天正14年(1586年)から翌年にかけて、九州の情勢は大きく動く。島津氏は大友氏領内へ侵攻。大友氏の本拠地である豊後国(現在の大分県)の制圧を目指した。この争いに豊臣秀吉が介入。大友氏の救援要請を受けて、大軍を九州に送り込んでくる。
この一連の攻防は「豊薩合戦」とも呼ばれている。その様子はイエズス会宣教師のルイス・フロイスがまとめた『日本史』に詳しい。もちろんすべてが正確とは言えないところもあるが、同時代を生きた人物が記した貴重な史料である。
こちらの『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』 (訳/松田毅一・川崎桃太)から情報を拾ってみる。
なお、和暦の日付については旧暦にて記す。
大友側からの視点で
ルイス・フロイス『日本史』は、大友家に関する情報が詳細に記されている。
豊後国では大友氏の支援のもとで、宣教師たちが活動していた。大友義鎮(おおともよしげ、大友宗麟、そうりん)はキリスト教に興味を示し、隠居後の天正6年(1578年)にキリシタンとなる。洗礼名は「ドン・フランシスコ」。ルイス・フロイス『日本史』では「国主フランシスコ」と書かれている。
ちなみに大友義鎮(大友宗麟)の洗礼名は、フランシスコ・ザビエルにあやかったもの。天文20年(1551年)にふたりは出会っている。
そんな状況であったから、宣教師たちは豊後国や大友家について、かなり多くのことを書き残している。また、高城川の戦い(耳川の戦い)のあった天正6年(1578年)頃には、ルイス・フロイスは豊後に滞在していた。大友氏の領内の事情をよく知っているのである。
そんなわけで、ルイス・フロイス『日本史』では大友側の視点から、「豊薩合戦」の様子をなまなましく伝えている。
宣教師たちは自分たちを厚く支援したドン・フランシスコ(大友義鎮、大友宗麟)を高く評している。その一方で、息子の大友義統(大友吉統、おおともよしむね)のほうはボロクソに書かれている。
宣教師が伝える大友義統は、大友家を凋落させたダメ当主であり、キリスト教徒の敵でもあった、と。一時は洗礼を受けるもののすぐに棄教。さらには弾圧者でもあった、と。
そして、ルイス・フロイスが伝える島津氏は「恐怖の侵略者」という感じである。
宣教師が伝える島津の実力
島津方では、豊後侵攻は四兄弟の次男の島津忠平(ただひら、島津義弘)と末弟の島津家久(いえひさ)が担った。ルイス・フロイス『日本史』ではつぎにように伝えている。
薩摩の国主は嗣子がないので、兵庫頭殿という弟に国を譲った。そしてこの新たな国主は、名声を得ようとして、国を譲り受けると全軍を率いて肥後のその二名の殿を攻撃した。そして策謀と武力の二つによって彼らを征服した。薩摩の国主は、たった一日で九つの城を奪取し、ついに肥後国の絶対君主となった。このようにして薩摩国主は望む時に豊後の国に侵攻するばかりの状態にあって、豊後の人々一同に大いなる恐怖を与えている。 『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
長男の島津義久(しまづよしひさ)が当主であるが、天正13年(1585年)5月頃に島津忠平(島津義弘)は名代に指名されている。で、「新たな国主」と宣教師たちは見ている。また、島津忠平(島津義弘)が「兵庫頭(ひょうごのかみ)」と呼ばれていたこともわかる。
肥後の「二名の殿」というのは、阿蘇(あそ)氏と甲斐(かいし)氏。天正13年閏8月13日より島津忠平(島津義弘)は総攻撃に出て、敵の城をつぎつぎと落とした。閏8月15日には甲斐氏の拠点の御船城(みふねじょう、熊本県上益城郡御船町)も開城させた。また、閏8月19日に阿蘇氏を降伏させた。
「策謀と武力」に長けて「たった一日で九つの城を奪取」する実力は、「豊後の人々一同に大いなる恐怖を与えている」と。
島津家久はつぎのように評される。こちらはとくに豊後攻めの主力となった人物である。
薩摩国主の第三番目の兄弟である中務と称する人が、豊後と肥後の国境で配置に就いた。彼はきわめて優秀な武将(カピタン)で、島原では(竜造寺)隆信を殺害した戦歴を有する。 (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
「中務」と称されていたことがわかる。天正12年(1584年)の島原合戦(沖田畷の戦い)で大将を務めて勝利し、この戦いで龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が討ち取られた。この出来事は、大友氏に強烈なインパクトを与えていたのだろう。
また、こんなことも書かれている。
