天正5年12月(1578年1月)、島津義久(しまづよしひさ)は伊東義祐(いとうよしすけ)との戦いを制し、日向国(現在の宮崎県)を支配下においた。島津義久は薩摩・大隅・日向の3ヶ国の守護である。名実ともに「三州の太守」となったのである。
一方で、島津氏の勢力拡大に警戒を強める者も。豊後国・豊前国(現在の大分県)をはじめ北九州の覇権を握る大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)である。
伊東義祐は島津氏に攻められて逃亡(伊東崩れ)。大友氏を頼り、豊後国へと身を寄せる。そして、日向奪還の援助を求めた。大友氏は島津氏が奪ったばかりの日向国に侵攻してくる。そして、両者は激突するのである。
決戦場所は新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町高城)とその周辺。「高城合戦」「高城川の戦い」「高城川原の戦い」、あるいは大友軍が多くの戦死者を出したとされる耳川(みみかわ)にちなんで「耳川の戦い」とも呼ばれている。
- 伊東崩れ、その後
- 九州の覇者、大友宗麟
- 大友宗麟、キリスト教にはまる
- 日向侵攻を決める
- 大友が日向北部を制圧
- 石城合戦
- 大友宗麟が洗礼を受ける
- 務志賀へ
- 将軍からの手紙
- 石城攻め、再び
- 大友軍が南下、高城を囲む
- 伊東の残党が三納で蜂起
- 島津義久が動く
- 前哨戦
- 大友方の軍議、まとまらず
- 決戦
日付は旧暦で記す。
伊東崩れ、その後
島津義久は都於郡城(とのこおおりじょう、宮崎県西都市)に入城。日向に残された伊東方の城も降る。島津義久は降伏してきた城主たちから人質をとったり、あるいは懐柔をはかったり、と旧伊東領の掌握を急いだ。
また、日向国北部の縣(あがた、宮崎県延岡市)の土持親成(つちもちちかしげ)も従属してきた。土持親成は伊東義祐とは敵対関係にあり、島津氏の日向侵攻の際にはこちらに協力していた。
要地となる城には有力家臣を配置し、守りを固める。佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)には島津家久(いえひさ、義久の弟)を入れて、日向方面の大将格に据える。また、都於郡城を鎌田政近(かまだまさちか)に、新納院高城を山田有信(やまだありのぶ)に、財部城(たからべじょう、のちの高鍋城、宮崎県児湯郡高鍋町)を川上忠智(かわかみただとも)に、それぞれ任せた。態勢が固まると、島津義久はいったん鹿児島に帰還した。
九州の覇者、大友宗麟
この頃の大友義鎮(大友宗麟)は九州北部を支配。国人衆も多くが従属していた。幕府から九州探題に任じられ、豊後国・豊前国・肥前国・肥後国・筑前国・筑後国の守護でもある。その範囲は現在の大分県・福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県にあたる。九州の覇者とも言える存在になっていた。
九州の大友氏の歴史は、建久7年(1196年)に大友能直(おおともよしなお)が豊後国・豊前国の守護に任じられたことに始まる。
大友氏は13世紀後半の元寇の際に、九州に下向して土着する。そして、14世紀には倒幕に参加し、足利尊氏が幕府を開くとこちらに従って南北朝争乱期を戦った。6代当主の大友貞宗(さだむね)が急死し、足利尊氏はまだ若い大友氏泰(うじやす、7代当主)・大友氏時(うじとき、のちに8代当主)の兄弟を猶子として「氏」の偏諱を賜ったともされる。一時は、大友氏が分裂してそれぞれが南朝と北朝に分かれたりもした。
その後、大友氏は守護大名から戦国大名へと変わっていく。16世紀になって大友義長(よしなが、19代当主)・大友義鑑(よしあき、20代当主)・大友義鎮(大友宗麟、21代当主)らは大内(おおうち)氏と抗争し、ここを生き残る。大内氏が没落したあとは、新興勢力の毛利元就(もうりもとなり)ともわたりあう。天正6年(1578年)の時点では、大友氏の最大版図を築き上げていた。
