時の薩摩藩の事情や、人間関係とか時代の流れなどもわかりやすく解説されている。良書だと思う。
著者の桐野作人(きりのさくじん)氏は鹿児島県出身の歴史作家。鹿児島県の戦国時代や幕末に関する著作を多く出していて、当ブログで記事をつくる際にもかなりお世話になっている。桐野作人氏の著書は、膨大な史料・資料をもとに的確な考察がなされている、という印象。個人的には「この人の本なら間違いないっ!」と思っている。
ちなみに、著者と桐野利秋は名字が同じだが、同族ではないとのこと(本書の「おわりに」による)。
なお、本書は新刊本の在庫が見つからない。ただ、電子書籍化されているので、こちらで読むことができる。
桐野利秋とは
桐野利秋は薩摩国鹿児島郡の吉野実方(鹿児島市吉野町の実方)の出身で、天保9年12月2日(1839年1月16日)生まれ。
当初は「中村半次郎(なかむらはんじろう)」を称するが、明治4年(1871年)に「桐野利秋」と改名する。中村氏はもともと桐野姓であったという。先祖の桐野九郎左衛門尉が家老の暗殺事件にかかわったことから、その子が「桐野」の名乗りを避けて母方の「中村」を称したとされる。明治時代に「桐野」に復姓したということになる。
桐野氏は、本姓を坂上(さかのうえ)氏としている。東漢氏(やまとのあやうじ)の系統で、一族には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)などがいる。明治5年(1872年)の政府の辞令では「元中村桐野坂上利秋」という名が確認できる(『忠義公史料』より)。
父は中村与左衛門(中村兼秋)という、薩摩藩士として江戸詰めの役目にあったが、徳之島に流罪となっている。そのため、中村半次郎(桐野利秋)の少年時代は困窮していた。
母は別府四郎兵衛の娘で、名をスガ(須賀)という。この母の妹が別府十郎に嫁ぎ、別府晋介を産んでいる。中村半次郎(桐野利秋)と別府晋介は従兄弟どうしということになる。
文久2年(1862年)に島津久光に従って上京。藩家老の小松清廉(こまつきよかど、小松帯刀)に重用され、密偵として活躍する。慶長4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは「小頭見習」として小隊を率いた。2月の江戸進軍では小銃一番隊の軍監に任じられる。さらに8月に会津(福島県の西部)を攻めの部隊の軍監に任じられた。軍事の才が一気に開花し、ものすごいスピードで出世している。そして活躍が認められ、戊辰戦争のあとに賞典録200石を賜る。
その後は鹿児島藩の第一大隊長に任じられ、藩の軍事の中枢を担うことになる。そして明治4年(1871年)に兵部省に出仕。陸軍少将に任官する。なお、この頃から「桐野利秋」を名乗る。
明治6年(1873年)、征韓論をめぐる政変で西郷隆盛が下野すると、桐野利秋も追随した。鹿児島では「私学校(しがっこう)」の開設にも参画した。
明治10年(1877年)、西南戦争が勃発。西郷隆盛を大将として挙兵。桐野利秋も参加する。西南戦争は同年9月24日の城山総攻撃で終戦となる。桐野利秋もここで戦死。享年40。
桐野利秋の実像
桐野利秋(中村半次郎)は幕末もののエンターテインメント作品で、けっこう出てくる人物だと思う。映画やてテレビドラマなんかでは、西郷隆盛の側に仕えて殺気を放っている、というような印象である。「人斬り半次郎」の異名もあり、こちらのイメージも強いのではないだろうか。
桐野利秋に対して、つぎのようなイメージを持たれているのではないだろうか。
◆「人斬り半次郎」
◆西郷隆盛の部下
◆無学文盲
◆武闘派
◆西南戦争を主導
じつは、これらは実像とはだいぶ違う。後世に作り上げられた虚像が定着してしまったような感じなのである。『薩摩の密偵 桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実』では、桐野利秋の実像に迫る。そのいくつかを、ちょっと紹介してみる。
