ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

新納院高城跡にのぼってみた、大軍に囲まれても落ちず、大友軍も豊臣軍も攻めあぐねた

天正6年(1578年)、島津(しまづ)と大友(おおとも)がぶつかった! 場所は日向国の高城川原(たかじょうがわら)。現在の宮崎県児湯郡木城町高城の一帯である。両軍ともに数万の兵を動員する大合戦。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」「高城合戦」、あるいは「耳川(みみかわ)の戦い」と呼ばれている。

当初は大友方のほうが優勢だった。しかし、結末は島津方の大勝。勝敗を決めたのが、新納院高城(にいろいんたかじょう)を死守したことにあるのだ。

この城をのぼる。

 

高城川の戦い(耳川の戦い)

島津義久(しまづよしひさ)は薩摩国・大隅国(現在の鹿児島県)を制圧し、日向国(現在の宮崎県)にも勢力を広げてきた。一方の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)は豊後国・豊前国(現在の大分県)を拠点に九州北部を制圧。幕府から九州探題にも任じられている大大名である。

日向国には伊東義祐(いとうよしすけ)が君臨していた。しかし、島津義久が侵攻すると、伊東義祐は逃亡。大友氏を頼って豊後に落ちのびる。伊東義祐は大友義鎮(大友宗麟)に日向奪還の援けを乞う。これを大義名分とし、大友義鎮(大友宗麟)は日向侵攻を決する。ただ、家臣の中に島津との戦いに反対する者も多かった。

日向国北部の縣(あがた、宮崎県延岡市)を領する土持親成(つちもちちかしげ)は島津方についていた。大友方は縣に大軍を送り、天正6年(1578年)4月に制圧する。また、伊東氏の旧臣たちも大友方に呼応して、島津氏と戦った。

同年10月に大友方は動く。大軍(3万とも、4万とも、6万とも、8万とも、兵数は諸説あり)を南下させて新納院高城を囲んだのである。田原親賢(たわらちかかた、田原紹忍、じょうにん)を大将とし、田北鎮周(たきたしげかね)・佐伯惟教(さえきこれのり、佐伯宗天、そうてん)・角隈石宗(つのくませきそう)・斎藤鎮実(さいとうしげざね)・吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)らも従軍する。

山城跡と農地

高城川原から新納院高城を見る


高城の守備兵は約3000とされる。城主の山田有信(やまだありのぶ)のほか、救援として島津家久(いえひさ、島津義久の四弟)・吉利忠澄(よしとしただすみ)・鎌田政近(かまだまさちか)・比志島国貞(ひしじまくにさだ)らが入った。

高城は、大友の大軍に囲まれながらも落ちない。水の手を断たれるが、城内で湧き水が見つかるという幸運もあったという。

鹿児島にあった島津義久は大急ぎで軍を整えて高城の救援に動く。11月1日に佐土原城に入る。島津方は3万~4万の兵を送り込んできた。

11月11日、島津方は東から攻撃を仕掛ける。敵を釣り出して伏兵で囲む作戦(「釣り野伏せ」という)が功を奏して、前哨戦は島津方が勝利する。高城の囲みも解けた。

そして11月12日、決戦は一方的な展開となる。大友軍は壊滅し、多くの重臣が戦死する。

 

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7つの空堀を越えて

新納院高城は尾根の先端に築かれている。三方が断崖で、攻めるにはかなり難儀である。また、西側の尾根には7つの空堀が設けられている。大友軍は尾根のほうからも攻めかかったが、こちらの守りも堅い。

 

城跡は公園として整備されている。木城町役場のすぐ近くに登山道の入口があり、こちらから本丸跡へ行ける。

街中から見る山城跡

木城町役場前から見上げる

 

車の場合は、尾根沿いにいったん西側にまわると、駐車場がある。こちらにいたる道の途中に第七空堀があったという。さらに、駐車場入り口のゲートのあたりが第六空堀とのこと。

駐車場のゲート

西側の駐車場の入口、ゲート横に「第六空堀」の標柱

 

広い駐車場に車を停める。本丸近くにも駐車場があり、さらに道を車で奥へと進むこともできる。ただ、ここからは歩くことをオススメする。道中では空堀を越える。攻め手の大友軍の気分をちょっとだけ体感できるのだ。