大友宗麟、キリスト教にはまる
16世紀半ばから、日本ではイエズス会の宣教師たちがキリスト教の布教活動を行っていた。大友義鎮(大友宗麟)はイエズス会を支援した。もともとは貿易の利を求めてのものだったが、大友義鎮(大友宗麟)はキリスト教に興味を示す。
大友義鎮(大友宗麟)は宗教にはまりやすい人物だったようだ。禅宗にはまり、高僧を招いてその教義の理解に努めたという。永禄5年(1562年)に出家し、「休庵宗麟」と号した。そして、宣教師たちの話もよく聞き、次第にキリスト教にものめり込んでいくのである。ただ、改宗にはなかなか至らなかった。その理由は、当主みずからがキリシタンになることの影響を考えてのことでもあったのだろう。
天正4年(1576年)、大友義鎮(大友宗麟)は豊後国の臼杵(うすき、大分県臼杵市)に隠居する。家督は嫡男の大友義統(よしむね)に譲った。ただ、実権は握り続けた。
隠居の身となった大友義鎮(大友宗麟)は、キリシタンになるための準備を進めていた。奈多八幡宮(なだはちまんぐう、大分県杵築市奈多)の宮司の娘であった正室とは離縁。そして、新しく迎えた妻に洗礼を受けさせた(洗礼名はジュリア)。
日向侵攻を決める
日向から大友氏に身を寄せた伊東義祐は、旧領奪還のために援助を求めた。また、「奪還したのちは日向の半国を大友氏に委ねたい」と申し出たとも。
大友氏にとっては日向国へ勢力を広げる好機である。また、急拡大してきた島津氏の存在も厄介に感じている。そのうえで、島津氏は日向国をまだ掌握しきっていない。
大友義鎮(大友宗麟)は日向国への侵攻を決める。
また、ルイス・フロイスの『日本史』によると、この地にキリシタンの国家を建設する、という計画もぶちあげたという。
大友が日向北部を制圧
日向国縣(あがた)の土持親成は、もともと大友氏の傘下にあった。娘を人質として差し出していたとも。そんな土持氏が島津と同盟を結ぶ。大友から離反した。この動きを伝え聞きいた大友義鎮(大友宗麟)は、天正6年(1578年)1月に兵を出す。土持親成は慌てて使いを送る。叛意がないことを訴えるが、聞き入れらず。
縣の南に位置する門川城(かどかわじょう、宮崎県東臼杵郡門川町)・塩見城(しおみじょう、日向市塩見)・日知屋城(ひちやじょう、日向市日知屋)・山陰城(やまげじょう、日向市東郷)などには伊東氏旧臣が残っていた。伊東義祐が逃亡したのちは、島津氏に降伏していた。門川城主の米良祐次(めらすけつぐ)らは大友氏の日向侵攻を察知し、密使を送って協力を申し出た。
大友義鎮(大友宗麟)は出兵を命じる。2月21日に先鋒部隊が門川城に入る。これには豊後から伊東氏家臣も従軍。門川城をはじめとする諸城も寝返った。また、3月には長倉祐政(ながくらすけまさ)・山田宗昌(やまだむねまさ)らが新納院石城(にいろいんいしのじょう、児湯郡木城町石河内)に拠った。
縣の南側はことごとく大友方につき、島津方との連絡路は断たれた。土持親成は孤立する。
天正6年(1578年)3月18日、大友義統を総大将として日向に侵攻。『豊薩軍記』によると、兵力は3万余。佐伯惟教(さえきこれのり、佐伯宗天)・佐伯惟真(これざね)・志賀親教(志賀親度、しがちかのり)・田北鑑重(たきたあきしげ、田北紹鉄)・田北鎮周(しげかね)・田原親賢(たわらちかかた、田原紹忍)・田原親貫(ちかつら)・吉岡統定(よしおかむねさだ)・吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)・朽網鑑康(くたみあきやす)・戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪、たちばなどうせつ)・戸次統貞(むねさだ、戸次玄珊)らを出陣させたという。
『豊薩軍記』の記述が真実を伝えているのかあやしいところもあるが、大軍を送り込んだことは間違いなさそうだ。