「人斬り」って感じじゃない
中村半次郎(桐野利秋)は「幕末の四大人斬り」の一人に数えられ、「人斬り半次郎」の異名で知られたとされる。ちなみにほかの三人は「人斬り新兵衛(田中新兵衛)」「人斬り彦斎(河上彦斎)」「人斬り以蔵(岡田以蔵)」である。「人斬り〇〇」というのは、四人とも後世に小説のタイトルに使われていたりもする。
「四大人斬り」は京で暗躍したテロリストとして恐れられたという。ただ、中村半次郎については、これに当てはまらない感じだ。たぶん、「幕末の四大人斬り」というくくりも後世になって言われるようになったものだろう。
なお、剣術は鹿児島城下の伊集院鴨居の道場で「小示現流」(示現流の分派)を習得したとも、江夏仲左衛門の道場で「野太刀自顕流(薬丸自顕流)」を習得したとも。
中村半次郎(桐野利秋)が実行した暗殺事件には、慶応3年(1867年)に兵学者の赤松小三郎を斬ったものがある。こちらは、藩の命令によるものであったと考えられる。
で、実像はどうであったかというと、本のタイトルにもあるとおり薩摩藩の「密偵」として活動していた。脱藩浪士と接触したり、長州藩に潜入しようとしたり。天狗党とも接触している。ほうぼうの志士と意気投合したようで、相手の懐に飛び込むのが得意だったようだ。西郷隆盛の書状の中で「そのまま帰ってこないかも」と、ミイラ取りがミイラになってしまうことを懸念していたりもする。すごく優秀な密偵だったことがうかがえる。
赤松小三郎の暗殺も、防諜活動によるものという可能性が高いかも、と本書では分析している。
小松清廉(小松帯刀)の配下か
中村半次郎(桐野利秋)は、西郷吉之助(西郷隆盛)に目をかけられ、その命令で動いていた、と。そう思っている人も多いのではないだろうか。
でも、実際のところは藩家老の小松清廉(小松帯刀)の配下であった。西郷吉之助との関係は、同僚に近いものだったと想像される。もちろん、すでに実績を持つ西郷のほうが職務上は上の立場ではある。西郷から指示を受けることもあっただろう。
ちなみに、中村半次郎も西郷吉之助も鹿児島城下の御小姓与(おこしょうぐみ)という家格。身分は同じだ。
無学文盲ではない
家が貧しくて「無学文盲」と言われることもあるが、そんなことはない。武士としての教養はある。学問は外祖父の別府四郎兵衛の薫陶によるものらしい。でも、あまり勉学は好まなかったという話も伝わっている。でも、軍記物は好んで読んでいたい、とも。
ちなみに貧しかったのは事実。少年時代には父が何かしらの罪で徳之島に流されていたために、中村家には禄がなかった。
じつは思慮深い
中村半次郎(桐野利秋)には武闘派のイメージを持っている人も少なくないのでは? 「ギラギラとした危ねえヤツ」という感じで。このイメージは「人斬り半次郎」の異名に引っ張られているかと。
実際のところは、好戦的な性格ではなかった。当時の史料を見ると、物事を冷静に見て、血気にはやって行動するようなところはない。
「西南戦争は桐野利秋が主導した」と言われることもあるが、これも違う。西郷隆盛を英雄として持ち上げる過程で、「西郷は桐野たちの暴走でしかたなく首領に担ぎ上げられた」というイメージがつくり上げられたという感じなのだ。
明治6年(1873年)の政変で鹿児島に戻ったあと、西郷隆盛を中心に私学校が開設された。桐野利秋は私学校の運営にはあまり関わらず。ちょっと距離を置いていた。鹿児島郡の吉田宇都谷(鹿児島市本城町)の土地を開墾し、ここで農業をしながら暮らした。隠遁生活といってもいい。
明治10年(1877年)1月に私学校生徒による火薬庫襲撃事件の際には、当事者は自首するべきという意見を述べている。事件をきっかけに挙兵の機運が高まる中で、桐野利秋は出兵には反対していた。
『薩摩の密偵 桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実』には、興味をそそられる情報が詰まっていますよ。いい本です!