駐車場には古墳もあった。「永山古墳(ながやまこふん)」は6世紀頃に作られたものとのこと。横穴式石室が露出している。

古墳の横穴式石室

永山古墳、石室が見える

 

徒歩で本丸跡を目指す。すぐに水分神社(みくまりじんじゃ)があった。雨や水に関わる神様である。境内には稲荷神社もあった。稲荷神社は島津氏の氏神でもある。

山中に鎮座する神社の祠

水分神社の祠(写真左)と稲荷神社(右)

 

神社から奥に進むと第五空堀。現在は空堀に橋が架かっている。さらに行けば第4空堀、第3空堀、第2空堀と遭遇していく。堀は本丸に近くになるにつれて深くなっていく。

空堀に橋がかかっている

第五空堀

空堀から眺望が開ける

第四空堀

空堀と街並み

橋の上から空堀をのぞき見る

空堀が続く道

空堀の続く道を本丸側から、手前に第二空堀、奥に第三空堀

 

本丸の駐車場の端に第1空堀。遊歩道もあったので下ってみる。こちらは山城の雰囲気がよく残っていた。

本丸に近い空堀

第一空堀

城跡の遊歩道

第一空堀を下る、遊歩道になっている

本丸下の段曲輪

第一空堀から本丸の下へ

 

ずっと下りていくと、木城町役場前の登城口に出る。

山城への入口

こんなところに出る

 

遊歩道を戻り、再び本丸を目指す。本丸の東側をぐるりとまわってのぼっていく。こちらには寺院の痕跡も確認できた。もともとは「興福寺」という真言宗の寺があったとのこと。

山城へのぼっていく

役場前の登山道入口付近

登山道に石仏がある

廃寺跡、石仏が並んでいた

山城の登山道

山城らしい地形も

 

本丸へ出る。公園としてよく整備されている。芝生のきれいな広場だ。石碑類もあちこちに。高城川の戦い(耳川の戦い)の戦没者を供養するための観音像もあった。

芝生で整備された公園

高城の本丸跡、櫓風の展望台もある


眺望がよく、小丸川(高城川)や切原川(きりばるがわ)も眼下に見える。戦場の様子が一望できるのだ。

木城町の街並みを見渡す

展望台から、小丸川(高城川)も見える

 


新納院高城の歴史

新納院は、宮崎県児湯郡の都農町・木城町・川南町・高鍋町・新富町、および日向市の一部にまたがっていた。高城は小丸川の中流域にあり、交通の要衝でもある。新納院の拠点のひとつだった。

古くは日下部(くさかべ)氏がこのあたりの郡司(院司)だった。日下部氏は日向国に古くから土着する物部氏の一族であるという。

12世紀末頃になると、新納院は土持(つちもち)氏が支配するようになる。土持氏は宇佐八幡宮(宇佐神宮、大分県宇佐市)の社家を出自とする。こちらも物部氏後裔の田部(たべ)氏の一族とされる。

古代には砦があったとも。そこに日下部氏または土持氏によって高城が築かれたとされる。

 

新納院は島津支族の新納(にいろ)氏の名乗りの由来にもなっている。建武2年12月11日(1336年1月)、島津時久(しまづときひさ)が足利尊氏より新納院の地頭職に任じられ、高城を本拠地とした。島津時久は島津忠宗(ただむね、島津家4代当主)の四男。兄の島津貞久(さだひさ、5代当主)とともに、足利尊氏に従って活躍した。

島津時久の一族はこの所領の地名にちなんで新納氏を名乗る。新納氏はその後、島津氏の有力な一門衆となっていく。だが、しばらくして島津時久(新納時久)は新納院を失う。観応元年・正平5年(1350年)に畠山直顕(はたけやまただあき)が新納院高城を攻めて奪ったのである。これ以降、新納氏は新納院を回復することはできなかった。ちなみに、新納氏は日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)の領主となった。

 

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畠山直顕は島津氏と対立し、敗れて没落する。畠山氏が去ったあと、新納院は土持氏の支配に戻った。

中世において日向国の中部では、伊東氏が勢力を広げる。土持氏との抗争ののちに、新納院は伊東氏のものとなる。伊東義祐の時代に伊東氏は最大版図を築く。「伊東四十八城」のひとつに新納院高城も数えられた。

 

 