土持親成は縣の松尾城(まつおじょう、延岡市松山町)にたてこもる。大友方は佐伯惟教(佐伯宗天)を先陣として城攻めを開始。4月15日、松尾城は陥落する。土持親成は城を抜け出すが捕縛され、護送中に自刃させられたという。
松尾城では狼煙を焚いて島津氏の援軍があるように見せかけるが、これが偽りであると軍配者の角隈石宗(つのくませきそう)が見破ったという逸話もある。
縣をはじめとする日向国北部は大友氏が制圧した。耳川(美々川)以北は大友氏の勢力圏となり、耳川より南側の伊東氏旧臣らも寝返って対抗する。島津方の戦線は新納院高城(宮崎県児湯郡木城町高城)のあたりまで後退した。
また、大友義鎮(大友宗麟)は日向国北部を支配下に置いたあと、寺社をことごとく破壊させている。
石城合戦
天正6年(1578年)7月6日、島津義久は新納院石城の攻撃を命じる。ここには長倉祐政・山田宗昌らがたてこもる。石城は高城から北西に10kmほどの場所である。島津方は島津忠長(ただたけ、島津義久とは従兄弟)・伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を大将として出兵。石城を囲む。
石城は小丸川(おまるがわ、高城川)上流の山中にある。尾根の先の山城で、三方は断崖。尾根に沿ってぐるりと川がめぐり、急流が進軍をはばむ。島津勢は強攻するが、多くの戦死者を出す。総大将の島津忠長も重傷を負った。城を落とせず、島津方は佐土原城に撤退した。
大友宗麟が洗礼を受ける
臼杵の大友義鎮(大友宗麟)は、祈りの日々を送っていた。そして、ついにキリシタンとなる。『耶蘇会士日本通信』収録のルイス・フロイスの書簡によると「アウグスティヌスの祭日」にあたるユリウス暦1578年8月28日(天正6年7月25日)のことだった。
洗礼名は「ドン・フランシスコ」。大友義鎮(大友宗麟)が初めて出会った宣教師がフランシスコ・ザビエルであったことから、これにあやかってのものである。
務志賀へ
天正6年(1578年)8月12日、大友義鎮(大友宗麟)は臼杵から縣の務志賀(無鹿、むしか、延岡市無鹿)に海路で向かう。妻のジュリアをともない、宣教師たちも連れて。務志賀を隠居所と定めて、ここにキリスト教の都市を築くこととした。
縣に向かう船出の様子を、ルイス・フロイスが書き記している。
かなりの軍勢と幾門かの大砲を携えて出発し、その乗船には赤い十字架を描き白緞子の金の縁飾りを施した四角い旗を掲げた。(『完訳フロイス日本史7 宗麟の改宗と島津侵攻 ー大友宗麟篇2』より)
豪華なものであった。3万5000もの兵を引き連れていったとも。大友義鎮(大友宗麟)は気分を高ぶらせていたことだろう。8月19日に務志賀に到着。キリスト教関連施設の建設にとりかかった。
大友義鎮(大友宗麟)はさらなる南下を目論む。薩摩国・大隅国(現在の鹿児島県)まで制圧して九州全土を一気に掌握しよう、と考えていた。島津との全面戦争である。
これには家臣の多くが反対した。とくに軍配者でもある角隈石宗は激しく諫めた。「薩摩や大隅の地形や情勢をまずは調べるべき」とか、「殿が厄年だから」とか、「軍を出すには日が悪い」とか、「彗星が出ているのは凶兆だ」とか理由を並べ、とにかく「今は引き延ばすべき」と説いたという。
諫言は聞き入れられなかった。大友義鎮(大友宗麟)のいる務志賀を本陣とし、島津との決戦にのぞむ。また当主の大友義統は豊後国の野津(のつ、大分県臼杵市野津町)にあって後詰とした。
将軍からの手紙
天正6年(1578年)9月11日、幕府の使者が島津義久のもとにつかわされ、将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の書が届けられた。
足利義昭は織田信長に擁立されて将軍職についたが、対立して京を出奔。毛利輝元(もうりてるもと)のもとに身を寄せていた。毛利輝元は中国地方の広範囲を支配下に置いていて、北部九州では大友氏と勢力争いを繰り広げていた。また、京では織田信長が覇権を握っていた。毛利氏は織田氏とも対立関係にある。
