ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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「武村の吉」は静かに暮らしたい、武の西郷隆盛屋敷跡

鹿児島市に「武(たけ)」と呼ばれる場所がある。JR鹿児島中央駅の南西のあたりだ。駅から九州新幹線の線路が伸びる。その線路沿いに「西郷公園」というのがある。ここは西郷隆盛の屋敷跡なのだ。「武西郷屋敷跡」「西郷武屋敷跡」と呼ばれたりもする。

 

 

 

「武村の吉」と称する

慶応4年(1868年)、西郷隆盛は東征大総督府下参謀として江戸に進軍。江戸城を開城させて徳川家の時代を終わらせた。その後、上野戦争や東北での戦いも指揮した。

西郷隆盛は新政府には参加せず、鹿児島に身を置く。明治2年(1869)年に薩摩国鹿児島郡武村(鹿児島市武)に屋敷を購入して住むようになる。

立派な石碑

「西郷屋敷跡」碑、西郷公園にある

 

西郷隆盛は鹿児島で過ごしていたが、政府に引っ張り出される。明治4年(1871年)に上京して出仕することに。参議となる。岩倉具視や大久保利通らがアメリカ・ヨーロッパを歴訪(岩倉使節団)するあいだは、三条実美とともに政府の留守を預かった。また、陸軍元帥にも任じられた。だが、明治6年(1873年)に西郷隆盛は官を辞して鹿児島に帰った。

 

武村の屋敷に戻ると、「武村の吉(たけむらのきち)」と称して農夫のような暮らしをする。無官であることを意識したのだろうか。「もう政治には関わらんぞ!」という意思表示も見えるような気もする。ちなみに「吉」というのは、通称の「吉之助」から。

武の屋敷には川口雪篷(かわぐちせっぽう)も住まわせた。西郷隆盛が沖永良部島に流されているときに知り合った人物で、島から鹿児島に戻ると西郷家の食客となった。書や詩に優れた人物で、西郷隆盛といっしょに近所の子供に学問を教えたりもした。

 

一方で、新政府の改革に対して不満を持つ者も多くなっていた。禄を失った士族たちは暴発寸前だった。西郷隆盛は鹿児島城内に仕官養成のための学校をつくる。私学校(しがっこう)である。これには旧士族の不満を抑える狙いがあった。運営は村田新八(むらたしんぱち)や篠原国幹(しのはらくにもと)らに任せた。

西郷隆盛は武屋敷で畑いじりの日々。また、狩りと湯治のためにあちこちへ出かける。これには、人と会わないように姿をくらます目的もあったと思われる。

明治10年(1877年)、私学校の生徒が暴発。陸軍の弾薬庫を襲撃した。西郷隆盛は大将に擁立されて挙兵することに。西南戦争へと突入する。

 

 

 

西郷隆盛と庄内藩

西郷公園に入るとまず目に入るのがこれである。「徳の交わり」と題され、西郷隆盛と菅実秀(すげさねひで)が対話している様子を像にしてあるのだ。

西郷隆盛と菅実秀の対話

「徳の交わり」像

 

菅実秀は出羽国の庄内藩(現在の山形県鶴岡市・酒田市のあたり)の家老だった人物である。「臥牛(がぎゅう)」の号でも知られている。

庄内藩は徳川家譜代の大名で、幕末の藩主は酒井忠篤(さかいただあつ)だった。庄内藩と薩摩藩との間には、幕末にいろいろあったりも。そのひとつが「江戸薩摩藩邸焼討事件」である。

薩摩藩は江戸の三田にある薩摩藩邸に浪士などを集め、市中で放火や暴行など悪さをさせる。そして、薩摩藩邸に逃げ込ませる。幕府への挑発行為を繰り返した、先に手を出させるために。そして、慶応3年12月25日(1868年1月19日)に幕府は薩摩藩邸を攻撃。焼き討ちは、庄内藩が中心となって実行された。この事件がきっかけとなり、新政府と旧幕府の戦争へと突入した(鳥羽・伏見の戦い)。

 