豊後の大敵でありデウスの教えの真の敵である薩摩の国主は、いよいよ勝利に驕り、頻繁な武技の訓練により、熟達し、かつ勇敢な武器の繰り手となり、これまでに企てたあらゆる戦において成功し勝利を博した。かくて彼は薩摩と大隅の国しか領していなかったが、本年になって西国と呼ばれるこの島の九ヶ国は、ほとんどすべてを彼が征服した状態となり、島の絶対君主になるためには豊後と豊前の一部を残すのみとなった。 (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
薩摩軍は、事、戦にかけてはただの一点たりとも疎かにせず、その迅速さと狡猾さに長けていることは、あたかも蜂のようで、<後略> (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
兵はよく訓練されていて強かったらしい。島津の勢いが、大友を飲み込もうとしていた。
島津と大友と、そして豊臣秀吉と
大友義統は領内をまとめられず、家臣の反乱や寝返りも相次いだ。島津が侵攻してきたら、もはや大友側は対抗できない。そこで、大友義鎮(大友宗麟)は、大坂の豊臣秀吉(羽柴秀吉)を頼る。その傘下に入り、対島津における支援を求めた。
この頃、羽柴秀吉は反抗勢力を抑え込んで最高権力者としての地位を確立。天正13年(1585年)7月には四国も制圧している。また、関白に就任し、天正14年には朝廷から「豊臣」の姓も賜っている。
島津氏のほうでも豊臣秀吉に使節を派遣している。九州の分割案を提示されるが、それは島津氏にとって条件の良いものではなかった。
彼は帰国すると国主らに、ごく短期間にかの九ヶ国を征服するよう総力をもってするようにと説得した。彼の論拠はこれらの諸国を掌中に収めてしまえば、そう容易に外部から戦を仕掛けてくることはあるまい。なぜならば、この西国の島は他島(すなわち本州)からは離れており、それに加えて幾多の戦力と軍兵が配備されている。関白自らが下向してくるなどとは虚構であり、当地方は遠く隔たり日本の果てにあるし、関白の背後には、信用のおけない大勢の大敵が控えている。もしも彼が軍勢だけを派遣するのであれば、武技に熟達した薩摩の兵は、百名でもって上(かみ)から来る千名の兵と戦うに十分である。 (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
島津は豊後攻めを開始した。天正14年(1586年)の終わり頃には筑前・筑後・豊前の大部分を制圧。島津軍は豊後国に迫る。
豊臣秀吉は大友氏に対して、派兵を約束。そして、翌年3月にはみずからも大坂から出陣することを約束した。それまでは防衛に徹すように大友氏には命じた。
だが、豊後においても、私たちがいるこの下(しも)においても、ましてや薩摩においては、何ぴとともそうした関白の約束を信じる者はいなかった。 (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
そんなふうに見なされていたという。
戸次川の戦い
豊臣秀吉は援軍を豊後に派遣する。仙石秀久(せんごくひでひさ)・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・十河存保(そごうまさやす)ら四国の領主たちであった。仙石秀久については、こう評されている。
関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張出身の人物に讃岐の国を与えた。彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。ただし以前から優秀な武将として知られていた。 (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
島津家久を総大将とする島津軍が迫る。破竹の勢いで豊後に攻め寄せる。
豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、[とりわけそれがデウスの鞭であってみれば]彼らは薩摩軍の名が口にのぼるの聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に錬磨された者までが、立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。 (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
島津の軍勢が、そして島津家久が、ものすごく恐れられていたようだ。
天正14年12月(1587年1月)、島津家久の軍勢は豊後国の深くにまで侵入。鶴賀城(つるがじょう、大分市上戸次)を攻めた。城主の利光宗魚 (としみつそうぎょ、利光鑑教、あきのり)はよく守るも戦死する。
豊臣秀吉は、自身の出陣まで、あるいは命令があるまでは交戦を控えるように、と仙石秀久に命じていた。しかし、仙石秀久は鶴賀城の救援を決める。四国勢と大友氏の連合軍は出陣した。天正14年12月12日(1587年1月20日)のことだった。