将軍は諸大名を味方につけ、織田信長の打倒を目指していた。毛利氏の目は京に向いているが、そうなると背後の大友氏がやっかいな存在である。そこで、島津氏に味方をするよう言ってきたのである。
一色昭秀・真木島昭光(いっしきあきひで・まきしまあきみつ、ともに将軍の側近)より、島津家国老の伊集院忠棟・喜入季久(きいれすえひさ)にも同様の内容の手紙がよこされている。
島津義久は将軍の命令を大友氏との決戦の大義名分にした、とも。
石城攻め、再び
天正6年(1578年)9月13日には鹿児島から日向国野尻(のじり、宮崎県小林市野尻)まで出てきた。また、日向国の飯野にあった島津忠平(しまづただひら、島津義弘、よしひろ、義久の弟)も、9月19日に城を出て島津義久に合流している。
9月17日、島津義久はまたも新納院石城攻めを命じる。島津征久(ゆきひさ、島津以久、もちひさ、島津義久とは従兄弟)を大将とし、伊集院忠棟・平田光宗(ひらたみつむね)・上井覚兼(うわいかくけん、さとかね)を副将として派遣する。伊集院忠棟は木を伐採して川に落とし込んだ。行く手を阻んでいた急流を無力化させ、城に総攻撃をかけた。
石城は籠城を続けるが、汲道を断たれ、糧食も尽きた。9月30日、長倉祐政は降伏する。
後詰めとして日向に出てきていた島津義久は、飯野を経由して10月5日に鹿児島に戻る。
大友軍が南下、高城を囲む
大友方は、田原親賢(田原紹忍)を大将として島津方の新納院高城に向けて進軍する。副将には佐伯惟教(佐伯宗天)・田北鎮周・角隈石宗らが名を連ねる。その兵力は『島津国史』によると10万、『西藩野史』によると8万あるいは6万と記される。また、『豊薩軍記』では3万8500としている(務志賀の本陣の兵を含む)。ほかに20万としている資料もあったが、さすがにこれは盛りすぎか、と。たぶん、『豊薩軍記』の数字が実際に近いと思われる。このほかに別動隊として、肥後方面からも軍を寄せる。
一方、高城は山田有信が500ほどの兵で守っていた。堅城だが兵力も少なく、大軍で一気につぶせる、と大友方では考えていたことだろう。
島津家久は縣近くまで出陣していたが、耳川まで退く。先陣の佐伯惟教(佐伯宗天)と戦闘となり蹴散らされる。大友の軍勢が南下して高城に迫ったことから、島津家久は兵を率いて入城する。吉利忠澄・鎌田政近・比志島国貞らも救援として高城に入り、城兵は3000ほどになった。
10月20日、大友軍は新納院高城を囲んだ。高城は堅く守り、寡兵ながらも大友の大軍を相手に持ちこたえる。水汲み場への道を断たれて窮するが、城内に湧き水が見つかる。士気は再び上がった。
伊東の残党が三納で蜂起
大友方は高城への侵攻にあわせて、伊東旧臣に密書を送って蜂起をうながしていた。高城の南側で挙兵し、焼き討ちをかけ、都於郡城を攻撃するという計画だった。10月10日に決行予定だったが、計画が露見していったん頓挫する。
しかし10月23日になって、三納(みのう、宮崎県西都市三納)で伊東氏の残党が蜂起。中心となったのは長倉祐政であった。まずは三納地頭の伊地知式部太夫を討ち取る。平野城(ひらのじょう、西都市平群のあたり)を落とし、八代(やつしろ、宮崎県東諸県郡国富町八代南俣)・本荘(ほんじょう、国富町本庄)・綾(あや、東諸県郡綾町北俣)などに焼き討ちをかけ、さらには都於郡城に攻めかかった。都於郡城主の鎌田政近は高城に入っていた不在。留守兵が迎え撃った。
ちょうど北郷時久(ほんごうときひさ)・北郷相久(すけひさ)・北郷忠虎(ただとら)らが高城へ援軍として進軍中で、近くに滞在していた。北郷隊も反乱鎮圧に加わり、伊東残党軍を殲滅した。
北郷氏は島津支族で、日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市)の領主。島津義久とは同盟関係にあり、高城の救援のために出陣を要請していた。
三納の反乱は、島津方にとっては危険なものであった。ここを押さえられると、高城への道が分断されてしまうところだったのだ。