城主の山田有信とは

天正4年(1576年)に島津義久は日向に侵攻する。伊東氏の戦いの中で山田有信は功を挙げる。そして、島津氏が旧伊東領を手中にすると、天正6年(1578年)に山田有信は新納院高城の守りを任された。

 

薩摩の山田氏は2系統ある。ひとつは島津氏庶流の山田氏で、こちらの名乗りは薩摩国谿山郡山田(鹿児島市山田町・皇徳寺台のあたり)を領したことにちなむ。そして、もうひとつが平姓の山田氏で、山田有信はこっちのほうである。

12世紀末頃、平家方に武蔵三郎左衛門尉有国という人物があった。平維衡(たいらのこれひら)を祖とする桓武平氏とのこと。『平家物語』によると、武蔵有国は寿永2年(1183年)に加賀国篠原(しのはら、石川県加賀市片山津町)で源義仲の軍と戦って討ち死にしたという。

武蔵有国の子は武蔵有実といった。武蔵有実は島津忠久に仕える。薩摩への下向を命じられ、日置郡山田(鹿児島県日置市日吉町山田)へ。所領にちなんで、山田氏を名乗るようになった。

ちなみに、島津氏庶流山田氏は名に「忠」や「久」の字が入る、平姓山田氏は「有」や「国」の字が入る。


16世紀前半の薩摩国は、相州家の島津忠良(ただよし、島津日新斎、じっしんさい)・島津貴久(たかひさ)が、薩州家の島津実久と覇権を争った。その中で、山田有親は薩州家方につくも、天文2年(1534年)に相州家方に降る。しかし、「二心あり」と山田有親は疑われて謀殺されてしまった。島津忠良は山田有親に非はなかったと思い直し、大いに悔いた。そして、その嫡男を召し出して再び日置郡山田を与えた。それが山田有徳(ありのり)であった。

 

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これ以降、山田氏は島津貴久・島津義久の家臣として重用される。山田有徳は各地を転戦して功を挙げ、薩摩国隈之城(くまのじょう、鹿児島県薩摩川内市隈之城)などの地頭に任じられた。そして、子の山田有信も大いに活躍することになるのだ。

 

豊臣軍も高城を落とせず

山田有信は高城川の戦い(耳川の戦い)のあとも引き続き高城を任され、この地の地頭にも任じられている。

天正15年(1586年)にも新納院高城は囲まれる。今度は、豊臣秀長(とよとみのひでなが)が大軍(10万とも20万とも、数字は諸説あり)を率いて侵攻してきた。山田有信は300余の兵で新納院高城にたてこもる。

その後、島津義久率いる本隊は根白坂(ねじろさか、木城町)で戦い、圧倒的な数の差もあって豊臣軍に大敗する。それでも、新納院高城は落ちなかった。

島津義久が降伏したあとも、山田有信は徹底抗戦の構えを見せた。島津義久は使いを送って説得し、山田有信はようやく降る。嫡男(のちの山田有栄、ありなが)を人質に出し、剃髪して下城した。


豊臣秀吉は山田有信の戦いぶりと忠義ぶりを高く評価し、直臣として召し抱えようとした。肥後国天草(熊本県の天草)の4万石の大名にすると言ってきた。だが、山田有信は断る。

その後、3年ほど謹慎したあと、島津義久に再び召し出される。加増されて老中となった。

 

高城は落ちない城だった。おそろしく堅い。あるいは、山田有信が籠城戦にかなり秀でていたのかも。

 

 

 

 

 

 

<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『西藩烈士干城録(一)』
編/出版 鹿児島県立図書館 2010年

『西藩烈士干城録(二)』
編/出版 鹿児島県立図書館 2011年

『豊薩軍記』 ※『改訂 史籍収覧第7冊』より
著/長林樵隠 編/近藤瓶城 発行/近藤活版所 1906年

『宮崎縣史蹟調査報告 第五輯 児湯郡之部』
発行/宮崎縣内務部 1931年

『日向国史 下巻』
著/喜田貞吉 発行/史誌出版社 1930年

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『完訳フロイス日本史6 ザビエル来日と初期の布教活動 -大友宗麟篇1』
著/ルイスフロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社 2000年

『高城戦記 九州の関ヶ原はどのように戦われたか』
著/山内正徳 出発/鉱脈社 2008年

ほか