薩摩勢は、それより先豊後勢の動静を知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢を巧妙に隠匿していた。
豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。豊後勢が渡河し終えると、それまで巧みに隠れていた薩摩の兵士たちは一挙に躍り出て、驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。というのは、太刀を振りかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走していった。
(『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
川の流れを知らない四国勢はとくに被害が大きかった。長宗我部信親(のぶちか、長宗我部元親の嫡男)と十河存保は戦死。仙石秀久も多くの兵を失った。
「戸次川の戦い」と呼ばれる合戦で島津方は大勝した。その勢いをかって翌日には府内城(ふないじょう、大分市荷揚町)を落とす。
豊臣本軍、来たる
島津方は豊後国をほぼ征服し、大友方は臼杵城(うしきじょう、大分県臼杵市臼杵丹生島)などわずかな軍勢が抗戦するのみとなっていた。
その時突如として関白殿から遣わされた、その弟(美濃殿)が率いる五万近くの兵士からなる軍勢が到着したのである。官兵衛殿はつねに前衛の主将として参戦していた。薩摩勢は、自分たちの身に襲いかかって来る祖の軍勢の実力がどれほど強大なものかが判り、そのうえ関白が自ら薩摩の国を討伐するために来ようとしていることを知るに及び、関白の軍勢が府内に達する三日前に全兵士は逃走し、占領していた諸城を放棄した。 (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
「美濃殿」というのは豊臣秀長(とよとみひでなが)。また「官兵衛殿」は黒田孝高(くろだよしたか)。
島津軍は日向国(宮崎県)のほうへ撤退する。豊臣秀長が率いる大軍勢を相手に敗走を続けた。しばらくし豊臣秀吉も九州入り。こちらの軍勢は肥後国(熊本県)のほうから、薩摩へと進軍する。
天正15年(1587年)4月、ついに島津義久は降伏した。
島津家久の死
島津氏が豊臣氏との講和を進めていく最中の天正15年6月5日(1587年7月10日)に、島津家久は急死する。ルイス・フロイス『日本史』では、豊臣秀長による毒殺だと説明している。
美濃殿は、薩摩国主の弟で勇敢な戦士であり老練な主将でもある中務(家久)と称する薩摩の総指揮官が、今後、上の軍勢に対して何らかの策略を仕掛けることを恐れ、そうした不安を一掃しようとして彼のために宴席を設け、その饗宴の終わりにあたって、日本の習慣に従って盃をとらせた。そしてその酒の中に毒を混入するように家臣に命じた。中務はそれを飲み、三日後に、飲まされた新鮮な毒の結果であることが明らかな徴候を見せながら死亡した。 (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)
島津家久の死の真相については、よくわかっていない。ただ、当時から毒殺の噂があったのだろう。
豊後のこと、あれこれ
豊薩合戦の前後の豊後国の出来事について、いろいろなことが記されている。戦争の影響で宣教師やキリスト教徒たちの動きであったり、大友義統(大友吉統)の改宗と棄教とキリスト教への迫害についてだったり。
また、岡城(おかじょう、大分県竹田市竹田)を死守した志賀親次(志賀親善、しがちかよし)についても詳しい。この人物はキリシタンとなり、洗礼名は「ドン・パウロ」。志賀一族はことごとく島津方に寝返るが、志賀親次は大友家への忠誠を貫いて孤軍奮闘。ついに城を落とさせなかった。
国主フランシスコ(大友義鎮、大友宗麟)の最期や葬儀の様子についても、詳細に伝えている。その側にあった司祭のフランシスコ・ラグーナの報告をまるまる掲載している。こちらも貴重な史料である。
完訳フロイス日本史〈8〉宗麟の死と嫡子吉統の背教―大友宗麟篇(3) (中公文庫)
<参考資料>
『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』
著/ルイス フロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論社 2000年
『戦国武将列伝11 九州編』
編/新名一仁 発行/戎光祥出版株式会社 2023年
『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年
『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
ほか