島津義久が動く
大友軍は新納院高城を激しく攻め続ける。しかし、落ちない。
高城は尾根の先端にあり、三方が断崖となっている。そして、西側の尾根づたいは7つの空堀が切れ込んで、侵入を阻んでいる。登ろうとしたり、堀を越えとしたりすると、鉄砲玉と矢が降り注ぐのである。大友方は攻めあぐねた。とはいえ、城のほうも大軍を相手に疲弊していく。なんとか持ちこたえていた。
戦線は膠着する。一方で、島津義久の動きは早かった。高城から知らせを受けると、すぐに軍を編成する。また、出水(いずみ、鹿児島県出水市)の島津義虎(しまづよしとら、分家の薩州家)、大口(おおくち、鹿児島県伊佐市大口)の新納忠元(にいろただもと)に薩摩国北部の守りを固めさせた。
天正6年(1578年)10月25日、鹿児島の島津義久が高城に向けて出征する。高津浜(場所の詳細わからず)を出航して、大隅国の濱市(はまのいち、鹿児島県霧島市隼人町真孝)に入港し、さらに日向国の高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)にいたった。27日には紙屋(かみや、宮崎県小林市野尻町紙屋)に到着する。
島津義久の行軍に家臣たちが合流し、軍勢もふくれあがっていく。島津忠平(島津義弘)・島津歳久(としひさ、義久の弟)も出陣する。
島津義久は紙屋にいったんとどまり、先遣隊として伊集院忠棟・上井覚兼らを佐土原城に向かわせた。佐土原城を守る樺山忠助(かばやまただすけ)と合流させる。
11月1日、島津義久も佐土原城に入り、ここを本陣とした。日向に配置していた兵もあわせて、軍勢は4万ほどになったという。また、島津征久(島津以久)は財部城(たからべじょう、宮崎県児湯郡高鍋町)に、島津忠平(島津義弘)は都於郡城に入っていた。
5日、高城から佐土原に使いがあり、救援を急ぐよう言ってきた。島津義久は翌日に動くことを決める。しかし、6日は大雨であった。『大友御合戦御日帳写』には「洪水」の文字も確認でき、小丸川(高城川)が氾濫したようである。この日は動かず。
高城の島津家久は単独で和平交渉をはかるが、これは成立せず。大友方は偽りの投降と判断したとも。実際にそうであったのかもしれない。結果的に、高城は時間を稼ぐことができた。
7日、雨があがる。
前哨戦
天正6年(1578年)11月9日、島津軍が動き出す。
島津忠平(島津義弘)・伊集院忠棟・上井覚兼らは、島津征久(島津以久)のいる財部城(たからべじょう、宮崎県児湯郡高鍋町)に入った。
新納院高城は尾根の突端にある。麓は「高城川原」とも呼ばれている。高城川(小丸川)と支流の切原川(きりばるがわ)が流れている。川の周辺には平野が広がっているが、川を挟んで北側と南側は台地だ。いわゆる河岸段丘である。大友軍は北側の台地に陣取る。また、平地では高城のまわりに大挙し、城を囲んでいた。
財部城は、新納院高城の東にある。高城川原の西端に高城、東端に財部城という位置関係だ。島津軍は財部から先遣隊を出し、ここから大友軍を切り崩すこととした。
島津忠平(島津義弘)らの財部城の部隊が奇襲に出る。10日夜に軍を発し、ひそかに小丸川(高城川)をわたる。佐伯惟教(佐伯宗天)が布陣する松山陣(児湯郡川南町)の近くに4000の兵を3つに分けて伏せさせた。
伊集院忠棟が率いる兵300が攻撃を仕掛ける。これは囮部隊であった。松山陣の佐伯隊を釣り出し、伏兵で囲んだ。混乱した佐伯隊に、財部から出てきた島津忠平(島津義弘)・島津征久(島津以久)らが進軍。また、根白坂(ねじろざか、児湯郡木城町椎木)に布陣していた川上久隅(かわかみひさすみ)・上井覚兼・頴娃久虎(えいひさとら)・鎌田政近らの部隊も松山陣へと押し出す。佐伯隊は混乱し、500ほどの兵を失ったという。
「釣り野伏せ」と呼ばれる戦法である。奇襲は成功し、島津方は高城川原を制圧。高城を囲んでいた敵兵も撤退させる。