西郷隆盛は江戸に進軍し、江戸城を開城させる。幕府は消滅した、だが、戦いは続く。旧幕府を支持する者たちが反抗。庄内藩もそのひとつだった。

庄内藩は会津藩などと結んで新政府軍に抵抗する。庄内藩への追討軍は、薩摩藩の兵が中心だった。庄内藩は強く、連戦連勝を重ねる。しかし、慶応4年9月に会津藩などが降伏すると、庄内藩も降った。

庄内藩への処分は寛大なものであった。それは西郷隆盛の指示であった。庄内藩の者たちは西郷隆盛に感謝の念を抱いたのだという。また、人物像や思想に感銘を受けたとも。

明治3年、酒井忠篤は藩士を引き連れて鹿児島を訪れる。庄内藩士たちは西郷隆盛に学んだ。

菅実秀も西郷隆盛に共鳴したひとりだった。明治8年(1875年)に石川静正らとともに武屋敷を訪れて、教えを受けた。

 

西南戦争で逆徒となった西郷隆盛は、明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布にともなって大赦を受ける。名誉が回復された。

菅実秀が中心となって西郷隆盛の言葉や思想をまとめる。『南洲翁遺訓』を発行し、全国に頒布してまわった。なお、「南洲(なんしゅう)」というのは西郷隆盛の号である。


「徳の交わり」像は1991年に有志により建立された。同じものが山形県酒田市の南洲神社(西郷隆盛を祀る)にもある。

 

 

 

西郷公園を歩く

武の屋敷は西南戦争で焼失。明治13年(1880年)に西郷従道(じゅうどう、西郷隆盛の弟)が再建したという。


痕跡がひとつ。西郷隆盛が使っていたという井戸が残っていた。

古井戸

西郷屋敷の井戸

 

国立国会図書館デジタルコレクションで『南洲翁遺墨集』という資料をみつけた。この中に武の西郷屋敷の絵が掲載されている。

西郷屋敷の絵

『南洲翁遺墨集』より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

この絵の解説文も、なかなか興味深いものである。当時の屋敷の様子や、西郷隆盛の暮らしぶりを知ることができる。

 

石川氏の記録に云く、「武村の邸は、圍ひは柴垣にて、小き木札に西郷吉之助とあり、門の右は物置小屋にて、猟犬を繋ぎおかれ、左は戸口にて玄関はなく、いつも庭の方に廻りて御座敷に上りたり、こゝは南向きにて、床に白鶴と落款ある書幅をかけ、壁上にワシントン及びナポレオンの額を掲げられし外、置物などの飾りもなく、庭前に松三四本あり、我家松籟洗薼縁と詠し及びしもおもはる、松の向ふは野菜畑にれ茄子などうゑられ、庭木踏石等のもうけもなく、屋敷外は田圃になり遥かに鹿児嶋市街より櫻島をのぞむ景色絶佳といふべし」と、この建物は明治十年焼失せり、其後再建せられたるもの現存せりといふ。 (『南洲翁遺墨集』より)

 

 

古そうな石垣があった。当時のものかどうかはわからず。現地の説明版にあった屋敷の見取り図の輪郭とは、一致しているようにも見える。

公園の石垣

屋敷の石垣?

 

漢詩が刻まれた大きな石碑も。2019年に建てられたものとのこと。明治6年に官を辞して鹿児島に戻った西郷隆盛が、3年ぶりに我が家に帰って詠んだものである。

立派な石碑

漢詩の石碑

 

石碑は菅実秀に贈られた書を原寸大で写したもの。内容はつぎのとおり。

 

我家松籟洗塵縁

満耳清風身欲僊

謬作京華名利客

斯声不聞已三年

 


こう読む。

 

我が家の松籟塵縁を洗い
 (わがやのしょうらいじんえんをあらい)

満耳の清風身僊ならんと欲す
 (まんじのせいふうみせんならんとほっす)

謬って京華名利の客となり
 (あやまってけいかめいりのかくとなり)

斯の声聞かざること已に三年
 (このこえきかざることすでにさんねん)

 

 

 

 

<参考資料>
『南洲翁遺墨集』
編・発行/南洲翁遺墨集刊行会 1936年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 発行/鹿児島市長 末吉利雄 1969年

ほか