そして夜のうちに島津義久の本隊が佐土原から移動し、根白坂に布陣する。本隊の兵力は3万とも伝わっている。さらに高城川(小丸川)の南側の台地に沿って島津忠平(島津義弘)・島津征久(島津以久)らも陣を構えた。最前線の高城川原は本田親治(ほんだちかはる)・北郷久盛(ひさもり)らに守らせ、二番隊として根白坂下に伊集院忠棟を配置した。
大友方の軍議、まとまらず
敗戦の夜、大友方の軍議は荒れたのだという。佐伯惟教(佐伯宗天)は攻撃を待つことを主張する。務志賀の大友義鎮(大友宗麟)に注進して本陣の兵を押し出してもらい、肥後口の別動隊の到着を待ってから戦うべきだとした。大将の田原親賢(田原紹忍)もこれに同意。角隈石宗も支持する。しかし、田北鎮周はあくまでも強攻を主張した。軍議は結論の出ないままものわかれとなる。
田北鎮周は、先陣を切って敵に突っ込むことを決意する。兵のために酒宴を開き、家宝の鞍を薪として酒を温めたという。
決戦
天正6年(1578年)11月12日、早朝から大友勢が動き出す。田北鎮周の部隊が高城川原に攻めかかった。独断で動いた田北隊を追いかけて、佐伯惟教(佐伯宗天)・角隈石宗・斎藤鎮実(さいとうしげざね)・吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)らも続いた。
島津勢は奮戦するが、本田親治・北郷久盛が討ち死に。前線部隊は敗走する。大友勢はさらに勢いに乗って高城川(小丸川)を渡って追撃をかけた。
田北隊は暴走気味に前に出てくる。他の部隊も続く。大友勢は統制がとれずに、戦線が伸び切った。敵が川を渡ったところで、台地上に布陣していた島津勢が一気に駆け下りた。高城の兵も攻撃に加わる。大友勢を包囲殲滅にかかった。
敵は島津方にとって有利な場所に飛び込んできた。そして、布陣していた部隊がとり囲む。島津方が狙っていたのかわからないが、結果的に「釣り野伏せ」の形になったのである。
敗走する大友勢を島津勢が追撃する。高城川(小丸川)は大雨のあとで増水している。川幅が広くなっている竹鳩ヶ淵(だげきがぶち、だけくがぶち)では、多くの大友兵が川を渡れずに溺死したという。
後方に布陣していた田原親賢(田原紹忍)は全軍を撤退させる。大友勢は北へと退却するが、はるか北の耳川まで島津勢は追撃した。耳川も増水していて、溺死した者も多かったのだという。
大友勢は壊滅的な被害を出す。田北鎮周・佐伯惟教(佐伯宗天)・角隈石宗・斎藤鎮実(さいとうしげざね)・吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)らも戦死した。
務志賀にあった大友義鎮(大友宗麟)も、敗北を聞いて大急ぎで豊後へと引き上げた。
島津が勝ち、大友が負けた。この結果が、その後の九州の情勢に大きく影響していくことになる。つづく。
『センゴク権兵衛』で描かれる耳川の戦い(高城川の戦い)は、臨場感があり!
高城合戦(耳川の戦い)については、これらの小説でも描かれる。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
『豊薩軍記』 ※『改訂 史籍収覧第7冊』より
著/長林樵隠 編/近藤瓶城 発行/近藤活版所 1906年
『日向国史 下巻』
著/喜田貞吉 発行/史誌出版社 1930年
『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年
『完訳フロイス日本史6 ザビエル来日と初期の布教活動 -大友宗麟篇1』
著/ルイスフロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社 2000年
『耶蘇会士日本通信 豊後編 下巻』
訳注/村上直次郎 発行/帝国教育會出版部 1936年
『高城戦記 九州の関ヶ原はどのように戦われたか』
著/山内正徳 出発/鉱脈社 2008年
歴史群像シリーズ 戦国コレクション『裂帛 島津戦記』
発行/学習研究社 2001年
ほか